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 ――十二月七日、午後四時ごろ。

 私はゆっくりと深呼吸を繰り返し、煙草を片手に店の前に立っていた。
 髪も整えて、出来る限り物の良いワンピースを着る。微塵にも、相手に劣った人間だと思わせない為の僅かなカモフラージュだ。大丈夫、落ち着けばできるはず。僅かに早く鳴る鼓動を隠すようにもう一度だけ大きく息を吸った。

「おい」

 ――声を掛けてきた男に、気だるげに顔を上げる。
 勿論、演技だ。ここに来ることは分かっていたし、私がそうするように話したのだ。だけど、あまり下手に出ることはない。私はあくまで彼らの取引相手であり、取引をしに来た女だ――そう思わせなければ。

 顔を上げると、二人の男が立っていた。
 一人はサングラスを掛けたガタイの良い男。二人とも背丈も体つきも大きかったが、こちらの男のほうが熊のような印象を受ける。私に声を掛けてきたのは、彼のようだ。
 もう一人は、ポケットに手を突っ込んだまま押し黙る、老人のような白髪を腰まで靡かせた大男だ。声こそ聞こえなかったが、すぐに分かった。


『良いか、多分来るのは二人組だ。一人はジン、さっき部屋に押しかけてきた男だ。組織の幹部で、疑り深く鼻が利く。もう一人はウォッカ、ジンの腰ぎんちゃくだ。これといって取柄があるわけじゃないが、基本的にはジンの言うことしか聞かないのが厄介だ』


 事前に聞かされた情報を目の前の男たちを重ね合わせ、私はニコリと微笑んだ。そして、穏やかに手を差し出す。

「こんばんは、ウォッカ。それにジン。お目に掛かれて光栄よ」
「世辞は良い。はやくモノを寄越せ」
「そんなに急がなくても良いんじゃない? どのみちノックは袋のネズミってわけだし……」

 肩を竦めて笑うと、ウォッカは苛立たし気に口を尖らせた。心の奥では身を縮こまらせたが、腕を組んで軽く顎をしゃくる。店の奥に行こうという合図だ。こんなところで帰らせてはいけない。彼らには渡すべきものと、話すべきことが残っているのだから。

 店は彼らが指定した場所だ。ここまではライの予想通り。取引にはよく使われる店らしい。VIP用らしい個室に通されて、益々脈が早まった。目の前にどっかりと腰かけた二人の男に目を配る。

 ウォッカは確かに威圧的な態度を見せていたが、どこかジンの顔色を伺っている部分がある。先ほども苛立たしく思いながら私の言葉に従っていたあたり、ジンのGOが無ければ手は出さないと見た。
 ジンは――分からない。部屋に押しかけた時にはあれほど怒りと威圧感を露わにしていたのに、今は押し黙って帽子を深く被ったままだ。私を目線を合わせることもなく、ただそこに居た。居ただけなのに、ウォッカよりも余程恐ろしい男だというのが本能で分かる。ピリピリと肌を刺すような雰囲気と、ねっとりと足元を掬う泥のような嫌悪感が立ち込めた。

『ジンは鼻が利く。頭が回るとは少し違うが、嘘や繕ったものを見抜くのは上手い。奴を騙そうとは思うな』

 成程、彼が言っていたことが分かるような気もする。
 立ち襟から覗いたしっかりとした鼻筋は少しだけ物語に出てくる化け物じみた雰囲気をかさまししている。

「……で、例の情報は?」
「その前に報酬でしょ。一千万円だったわよね」
「噂に違わずがめつい女だ」

 ほら、と彼は手に持っていたアタッシュケースを机の上に並べた。その中身を確認させようと蓋に手を掛けた時、初めてジンが手を出した。開きかけた蓋を、バタンと乱暴に閉ざしたのだ。
 私が視線を彼に向けると、ジンはくすんだグリーンアイで睨みつける。――まるで、獲物の動向を伺う獣の視線だ。

「そりゃ、話が違うなァ」
「……何の話が違うって? ノックの情報を調べて渡せば、一千万円。そういう取引だったはずよ」
「こっちでもある程度調べはついてる。まさか、スコッチの情報一つで逃げおおせる気か?」

 それは、ハッタリなのか、そうでないのか。
 私はこちらを睨み上げる彼の顔をジっと見つめ返した。ある程度、ね。私は口角を持ち上げて、足を組みなおす。

「そのある程度っていうのは、彼が裏切り者だってこと? まさか、そんなことに今更気づいたとでも?」
「なんだと、このアマ……!」
「ウォッカ」

 腰を上げかけたウォッカを、彼は微動だにせず言葉だけで収めた。煙草を一本取り出し、マッチを擦る。銀座のキャバでもなきゃ今時マッチで火を点ける男など見ることもない。彼の雰囲気と同様に、独特で嫌悪感を抱く香りが部屋に燻っていく。

「まるで最初から知っていたって口ぶりだな」
「そりゃあ、すぐに調べはついたわよ。ただ、もう少しだけ面白い情報がないかって調べてただけ」
「ホォー……それで?」

 分かっている。今は、ジンと私の取引きだ。
 動揺など気取らせない。あくまで私が有利な方向へ。時に下手に、時に上手に。彼が築いたものをぼったくるのだ。対等などではない。だって、私は詐欺師なのだから。

「うーん。でもそれだと、ホラ、最初の取引とは変わっちゃうじゃない?」

 指を唇の横に添えて、勿体ぶってやる。バーボンを殴っている所を見た限り、短気な男だ。挑発するようにニヤニヤと笑うと、彼は目を細くした。一瞬、下瞼がひくつくのを見逃してはいない。

「ベルモットから金額を上げたことは聞いてんだぜ」
「でも、それは契約期間の話。私が得たのはあくまで、裏切り者を特定してほしいって話だったでしょう。ホラ、欲しかったらあげるわ」

 ぽいっと放ったのは、スコッチが用意した携帯とカメラの映像が入ったUSBである。中身を確認したが、彼が裏切り者だと分かる証拠には十分なものの、その身元に関することには触れていない。恐らく、メールや電話の履歴は出鱈目であろう。

 ウォッカはそれを拾い上げ、ジンを振り返った。苛立たし気な革靴の音が、一度トン、と床を叩く。――舐められていると分かっているのだ、彼は。本来ならば取引すら、彼のような上の立場の人間が出てくるものでもないのだろう。それだけ、裏切り者探しに躍起になっているのが分かる。


「まあ良いんじゃない? スコッチは殺しちゃえば。どうせ組織の人間じゃないんだもの……ぱっと殺して処理しちゃって、ハイおしまい。私の仕事もここまで」
「何が言いたい」
「怖い顔しないで、私は組織の未来を想って助言してあげてるのよ。ふふ、まあここで私を殺せば、その情報はどこにも残していないけれど」


 今度は私のハッタリだ。念には念を。分かったと了承してから銃を取られてはかなわない。ジンは相変わらず気に食わなそうに顔を歪めたものの、煙草の灰を灰皿へ落とし、重たそうな煙と共に「条件は」と吐き出した。

「金なら、五千まで出す」
「それも魅力的だけど……。そうねぇ、じゃあまず外にいる車。多分、仲間でしょう。引き上げさせてくれない? 向かいのビルにいるスナイパーも、全員」

 ジンは軽く鼻を鳴らしてから、ウォッカに軽く手を払うような仕草を送った。すぐにウォッカが無線らしい機械を使って、「全員退避だ」と外へ連絡を送る。
 私はそれを聞いてから、ぐっと彼らのほうに体を乗り出させた。ラメの入ったアイシャドウが、照明を受けるように瞼を少し落とす。

「良いわ、教えてあげる。でも情報交換よ」
「兄貴!」
「黙れ、ウォッカ。……もしどうでも良い情報だったら、命はないと思えよ」
「勿論、有用ですとも」

 ニコ、胡散臭く商売人の顔を表情に乗せた。
 これで良い。じゅうぶんに情報への興味は引っ張り出せた。あとは、一日――否、一晩だけでも私の言う情報への信憑性を高めるだけだ。彼の、スコッチの逃げ道を作るためだ。

「私が聞きたい事は一つ、宮野志保の居場所を教えて」
「断る」
「別に取って攫おうってわけじゃない。この間看病をしてくれたでしょう、こういうことには借りを作りたくない性質なの。あとから何を引っ張られるか分からないもの」

 それから十分ほど、押し問答を繰り返した。ジンはこれに限っては思いのほか頑固な男で、中々ウンとは言わなかった。最終的に、宮野志保に私の居場所を伝えるという条件で首を縦に振った。彼女のいる場所に、余程隠したい秘密があるのだろうか。

 私はジンに渡された電話番号に、ショートメールで住所を打ち込み、彼に向き直る。そして懐からこの話を持ち掛けた男の手帳を取り出した。そう、これはジンとの取引でもあり、とある男との取引でもあり、スコッチとの取引でもある。


「スコッチにはね、協力者がいるの。つまり、裏切り者はもう一人いるってこと」


 にこやかに微笑み、煙草を一本取り出した。そして彼を真似るように口の端に咥えて、ライターで火を灯す。――全員、私に取引を持ち掛けたのが間違いだと思わせてやる。心の中に、沸々と湧くのは果たして勇気だと呼ぶのか。それにしては欲望じみた、ゾクゾクと駆けあがる快感にも似ている。
 すでに心から恐怖は取り除かれていた。あるのはただ、目の前の男をいかに騙してやろうという醜い期待だった。