55

 それから、部屋の中にどれほどの時間が流れただろうか。
 恐らく然程長くはなく、短くもなかっただろう。時計の音もなく、窓も締め切られた部屋の中では実感が湧かなかった。

 死んでほしくないなんて、言えなかった。
 だって目の前にいるのは、私ではない誰かのために命を捧げる覚悟を持った人だったからだ。私が何か意見をするのは、ただの自惚れであるかのように思える。だから、彼と少しだけ世間話をした。今までに付き合ったのはどんな人であったのかとか、楽に作れる料理のレシピだとか。そんなくだらないこと。とりとめのないこと。
 けれど、話すうちに、もしかしたら――彼と組織の中で出会ってなければ、こんな話をたくさんしたのだろうかと思えてきて、ジワジワと悲しくなった。私の歯切れが悪いことを気づいたのだろう、スコッチは少しだけ誤魔化すような笑顔を張り付けていた。

 たぶん、彼と会うのはこれが最後になる。

 分かっていた。分かっていたから、どうやって送り出すのが正解か迷った。笑えば良いのか、泣けば良いのか、何も言わないのが良いのか。けれどどの方法で送り出したとして、彼はまた人が好さそうに笑うのだろうなあと、何故か想像できた。

 ――彼の言うアイツが、私だったら良かったのに。

 そうしたら、今すぐ死なないでって腕を掴んで懇願しただろう。
 私はそんなことを望んでいないと、彼に伝えたことだろう。そこまでの関係にさえなれない自分が、少しだけ恨めしく、アイツと呼ばれる誰かに嫉妬した。
 ――私だよ、今となりにいて、貴方の遺言を聞いてるのは。
 そんなマウントを、知りもしないその誰かに届けてやりたくて仕方がなかった。悔しいなら今すぐここに来て、スコッチを縛り上げるなりなんなりしてほしい。

「……もうそろそろ、時間かな」

 スコッチは自分の携帯を眺めて呟く。
 そして、僅かに血が滲んだニットを被り直し、ぐっと伸びをしながら立ち上がった。軋みやすいベッドはそれだけで僅かに音を立てる。私は慌てて立ち上がって、ぐっと彼の袖を引いた。――無意識だ。引き留めようと思ってしたわけじゃないが、心の奥の本音がそうさせたのかもしれない。

「首尾よく、頼むよ」
「……あのさ、スコッチ」
「君はオレを恨むだろうが――オレは、君に会えて良かった。そうじゃなければ、死んでも悔いや未練ばっかりが残っていただろうし、何より少しだけ明るい気持ちになれたよ」

 スコッチがそう言うものだから、私は再び口を結んだ。そんな風に、言い逃げしようとするところが、彼のズルいところだ。私は何も伝えられていないのに。
 けれどやっぱりどうやって見送れば良いのか分からなくて、私は袖を引いたままスコッチを見上げた。

 彼は気まずそうに私を見下げ、数度瞬いてから表情を強張らせた。先ほどまで浮かべていた笑顔を打ち消すように。


「そんな顔するなよ」
「するよ。そうしたら、ちょっとでも迷いが生まれるかもしれないから」
「なるワケないって、分かって言ってるだろ」


 図星だ。分かっているけれど、せめて彼の良心の一ミリでも利用できないものかと涙を滲ませた。――本当は、それも嘘。涙は勝手に滲んだ。ただ、そんな風に涙に訴えても彼が立ち止まらないことなど知っていたので、そういうことにして強がった。

「変な人だな、どうしてオレをそう構うんだ。あんなに厳しいことを言ったし、今だって君に酷なことばかりさせようとしているのに」

 ぎゅうと袖を掴んで離さない私の指を見遣って、彼は問う。振り払おうとすればできただろうが、そうはしなかった。彼の表情に笑顔はなくて、涼やかな瞳が厳しそうに細められる。知っている。彼は感情を隠す時に、そうやって表情をなくすのだ。

「どうしてって、そんなの……」

 そんなの、何だろうか。
 私は、どうして彼を止めようとしているのか。
 だって――それは、スコッチに死んでほしくないから。どうして、今までそんなことに感情を動かすことなんてなかったじゃない。言葉に詰まって、一度俯く。ふと、彼の裸足の指先が見えた。

 彼の足の指は、親指だけが他のものよりとびぬけて長い。
 知っている。その指を、頼りなさそうにソファの上に引き寄せる仕草。もぞもぞと、指同士を擦り合わせるようにすること。

 寒そうに親指を動かす彼の仕草を見て、私はバっと顔を持ち上げる。滲んでいた涙が、パっと横に流れた。


「そんなのっ――!!」


 そんなの――。

「そんなの、君のことが、好きだからだよ……」

 言葉にする唇が震えた。
 ああ、言ってしまった。認めてしまった。この間騙されたばかりなのに、馬鹿な奴だ。こんなのだから、簡単に強い人間に搾取されてしまうのだ。私を傍から見つめる、もう一つの視線が嘲笑った。 
 袖をつかんでいた力が抜ける。指を離すと、スコッチは乱れた私の髪の毛を耳に掛けた。そうすると、彼の冷たくて固い指先が、私の耳の淵を擽るの。知ってる。知っているから、失いたくなかったのだと思う。

 じくじくと胸が痛んだ。
 沈黙が何度も鼓膜を刺して、痛くてしょうがない。スコッチがどんな顔をしているのか、確認するのが嫌だった。指先が頬を掠める。肩の力が抜けないまま視線を落としていたら、スコッチが先に口を開いた。

「向いて」

 向いて、の意味が最初はよく分からなかったのだ。こっち向いて、って言ってくれれば良かったのに、こういう時ばっかり言葉が足りないものだから。
 私の反応が遅かったからか、手のひらが両頬に当たって、挟みこむみたいに少し上を向かされる。固い唇が、慰めるように涙の筋を辿るように目じりに触れた。目じりから頬へ、頬から顎へ。流れた涙の跡を、ゆっくりと下がっていく。


「……そこで、キスしないあたり、すっごくズルい人だと思わない?」


 ジっと彼を見つめながら呟くと、小さく肩を竦めてスコッチはキスを落とした。
 ――生きている。
 触れあった唇の冷たさも、口内のぬるさも、すべて彼が生きている証だ。そう思ったら、愛おしくてしょうがなかった。

「――最後にキスするのも、ズルい気がして」

 スコッチは言い訳がましく薄っすらと瞼を持ち上げ、僅かに頬を染めた。素直に恥ずかしくて出来なかったとでも言えば、まだ可愛げがあるのに。「偉そうに言うな」と不満を零し、今度は私から彼の唇に触れた。

 こんなにも浅いキスは初めてだ。
 お互いにファーストキスみたいな、そんな触れ合うだけのキスだった。乾いた唇が少しだけ湿って、唇を離したら彼は少し下唇を巻き込んで引き結んだ。
 

「ごめん」

 
 浮かせた踵を絨毯に着けた後、彼は申し訳なさそうに、掠れた声色で一言だけそう零した。何に対して謝ったのだろうか。私に後のことを任せることを謝ったのだろうか、それとも、私の懇願を受け入れることができないことを謝ったのか。もしかすると、そのどちらともかもしれないと思う。

 私は少しだけ口元に笑みを浮かべ、首を振る。もう良いよと、彼を許すように。
 扉を出てエレベータを降りる。外に出ると、思いのほか眩い日差しが目をつんざいた。太陽の位置からして、正午前だろうか。

 スコッチと別れる間際に、私は彼の瞳を見据え、「一つだけ良い?」となるべく重々しくならない声色で尋ねる。スコッチが小さく首を傾けたのを見て、その瞳孔の動きの一片すら見逃すまいと、ジィっと見つめながら問いかけた。


「……萩原研二って、知ってる?」


 ――それは、あの新聞記事で見た被害者の名前だった。幾人かいたが、松田が「ハギ」と呼んでいたから、特定は容易かった。
 見つめながら尋ねる私の顔を見て、彼はニコ、と口角を持ち上げてそのまま首をさらに傾ける。

「さあ、知らないな」

 ――淡々と答えた。私はそんな彼の表情を見つめたまま、何度か頷いた。「そっか、ごめんね」、踵を返す。知っている。彼が決定的な嘘をつくとき、少しだけ視線を落とすこと。恐らく、右上を見ないように目線をコントロールするクセなのだろうと思う。知っているから――。


 私は携帯を片手に握りしめた。
 諦めるわけがない。私に好きだと自覚させたことを、絶対に後悔させてやる。
 だって、君が教えたのよ、スコッチ。最後に自分の足を動かすような、大切なものを見つけろと、言ったのはそっちなんだから。仮にもスパイを騙るのならば、私の今の歩みを進めるのが、最後に触れた冷たい唇の体温であることを、少しくらい反省したほうが良い。