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「なんだ、コレ……」

 痛むわき腹を抱えながら、路地に身を隠しそっとしゃがみこんだ。暫く走り続けた所為か、応急処置のみで済ませた傷跡からは血が滲んでいる。冷汗がこめかみを伝った。
 逃げる足跡を追いかけるように身を隠す。勿論最終的には殺されても構わないと覚悟は決めているものの、堂々と死にに行くのは愚かだ。裏があると思われては釘宮に取引を持ち掛けた意味がなくなるし、何より一般人を巻き込むような場所にいたくはない。
 
 そう思い廃ビルを渡り歩いたのだ。ここら一帯の廃ビルは、スナイパーとしての仕事をライと続けていたおかげか大抵は頭に入っている。人目につきにくい場所、スナイパーに狙われづらいビル、シャッターが閉じている時にどこから侵入するかもシュミレーション済みだった。

 せめて夜、人気のない場所で死ねたなら。

 ――そう考えていた。けれど、日が暮れてくると中々思うように逃げられなくなった。組織の追っ手は今のところ姿を見せないが、他の目が厳しく光り始めたのだ。出動服にヘルメット、ネオンを跳ね返すライオットシールド。――日本警察の機動隊だ。
 どこかでテロかデモでも合ったのか。調べる術は今はなかったけれど、見つかるわけにはいかない。

 今は警視庁の在籍記録も削除しているし、そんな言い訳が組織の耳にでも入っては本末転倒だ。だが彼らの目を搔い潜るには、血の滲んだ服が邪魔だった。いっそ服を脱いで半裸で――? いやいや、そんなことしたら益々怪しい。判断力が鈍っているようだ。

 彼らの目を盗んで移動するルートは、幾多ある候補の中の一つだけで、少し塀の高いビルに潜り込んでようやく一つ息をついた。

「――ってえ……」

 シャッターを押し上げてガレージに身を隠し、どかっとその場に腰をついた。ごつん、とコンクリートの壁へ後頭部を押し付ける。このまま適切な処置を受けなければ、明日の朝には出血多量か、出血のショックで死に体だろう。

 ――それは、それで良いかもなあ。

 きっと眠るように穏やかな死だろう。オレに用意されるには勿体ないくらいだ。ポケットの中にある携帯電話は既にデータを消去しているし、残りは同じ公安警察である同僚にデータを引き継いだ。本当に、あまりに勿体ないくらいに完璧で心残りがない。

 彼女のおかげだ。
 すべては、彼女と交わした取引が僥倖だったと言わざるを得ない。出会いも同居も予想外ではあったものの、今となっては感謝の想いでいっぱいだ。

 ――彼女との仕事を任された時点で、裏切り者の疑いが三人に向けられているのは知っていた。
 
 スコッチ、ライ、バーボン。
 このままでは駄目だ。このままオレたちが動けずにいる時間が、世界の誰かを蝕んでいる。誰かが陥れられ、誰かが嘆き、誰かが命を落としている。その疑いを晴らすには、犠牲が必要だった。深く考えることはない、オレがその立ち位置にいけば、必然的に二人の疑いは晴れるのだ。――寧ろ、裏切り者を晒し上げれば組織の深くまで潜り込めるかもしれない。
 
 決して辛い道を選んだつもりはない。
 残されたほうが、余程厳しい道のりだ。こんな組織の仕事を、これから終わりも見えない中続けないといけないのだから。途中退場するほうが楽なものだ。だけど、それをアイツにさせるわけにはいかない。

 オレは、アイツにはなれない。

 自分を卑下してるわけじゃあないんだぜ。
 それでも、アイツにはなれない。アイツのように完璧な偽装をすることもできないし、アイツのように優れた洞察力もない。拳銃の腕前だって、知識の深さだって、日本を慈しむ気持ちだって、全部アイツのほうが上だ。だから、アイツが生き残るべきだ。至って合理的な判断だろう。


「……違うな」


 違う。本当はただ怖かったのだ。
 アイツが死んでいくのを見ることに我慢できなかったのだ。
 自分が死ぬこと以上に、恐ろしくて、とても割り切ることなどできなかった。
 
 オレの、夢だったのだ。彼は、オレの。

 彼は兄によく似ていた。
 どんな時でも冷静で、しかし内は情熱的な男だ。誰より周囲を見定める慧眼を持つのに、誰よりも心が豊かであった。本当は人が傷つくことに心を痛めているというのに、おくびにも出さず自分ができることだけを真っすぐに遂行してきた。

 どうか、どうか死なないでくれ。お前の愛した国を守ってくれ。お前の夢を貫いてくれ。

 そんな想いが、いかに押し付けがましくあっただろうか!
 ――彼があの子のことを、どこか人間らしく見守るのが気に食わなかったのは、そんな理想の押し付けでもあったかもしれない。嫉妬だ。その一言に尽きる。
 彼女のことを妬んでいた。羨んでいた。オレだって、そんなに伸び伸びと生きたいのだ。オレだって、アイツを自由にしてやりたかったのだ。
 
 でも、そんな彼女がいるのだから、きっとアイツも大丈夫。そう言い聞かせている。 

「ごめん……」

 誰にも届かない言葉をポツリと零すと、彼女の顔が頭に浮かんだ。
 嫉妬に目が眩んで、彼女のことを見ていなかったと思う。そんな考え方が少し変わったのは、取引を交わした後のことだ。

 オレが素の表情を見せ始めた所為だろうか、彼女の表情にも少しずつ変化があった。今までヘラヘラと笑ってばかりの表情が、戸惑ったり、泣いたり、怒ったりするようになった。静かな表情の変化に、彼女も人間だったのだと当たり前のことを思った。


「ごめんな……」
『ごめんなさい。気づかないフリをして、気にしないフリをして……ごめんねぇ……』


 彼女の謝罪を思い出したら、涙が浮かんだ。
 一人の女性に――否、少女に。なんと酷いことを託してしまったのだろうか。縄だけを手渡して、オレは台に足を掛け吊られるのを待っているだけだ。この後に、全ての罪悪感を背負うのはあの細い体なのだと思った。

 死んでほしくないと彼女は言った。

 そう思わせてしまったのは、自分だ。放っておけなかった。それだけの自己満足で、彼女に情を捻じ込んだ。自己満足だ。指先をその頬や首に触れさせると、まるでオレの息を確認するように少し瞼を落とす仕草を知っている。

 触れた場所から、トクトクと、オレよりも少し早い脈が聞こえるのだ。
 その頬が熱を持ったように少しだけ赤らんで、時折瞳には涙が膜を張る。感情が高ぶると、寂しそうに泣く。自由だと、強いと評したその肩に、今まで誰が手を掛けてやったのだろうか。誰か一人でも、涙を零すその姿を認めてやったのだろうか。

 馬鹿な人だ。
 こんな噓つきの言葉を信じて、本名も素顔も知らない男の生死に自分の生き方さえ変えようとした。――最後くらい、上手くやれただろうか。そればかりが気にかかる。

 冷たいコンクリートが手の先の動きを鈍くする。ずっとタオルを挟んで圧迫していたけれど、圧迫する力が抜けて来たのか、血がわき腹を伝うのが分かった。痛みもだいぶ薄れてきている。

 もし、もしも――。

 こんな風に出会わなければ。組織の中で、互いを疑い合うような関係でなければ。自分の感情を殺すような任務でなければ。
『そんなの、君のことが、好きだからだよ……』
 たぶん、オレも君のことを好きになったと思うのだ。
 泣き出しそうに裾を掴んで指先を引いて、戦慄いた唇にそっと柔らかくキスをしただろう。そうしたら、アイツとはライバルだったかもなあ。それも、良いよ。良いよなあ、――ゼロ=B


「――スコッチ!!!!」



 錆びた匂いがする。月の眩さに、目を細めた。殆ど力の抜けた手を、誰かがグっと力強く引いたのだ。トクトクと、生きている音が流れ込む。その早い脈がやけに落ち着いて、ぼんやりと瞼を閉じようとしたら、バチィ――っと可愛くない音がした。

 こんな月明りの幻想的な光には似つかわしくないほど、張り上げた手が赤く染まっている。頭がグワンと大きく揺れた感覚に、もしかして、オレ、はたかれたのか――とようやく思い直す。

「もう一発喰らいたくなかったら、ちゃんと起きて!!」
「ミチルさん、なんで、此処……」
「――取引は反故してないもん、良いでしょ」

 オレの肩を抱えようとして、彼女は「重い」と苦そうにつぶやいた。彼女の手は、これほどに温かかっただろうか。オレはただただ、生きた人間の体温に驚きを隠せずにいたのだ。