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 街角にある煙草屋で、キャメルのカートンを三つ。
 松田との連絡手段として決めたものの一つである。その煙草の一本を、隣の酒缶を売る自販機の足台に縦向きにして置いた。横は緊急招集、縦は証拠入手、斜めは相談必須。松田は必ず午後三時に、この煙草屋で「キャメルのカートンを三つ買った女を知らないか」と聞き込みをする手筈になっていた。恐らく、店主にも私の姿は印象深く映ったことだろう。

 待ち合わせは聞き込み翌日の正午――だとすれば、明日の正午か。
 スコッチの話しようでは、いつ彼に疑いがかかるかも怪しいところである。考えろ、何が優先で、何が必要であるか。
 私にはスコッチと、もう一人話さなければならない男がいる。恐らくだが、スコッチの前に私が疑いを掛けた男だ。あの時、確実にビルの爆破事件を知っていたであろう男。その男と話をつけるために、私はズカズカとマンションへ足を向けた。


「――はぁ……!?」


 そして、意気込んだ体の力が抜ける。
 キッチンのカウンターに浅く腰を掛けて煙草をふかす男は、ため息交じりに白い煙をくゆらせた。そんなところで吸って、火災報知器が作動したらどうするつもりだろうか。それとも、そもそも銃火器を扱う彼らにとって邪魔なそれは作動しないようにコントロールされているのだろうか。それはそれで恐ろしい話である。

 私が間抜けな声を零すと、ライは鋭いグリーンアイを眠たそうに細めて私を見遣った。そして私の言葉を黙らすように、煙草を挟んでいた人差し指を軽く自身の唇に押し当てる。横側から見ている私にしか分からないほど、静かに、ちょんっと軽く触れただけだ。
 ――だが、その仕草にギクリとした。
 まるで、誰かにバレないように――私が松田に送った暗号のように、隠れたメッセージを送っているかのように思えたからだ。人間というのは後ろめたいものがあると余計にそちらに意識がいってしまうもので、それは私も同じだった。

 どういうことだろう。

 静かにしろというメッセージなのか、何かに注目させたいのか。ひとまず口を引き結び、周囲の物に視線を配る。ざっと見た限り、カメラの位置は変わっていない。もう一度ライのほうに視線を送ると、奥の部屋からけたましい物音が聞こえた。

 誰かの声――。男のものだ。
 二人が言い争うような怒鳴り合う声が響いた。ライはここにいるのだから、彼ではない。とすると、一人は私が目当てにしていた男だろう。――しかし、もう一人は。スコッチではないだろう。まさかあの後にマンションにわざわざ戻るような男とは思えない。

 私が驚いて声が響く方へ振り向くと、ライはつま先を軽く二度、トントンと鳴らした。ぱっとライのほうへ視線を戻せば、ふうっと息を零しながら煙草を構えた腕をカウンター側へと下ろした。そして、小さく顎をしゃくる。声の響く方とは反対側の、カウンターの影だ。

――隠れろ、ってこと?

 暫くは意図が掴めず立ち尽くしていたが、今はひとまず彼に従うことにする。少なくとも、ここ暫くは同じ屋根の下で暮らしていた身だ。滅多なことでなければ彼は人に指図しないし、指図されない。指にはめたトゥーリングが鈍く光る。
 ライの奥にあるカウンターの影に身を隠す。暫くすると奥の扉がバンっと勢いよく開いて、ライが煙草を消したのが分かった。そしてわざわざ目立つようにリビング側へと移動した。

 荒々しい足音は、私が聞き馴染んだ誰のものでもなかった。
 
 とはいえ、キャンティのものよりは重々しい。だいぶ体躯の大きな男であることが、その音だけで実際に見たかのように把握できた。「いっ」、鈍い声。

「何も、殴ることはないでしょう。噂には聞いていましたが、気性の荒い人だ」

 バーボンだ。
 もう一人、恐らく私の知らない誰かがいる。ライの行動はもしかするとその人物から私を隠すためだったのかもしれない。その理由までは考えることができなかったが、今は彼の恩恵に甘えることにする。

 なるべく息を殺して、顔を覗かせないように音だけで彼らの話を窺う。ライは興味なさそうに、口を出すことはしない。


「新入りがデカい顔するもんじゃねぇぜ、バーボン」


 足音と同じような、重々しい声。
 別に声を荒げているわけでも、その内容がおぞましいわけでもなかった。けれど、寒気がするような声だった。話すだけで威圧感があるような、ゾっと背筋が凍てついていくような、おぞましく掠れた色。地の底にいる悪魔が話したとしたら、きっとこんな声をしていると――そうも想像できる。

「何度も言いますが、連絡は取り合っていません。どうぞ、携帯でも何でもご自由に……」
「フン、自分だけ特別みてぇな態度が気に入らねえ。早死にするぞ」
「憶測だけで物騒なこと言わないで貰えますか。彼は昨日此処には帰っていませんし、ライにも聞いてみたらどうです」

 少し喋りにくそうにも聞こえるのは、殴られた所為かもしれない。殴られた後って、あんなに口の中が血の味でいっぱいになるのだと、この間実体験したばかりであった。
 バーボンの口ぶりでは、どうやらスコッチの居場所を探っているのだろうと思う。あの怪我をしていた日、もしかするとバーボンもまた関わっていたのかもしれない。ライが責め立てられずに彼にのみ言及が行き届いているあたり、それなりの理由があるはずだ。

「おい、人を巻き込むな」
「さっきから煙たいんですよ、大体そんなところにいて……」

 ビービーと警報が部屋に鳴り響く。
 その音にビクリと肩を跳ねさせてしまったが、恐らくその警報音に紛れて聞こえてはいなかっただろう。――なんだ、火災報知器、機能していたのか。ぷしゃっとスプリンクラーが水しぶきを撒き散らす。

「鳴っても知りませんよって言おうとしたんですが」
「……悪いな、アメリカじゃこんなことはないんだが」
「兎に角、そのうち消防が来るでしょう。逃げも隠れもしませんから、ひとまず引いてくれませんか」

 大男は一つ舌を打つと、忌々しいという感情の籠った声で「バーボン」と彼を呼んだ。

「逃げられると思うなよ」
「だから、逃げません。何なら僕が裏切り者の首を上げて見せます」
「はっ、どうだかな……」

 嘲笑を零し、男の足音が遠ざかる。玄関を乱暴に閉める音が響いて、暫くは沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは、バーボンだ。私を覗き込むようにしてカウンターから顔を出した。

「すみません、平気でしたか」

 いつものように柔く微笑んだ彼の頬は、痛々しく殴られた跡がある。今はまだ赤くなっているが、そのうち鬱血して青々しく変わることだろう。口の中が切れてしまったのか、口を開くときに口内が真っ赤に染まっているのが見えた。スプリンクラーで濡れたらしいブロンドから、雫が落ちる。

「え……見えてたの?」
「あはは。警報機が鳴った時に、足が飛び出たのが見えました。ああ、あっちの男は気づいていなかったので大丈夫ですよ」
「そんな、よく吃驚しなかったよね」

 いきなりあんなに大きな音が鳴り響いて、驚かないほうがどうかしている。
 私は立ち上がりながら感心すると、バーボンは呆れた風にライを横目で見遣った。軽く肩を竦め、ふぅー、とわざとらしいため息をつく。


「そりゃあ、分かってましたから。コイツがわざと煙草吸ってるのはね」
「何の話だか」
「冗談キツいですよ。アメリカで慣れてないですって? 向こうは建築物に火災報知器をつけるのは義務づけられてますし、日本より厳しいのに。よくいけしゃあしゃあと言ってのけたもんです」

 
 ライも水滴に濡れた髪を鬱陶しそうに掻き上げ、一度鼻を鳴らした。
 私には、何が何だか分からない。恐らくだが、先ほどまでいた男は組織の人間だったはずだ。どうして私を隠したのだろうか――バーボンとライ以外に、スコッチの行方を知っているだろう人物として、真っ先に上がるのは私のはずだ。

「ていうか、消防来るって……」
「来るわけがない。あんな完璧なタイミングで火災報知器が反応すると思っているのか?」
「それはそれで、面白いけど。ライが勝手に一人でずぶぬれになってるってことでしょ?」

 バーボンがぶふっと噴き出した。ライは苛立たしそうに片眉を吊り上げる。「なあ、バーボン」と珍しく挑発的に肩を竦めたライに対し、バーボンはまだ笑いを小さく零しながら私に向かってウィンクを一つ飛ばしたのだ。
 ――なんだか、この空間で何もわかっていないのは私だけみたいで、無性に腹立たしいことである。