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「萩原研二、って知ってる……?」

 時は少し遡る。十二月六日、明美が部屋を訪ねてきた後の話だ。
 ぐっと彼の手を引いて、私が真っすぐに彼を見上げると、バーボンは少しだけ眉間に皺を寄せた。決して、彼のポーカーフェイスが鈍ったわけではないと思う。敏い男であったから、私がこんな状況でそう尋ねた裏側まで思考を巡らせたのだろう。
 もし私がバーボンの素性を疑い組織に引き渡したいのならば、今この場で話を持ち出したりしない。ライや明美がいる部屋の中では必要以上に疑われてしまうだろうし、組織に捜索を依頼したほうが利口とも言えるだろう。

 だから、彼は僅かに顔を顰めたのだ。私が尋ねた理由が理解できなかったか――もしくは、理解したけれど意外であったのか。

「スコッチにも、同じことを?」

 いつもより幾分か刺々しいような、固い声色で、彼は尋ねた。私は頷く。そしてすぐに首を振った。

「ほかの人には言ってない。ただ、その……」

 私は言葉を濁した。バーボンに警戒させないためについこの場で話を進めようとしてしまったが、どうしたものか。ライ達が組織に密告する可能性すらあるというのに。この後、連れ出すのも怪しいのでは。
 バーボンは、一つ息をつくと、その視線をライのほうへと向けた。ライはライでこめかみを掻き、静かな面持ちのまま濡れたニット帽を取り払うと軽く明美の姿を自分の後ろへ促した。

「……ありがとう。君にはもう予想がついているんでしょう」
「うん。分かったのは、本当に偶然だったけど――」
「恐らく間違っていません。どうしてその事件に辿り着いたのだか……」

 そう聞いて、少し目を張った。
 彼では、ない――? あのシールの持ち主は。だって、あのアパートしか考えられない。私もなくしたと思っていたし、幼いころに持っていたものはすべてあの一室に置いてきたのだから。
 

「……君も、噂の情報屋ではないようですし」


 お互い様でしょう、と彼は小さく微笑んだ。私はギクリと肩を強張らせてから、その表情を申し訳なく伺い見る。どうやら調べはついているようで、バーボンの微笑みは謎を紐解く探偵かのように確信を持っていた。

「そのことを僕に、この場で持ちかけるということは、スコッチのことですね」
「――ライは?」
「見てくださいあのふてぶてしい態度。どうやら彼も話があるようです」
「その前に一つだけ確認させろ、この部屋のセキュリティは?」

 ライが首筋に張り付く髪を剝がしながら尋ねた。バーボンは垂れた目つきを厳しくして、「分かっているクセに」と吐き捨てる。

「確認だよ。フルオープンといこうじゃないか」
「……ホラ。カメラやらレコーダーやらは全てハッキング済み。今頃二日前の映像が流れていますよ。マンションの周囲は部下が見張っています」
「成程。そっちもお仲間がピンチで焦っているというわけだ」

 彼は切れ長な視線を、少し戸惑ったように彷徨わせた。それは決して私たちへの遠慮ではなく、どうやら明美の姿を気にしているようだ。一度煙草を探すようにポケットに触れたものの、湿気っていると気づいて舌を軽く打った。明美は意思の強そうな目を瞬いた。

 そして、柔らかくライのもう一つの名を呼びかける。

「……良いよ。大くんが知らないでほしいなら、出ていく。聞いてほしいなら、ここで聞くわ」
「知れば、巻き込むことになる。……それに」
「私を利用したって?」

 にこ、と飾り気のない唇が微笑んだ。それを見て、翡翠色が揺れた。

「知っていたのか」
「全部気づいていたわけじゃないけど。でも、嘘が下手なのは知ってるわ。すごく――……苦しそうな顔をするもの」

 オールバックから零れた黒い濡れ髪を、明美の指先がそっと撫でつけた。微笑む彼女は、やはり綺麗で、傍から見ている私も息を呑んだ。どうして彼女はそれほどに美しく見えるのだろう。人を一途に思うということは、そういうことなのだろうか。

 ライは明美の瞳を見つめ、一度ぐっと押し黙るように瞼を閉じた。
 それから私たちに向き直ると、懐から一つの手帳を取り出す。私はそれを見てもピンとはこなかったけれど、バーボンはすぐにはっとした表情を見せた。

「ホォー、予想通りといった顔だな。バーボン」
「まあ、予想はしていましたよ。最初に疑わしいと思ったのは、情報屋の見張りを三人でつけられたときに、貴方が二つ返事で頷いた時です。そんな性質ではないのは知っていたし、普段は命令違反など意に介さないライがこんなにも素直に受けるのはおかしいと思った――けれど、ノックなら納得がいく。ノックにとって、裏切り者のレッテルを知らぬところで貼られることは最も恐れることでしょう」

 先ほどジンへの態度を見て確信しましたが――。バーボンは自らの推理を整理するように、顎に手を当てて考え込みながら語る。ということは、ここに来る前から彼の中には一つ推論が立っていた――ということだろうか。私にはとても理解できない話である。

「貴方の英語の訛りに時折コックニーの発音が入るから、SSかSISかと予想していましたが」
「見事だな、確かに母国はイギリスだ。少し事情があって渡米した」

 まるで海外ドラマのワンシーンのように、手帳が開かれる。私はそれを視線で辿り、理解できないままにもう一度頭に戻った。間違いなく、顔写真はライのものだ。こんな顔つきがなかなかいて堪るか。


【FBI Special Agent Shuichi Akai】


 確かにそう記されていた。私はギョっとして、それはもう盗聴器に誤って入ってしまうのではという勢いで声を上げてしまった。やかましそうにライが私の頭を軽くはたく。

「FBIの赤井だ。そっちは?」
「信じられない。潜入捜査中に身分証を持ち歩くか、普通」
「死なない自信があるんでね。そこらに放っておくより自分の懐のが安全だ」

 ライは軽く顎をしゃくってみせる。バーボンに対して、そっちは何だと尋ねているのだ。

 私の予想さえ正しければ、彼は――。
 あの事件の被害者は全て警察官であった。あれから少し調べはしたが、事件関係者にハーフやクウォーターはいなかった。それに、松田の姿を見てなんとなく思うのだ。恐らく、彼らの年齢がほとんど一致するのではないかと。萩原研二、記事にあった享年は二十二歳。生きていればバーボンとちょうど同じ年ごろではないだろうか。
 彼一人であれば、そうも思わなかった。もしかしたら、犠牲者の誰かが友人かもしれない。ただ――スコッチは、どうだ。どうして二人が同じ時期に、同じ事件の犠牲者を悼む。そんな偶然がしょっちゅう存在するだろうか。

 もう一つ。あれから何度も考えた。
 スコッチのいう、『アイツ』という存在のことだ。スコッチが裏切り者として殺された時、救われる人物がいる。大切な存在だから、怖くないとスコッチは話していた。
 たとえば、裏切った先の組織――。
 もしそうだったら、彼が裏切り者として処理されることに得はない。拷問で情報が抜かれるかもしれない。むしろバレないままに潜伏していたほうが、多くの利益をもたらすはずだ。

 ならば、この二人しかいないのだ。

 スコッチが裏切り者として死んで得をするのは、この二人――ライかバーボンだ。
 ライも言っていた。彼を捉えて組織に手土産として持ち出せば、疑いは晴れる上に組織からの信用も得ることができる。組織のさらに奥深くへ。

 ライは違う。彼は確かに私に対して厳しくもなかったが、彼には心を割く相手がいた。
 『アイツ』が、バーボンだったら? どうしてスコッチはそこまで執着するのか。何を彼に残そうとしているのか。『萩原研二』と彼らの関係とは一体何なのか。考えれば考えるほど、その答えは一つなように思えた。
 仲間、なのだ。立場を同じくして、松田があの事件へ憤っていたように。


「……警察庁公安部の、降谷だ」


 バーボンは普段のにこやかさを裏側に追いやったように、ゆっくりと瞼を持ち上げて名乗った。夜の街にも馴染めないほど特徴的な容姿をしているのに、どうしてかまったくの別人のように思えたのである。