ひとしきりスプリンクラーが回り終えた後、ライは思案するようにしけった煙草を咥え続けた。バーボンもまた、携帯に軽く指先を滑らせると、私に向き直る。
「しかし、そうですか。スコッチにノックの疑いが……」
「ジンのあの性格だ。俺たちもその尻尾を掴まなければ、巻き添えを食うかもな」
私はライの言葉にギクっと身を強張らせる。
――それはそうだ。当然のことなのである。
彼らは決してスコッチの仲間である以前に、組織の仲間だもの。ただ、心のどこかに一片の希望がある。彼らならば――もしかしたら、スコッチのことを話せば、手を差し伸べてくれるのではという希望だ。
私の予想では、まずバーボンは確定していた。あの時、ビルの爆破現場を眺めていたのはバーボンだったからだ。もし松田の言うことが正しければ、そしてバーボンが言っていた事件のことがあの新聞の切り抜きと一致するのならば――彼の言う知り合いは、警察官の誰かのはずだ。
もしかすると、とりつくシマがあるのではと思った。
彼の同情を引ければ何より、そうでなくとも、事件のことを材料に交渉できるかもしれない。なんとか協力者になりえないかと思っている。
だが、ライはどうだろうか。
不思議な男だ。猫――というよりは、ライオンか。気まぐれで掴みづらく、だが牙を剥くときは容赦がない。あの恋人らしき女への対応を見る限り、根は情のある人ではないのではないかとも思うのだが。
私の知ることを話そうとするには、少々リスクがあるような気がした。悪い男ではなくとも、先ほどの彼の口ぶりだと、自分のことを最優先に考えているように思える。――けれど、私を匿っていた。それが果たして共に暮らしていたことへの情なのか、自分への利益を考えたのか、単純にあの大男を嫌っていたのか。それが掴めなかった。
ならば、ここで話を切り出すのは得策ではないのではないか。
そうこう考えているうちに、バーボンとライの話はまとまりつつある。互いに彼の身柄を捉えるべく、スコッチが辿るであろうルートを考えているようだ。
――ここで切り出して、もし協力してくれなかったら。
そうしたら、私のしたことは全て無駄になる。スコッチの考えていた作戦すら組織に筒抜けとなれば、互いに無駄死にとしか言いようがない。慎重にならなくては。そう、慎重に――。
ふと、落とした視線の先で、私の指先が震えているのに気づいた。
その指先に、スコッチが凭れた肩の冷たさを思い出す。死ぬことが怖いと零した、小さくなったような彼の姿だ。
――……怖いな。
悪夢から逃れるようにギュウと瞼を閉じて、呟く声。震える指先に、彼が生きている音。ああ、彼はこんなものと戦っていたのか。私は、私は、死ぬのが怖いのか。
そっと手のひらを握りしめてみる。
本能が怖気づいていた。ずっとそうやって生きてきた所為だ。ほら、まだ間に合うんじゃない? 今なら、組織にスコッチの情報を渡せば、自分だけは見逃してもらえるはずだ。それは違う、私の本心ではないと思っても、あと僅かな勇気が足りない。スコッチはそんなこと望んでいなかったもの。大丈夫、誰も私を恨んだりしない。
「……ミチルさん?」
声色はまったく異なるのに、スコッチと同じ呼び方にぎくっと表情が強張った。
しまった、と後悔したときには、バーボンが僅かに眉を吊り上げている。怪しまれていると、すぐに察した。
「知っているんですね」
「……それは」
「僥倖だな。さすが名の知れた情報屋だ」
ライが皮肉そうに、二度手を打った。自分の手柄を取られたことを悔しがっているようだ。
ちゃんと考えろ! 指先を震わすな!
体を叱咤して、この状況をなんとかしようと考えてみるが、目の前に差し迫った死という恐怖が私の指先を勝手に震わせるのだ。ライが持っていた黒い拳銃が脳裏に過る。
この間恋愛で失敗したばかりじゃない。人を好きになるなんて、馬鹿らしいと思ったでしょう。誰かのために犠牲になるなんて、私らしくないよ。
この世を回すのは、金と知恵だけ。
弱い立場に追いやられたら、搾り取られて捨てられるのだ。今がまさにその立場である。情報を渡す時に、私が優位に立つならば報酬を得て交渉するまで。ただ、スコッチを助けるならば私が劣勢だ。それは交渉でもあり、同時に懇願であるからだ。
――今からでも遅くない。やめておけば良い。
幸い、ライもバーボンも私を疑っているようではない。ベルモットに電話をかけたって良い。彼らは逆らわないだろう。
悪魔なのだか、天使なのだか。私にとってどちらか分からない囁きが頭の中に渦巻いて、気が付けば息を止めていることに気が付いた。ハァっと溜まっていた息を零したのは、玄関からバン! と荒々しい物音がした所為である。
先ほどの男よりも焦ったような様子で、パタパタと廊下を走る足音。
二人の意識が途端にそちらに向いたのが分かった。ピン、と張った空気がリビングを占める。ドアノブがぐっと下げられて、押し開けられたドアから響いたのは、想像していたものとは少々異なる声色だった。
「――ッ大くん!!」
漆黒よりも、少しばかり茶がかった髪が躍った。よほど走って来たのだろう、はらっと舞った涙の粒が目じりから横向きに流れた跡がある。細い指先が必死に伸ばされて、一目散に真っ黒なライダースへ縋るように触れた。ぎゅう、とその胸元に鼻を摺り寄せ、もう一度だけ彼の名前を呼んだ。
縋られたほうの男――ライは、驚いたように目を見開き、彼女の名前を零す。次の瞬間、今まで見たことのないほど顔を歪め、ライオンが威嚇でもしたかのように恐ろしい表情で声を荒げた。
「自分が何をしてるか分かってるのか!」
窓が震えたかと思った。それほどに、ライの一吠えは威圧感があり、怒鳴られていたわけでもない私がピクリと目を細めてしまうほどだ。それなのに胸に飛び込んだ女は怯むことさえなく、ライをキっと睨み上げた。
「分かってるわよ!!」
ライに負けじと張られた声色に、今度はライが押し黙った。ハラハラと流れる涙は、ようやくのこと綺麗な輪郭を辿りはじめる。鼻が赤い。外は寒かっただろうに、上着も羽織ってはいない。部屋の中で着ているような、カジュアルなワンピースのままだった。
「分かってるけど、足手まといかもしれないって、そうも考えたわよ……」
「……明美」
「ジンが、大くんのところに向かったって……聞いて、怖かったの。最近、裏切り者に躍起になっているのは組織でも有名だもの。だから、もしかしたら大くんが、殺されるんじゃないかって――もう、会えないかもって……」
「お前まで殺される。有用だと思わない人の命なんて、どうとも思っていない男だ」
ライは明美と呼ばれた女――私を車で送ってくれた、あの日の女性だ――の頬をそっと拭った。呆れた中にも、どこか愛おしさを含むような柔い声と、揺れるグリーンアイが彼女への想いを真っすぐに語っていた。
「そうしたら、あの子を一人にすることになる。俺もそんなことを望んでいない」
「でも、足が止まらなかったの。早く行かなきゃいけない、もう会えなくなっちゃうからって……気が付いたら走ってたわ。ごめんね、ごめんなさい……」
彼女は煙草の香りがするだろうシャツへ額を押し付け、苦しそうに嘆いた。
「貴方のことが好きなの、大切なのよ……」
――人は、大切なものがあると強くなれる。それは弱点にもなるけれど、最後に自分の足を動かすのは、その心だよ。
綺麗だ。
初めて、心から人を尊敬した。彼女は、そうなのだ。スコッチと同じで、ただ大切な何かのために、自分の命や立場などかなぐり捨て走ってきたのだ。服装は華やかでもないし、髪だって整えられておらず目も泣きはらして、頬や鼻先は寒さに赤らんでしまっている。いくら彼女が美人だとは言ったって、お世辞にも身綺麗とは思えない。
だけど、綺麗だと思った。
同じくらい、目の前の彼女と同じくらいに、『アイツ』という存在へ想いを馳せるスコッチに嫉妬を抱いた。内心、ここで嫉妬心が湧くあたり、私は彼女のようになれないと呆れる。
「……バーボン!」
しかし、心は決まった。心の囁きなどいらない。私は男の手を、ぐっと引いた。もう指先は震えてはいなかった。