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 ジンが視線で合図を促すと、ウォッカが険しい顔で手帳を拾い上げた。
 内容を開くと、サングラス越しでも彼が目を剥いたのが伝わる。見るからに口元を戦慄かせて、彼は「兄貴」とジンへ手帳を手渡した。そりゃあ、驚くだろう。今のウォッカなど比べようもないくらい私だって驚いた。あの男は静かにしろと言わんがばかりにため息をついたものだが。

 ジンはそれに目を通すと、一瞬呼吸の乱れを含んでからこちらに視線を戻す。私は先ほどジンが灰を落とした場所にグリグリと煙草の頭を擦り付けて、フゥー、と天井に向かって煙をふかした。

「……確かなんだろうな」
「ええ、勿論。確認してみたら? 本名で調べればすぐ出てくるから」

 髪を耳に掛けながら肩を竦める。ジンは暫く、私のことを観察するように視線を動かさなかった。――理解できる。私もそうだ。カマを掛けたり発言を疑う時は、その一挙一動をよく観察する。ある程度の表面はカバーできても、一瞬の隙に本心が零れる人間は多い。瞬きの回数や視線の向き、呼吸や唇、眉、指先に至るまで、生きているそのものが情報源だ。
 誰かから習ったものではなく、経験を重ねてきたからこそ分かる。特に相手が自分と同じような、悪党であれば尚更思考も掴みやすかった。
 
 ――当たり前でしょ。私が分からないのは、今までで唯一、あの男だけだもの。

 恋が盲目だというのか、それとも私はとは本質的に異なる彼を理解できていないだけなのかは分からない。しかし、今目の前にいるこの男の一人くらい騙せなければ詐欺師の名が――彼に恋をした女の名が、泣く。

 私は睫毛の先の動きまで気を配り、ジンを見つめ返した。そしてゆっくりと唇を動かす。できるだけ余裕たっぷりに、しかしあまりおちゃらけすぎないように。瞬きは少なめで、手は組んだ足の膝に掛けた。


「ライ――、本名は赤井秀一。彼はFBIのスパイ、紛れもないノックの一人よ」


 投げられた手帳には、彼の身分証が入っている。ジンはそれを握りながら、きっとこう疑っている。【手帳くらい、偽造でも作れる】――。だが、同時に葛藤しているのも見える。太い人差し指の先が、握った手帳の裏をトントンと叩いていた。
 だって、もともとノックの疑いがある三人を同じ仕事に着けさせたのだから、葛藤するのは当たり前である。ジンから見れば、元より鼻につく男の化けの皮が剥がれたような、妙に納得する部分もあるに違いない。

 ――それに、この話に嘘は紛れてはいないから。

 ライの本名は赤井秀一であり、紛れもなくFBI捜査官の一人。
 それは本人の口から証言された、今回の取引材料であった。ライからの交渉材料はただ一つ。宮野志保の居場所を特定すること。そして、今後手に入る組織の情報をFBIと共有すること――これは私ではなく、他の人間に託されたものであるけれど。

 ウォッカは動揺している。同時に、早くジンが指令を出してはくれないかとソワソワしているようだった。ジンは相変わらず手帳と私を見比べていたが、五分ほどの沈黙を経て、ウォッカに指示を出した。今すぐFBIの情報と照合しろと――。

 私はおくびにも表に出さないように、心の奥でほくそ笑んだ。

 その言葉が出た時点でジンの心は此方に傾いたのだ。
 疑わしきは罰せよ。ライから聞いた彼の心訓。彼に中間色はない。白か黒か、ハッキリとつけたがる性格。ウォッカにその情報を確認した時点で、彼の天秤は完全に黒に錘を置いた。私の情報を信用したのだ。

「そうそう。どうやら、FBIで一人、内密に渡航させるらしいのよね」
「……スコッチか」
「さあ、そこまでは。でもそう考えたら辻褄が合うじゃない」

 ここまできたら、あとはハッタリだ。どうせジンにも情報がないのだから、盛大にふんだくってやろう。私への信用が傾いた今がチャンスなのだから。

「それで、きっとライは組織に深く潜るつもりだったのよ。スコッチを殺したって手柄だけを貴方に突き付けて。胸糞悪い話ね〜」
「ウォッカ、ライは今どこにいる」
「確かに、スコッチの後を追ってビルを駆けまわっているみたいでさ……」
「それ、追わないほうが良いんじゃない? ほら、スコッチってケッコーありきたりなアジア顔だし、フード被った適当な男に走らせとけばそれっぽく見えるもの」

 ぐっと襟を寄せて、フードを被るジェスチャーをした。彼がよく仕事の時にフード付きのものを着ていたから、その記憶を引っ張り出したのだ。

「きっと囮を使ってスコッチの渡航を隠そうとしてるのだわ。馬鹿なヤツ」
「適当な男の遺体を使って、奴はノコノコ戻ってくる手筈というわけか……」
「そういうこと。だから、ライを追うよりFBIの動きを追ったほうが良いんじゃないかしら……。これほど必死に逃がそうとするなら、スコッチだってFBIの仲間である可能性が高いし。もし彼が手に入れた情報を合衆国に流すなら、それはそれで厄介よ」
「簡単に言うんじゃねえ! んなすぐにFBIの……しかも一晩で内密に動く奴らの動向が探れりゃあ、最初からお前なんざ雇っちゃいねえぜ」

 ウォッカが険しい声色で愚痴を零した。確かに彼の言うことも最もである。私も小さくため息をついた。ジンのような勝気で上に立つ男には挑発を、ウォッカのような下っ端の男には同調を――大きな会社をターゲットにした時の基本である。

「でしょうね。私もライについての情報を掴んだのは最近だから、中々難しくて……。三人に注目するのは骨が折れたもの……。もっと大勢を取りまとめている上層部は尚更でしょう」
「当たり前ェだ。逐一個人の動きを観察してるほど暇じゃねぇ、よっぽど気に食わねえ奴でもない限り……」

 よしよし、良い食いつきだ。私がすべてを取り仕切っては、疑心が湧く。彼らの側にも気づきと指揮権を与えさせる。今なら自分たちで掴んだ情報は、僅かなものでも確信に変わるはずだ。点と点を繋いだ記号のように。パズルのピースが嚙み合ったように、しっくりくる筈。

 しかし、ウォッカは唸った。
 
 唸る一方で、その後の動きが鈍くてしょうがない。心の奥で「このウスノロ! でくの坊!!」と叫びテーブルをひっくり返したかったが、そんな苛立ちをジンの前で零すわけにもいかなかった。

 ――いるだろ! すぐ傍に!!
 外部の人間ではなくて、ライを目の敵にしていて且つ観察している情報源が!!!
 彼がFBIだと知れば真っ先に飛びついて引きずり降ろそうとしている探り屋が!!
 
 気づけと念を送ることはできたが、あまりヒントを出しすぎては誘導だと気づかれてしまう。グラスの淵をなぞり、ちらりとジンを覗き見た。彼は相変わらず、私の仕草を見つめている。

 その視線が逸れたのは、ウォッカの携帯が震えた時だった。彼は暫く相手と連絡を取り合い、苦虫を嚙み潰したように口元を歪めた。


「確認が取れやした。赤井秀一――ライの情報と一致した男は、在籍している……!!」


 その情報を耳にした途端、ジンはロングコートを靡かせ立ち上がった。テーブルに置かれていたいかつい灰皿を、八つ当たりするように床に投げ割った。ガラス製だった大きな灰皿が割れた破片を、彼は憎しみをたっぷり込めたようにブーツでにじり粉々にしていく。

 次に彼が煙草を食んで発した声は、今まで聞いたどのものよりも地を這うような、おぞましいような空気を纏っていた。彼は私の煙など可愛いものだと思えるほどに肺いっぱいにクセのあるそれを吸い込み、ハァ、と吐き出す。――獣そのものだ。弱い獲物を見つけた獣が、舌なめずりをするような吐息だ。


 ああ、彼は分かっていたのだ。
 恐らく私が誘導するよりも早くそれに気づいていた。だが、心にため込んでいたのだろう。裏切り者に躍起になっていると言っていたか。それは正しくもあり、少し言葉足らずだ。たぶん、嫌いなのだ。裏切りという行為を、その存在を憎んでいる。


「……バーボンだ」


 彼はそう吐き出し、獲物を狩りに行くかのように銀髪を靡かせた。
 ジンのことはは、彼に託すしかない。私はアタッシュケースを片手に、日の暮れた街を駆けだした。どうかまだ、あの人が無事に身を隠していることを信じて。