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 私たちはひとまず濡れたキッチンからリビングへ移動し、知っている情報を共有することにする。素性まで明かしたのだ、その時点で二人ともそういうつもりだったのだろうと思う。私はスコッチと取引を交わしていたことを話した。バーボンは、終始複雑そうな表情を浮かべていた。

 あらかた話し終えると、そのグレーの瞳が私のことをジィと見つめる。そして、重苦しく口を開いた。

「話は分かった……一つだけ聞いても?」
「あ、うん。私が知ってることなら良いけど」
「――君の、願いは?」

 彼は確認するように、たった一つの質問を区切り区切りに言うのだ。思わず「私の」、と首を傾げてしまった。私の、願い。口の中で反復すれば、涼やかな横顔が脳裏に浮かぶ。バーボンは、堅苦しいような、しかし威圧感には欠ける口調で話を続ける。

「君が僕にこの話を持ち掛けようと思ったということは……何か目的があるはずだ。そうじゃなければ、こんなリスキーなことはしないだろう。僕はそれが知りたい」

 彼は手を組み、その指先を僅かにそわつかせながら言う。――指先の仕草を見て、つい声を上げた。見覚えのある仕草だった。やっぱり、彼なのだ。スコッチがあれほど、命を投げうっても良いと思う男は、彼だ。余程近くにいる人物だったのだろう。ポーカーフェイスの裏側の仕草すら移ってしまうほどに。

 今から私がすることは、もしかするとスコッチの決意を踏みにじるものかもしれない。
 彼は怒るかもしれない。こんなことをすれば、バーボンが危険に晒されるだろうと。けれど、バーボンの指先を見つめて思うのだ。私は――。

「僕は」

 私が口を開きかけた時、バーボンが被せるように空気を震わせた。意外だった。今でも目の前にいる男は冷静そのものの表情で、しかし親指の先だけは落ち着きなくもう片側の手を引っかくような仕草を続けていた。スコッチと違うのは、バーボンの爪先のほうが深く切りそろえられていることくらいだ。

「……僕は、自分の命に代えてもこの任務を遂行する義務がある。この国のために、自分も家族も友人も、捨てる覚悟でいるつもりだ」

 初めて、見つめていた視線が落ちた。自らの手を見つめながら、切り出したときよりも少し覇気をなくしたような声が続いた。

「僕には、言えないんだ。間違ってもこの想いを口にはできない。だけど、君は、きっと僕と同じ願いを持っているんじゃないか。僕に話を持ち掛けた時点で、きっと――……!」

 ばっと顔を上げたグレーの瞳の揺らぎを見て、忙しない手元に手を伸ばし、ぎゅうと重ねた。彼も私と同じだ。自分の決めた生き方に背いてでも、助けたい命があるのだ。重ねた手に、バーボンの口が閉じられる。私は小さく笑いながら、手を離した。

 ――国、だって。

 そりゃあ、堅くもなるだろう。重くもなるだろう。彼に比べれば、私の身なんて軽いものだ。そう思えば、不思議と言葉は浮かんだ。


「私、スコッチを助けたいの。迷惑だと思われても、彼の命を救いたい。絶対に損はさせないから――手伝ってほしい」


 ライとバーボンを交互に見て、深々と腰を折った。こんな風に人に頭を下げるのは、はじめてだった。頭を下げたことはある。それでも心の奥底では目の前にいる人を騙してやろうと馬鹿にしていた。今はただ、あの人を救いたい一心だ。

「……俺からは、条件がある」

 頭を下げたままの私の前で、最初に声を上げたのはライだ。彼はスコッチの一件について無関係である。私は顔を上げ、自らを指さした。

「それって私に?」
「二人に、だ。それさえ呑んでもらえれば、全面的に協力しよう」

 ライはまずはバーボンへ視線を遣った。五の指を開き、親指をぐっと折り曲げる。日本でいう四の指だ。「一つ目は、日本警察に」、ライが口を開けば、垂れた目つきはやや警戒心を強くした。当たり前だ、今取引上優位に立つのはライ――FBIなのだから。命に代えても守りたいと言っていた国を人質に取られては堪らないだろう。

「そう警戒するな。……スコッチの救出は賛成だ、優秀な男をみすみす死なせることもない。奴らに向ける牙は鋭く多いに越したことはないからな」
 
 まるで丸腰を示すように(絶対、丸腰じゃないけど)彼は両手のひらを軽く振った。ライがスコッチへ情のあるような口ぶりなのは、意外だった。以前からストレートな男だとは思っていたが、仕事への評価もずいぶんと素直であるように思う。

「ただ、無血開城ってワケにもいかないだろう。海外に逃がすこともできるが、彼が生きていると分かればその行方を追うはずだ。俺たちだって、内通者として疑われるに違いない」
「……それは」
「気づいていないとは言わせん。君ほどの男が、リスクを考えずにいるわけもない。――そこでだ。俺はこの任務を降りる。スコッチはFBIからのスパイだったことにしろ」

 ライの提案に、一番驚いていたのはバーボンだった。私も明美も驚いてライのほうを振り向いたが、バーボンに至ってはその場に立ち上がるほどに動揺していた。しかし、少し考える素振りを見せて、どさっとソファに座り込む。


「君は、俺たちを売れ。そしてより深くまで潜り込め。代わりに、得た情報はこっちにも共有してもらおう」


 ライは堂々と、きっぱりと言い放った。有無も言わせないような言葉に、バーボンはすぐに頷きはしない。彼はじっくりとその言葉をかみ砕くように口元を覆い、僅かに視線を逸らす。次にライのほうを見返した時には、何か疑心を抱いたように眉間に皺を寄せていた。

「それにしたって、あまりにリスクが高いのでは? 死体のすり替えがスムーズにいく試しもない。FBIのことを、僕が利用してそのまま組織にリークしたらどうするつもりだった? なんというか……いや、僕が言うことじゃないかもしれないが」

 口元を覆っていた指先が外されて、彼は真っすぐにライを見据える。犯人を問い詰めるような、実に警察らしい視線であった。


「――……貴方らしくない」


 バーボンは、慎重に言葉を口にした。どこかライを信用しきれないような、含みをもった声色で。ライはその視線に、どこか小馬鹿にしたように一つ息を零した。

「それは今から話すつもりだ。……まったく、生き急ぐのは日本人の性分なのか?」
「ライ、それ今ぜんっぜん面白くない」
「大くん。私もそれはちょっと……」

 今のスコッチの状況と重ねたブラックジョークなのだろうが、生粋の日本生まれである私にも明美にもただの皮肉にしか伝わらなかったようだ。吐き捨てるように言うと、彼はバツが悪そうに目元を細めて、今度は私に向き直った。

「二つ目の条件だ。……スコッチを救うなら、彼女――宮野明美と、宮野志保の身柄も保護してほしい」
「……それ、なんで私に?」
「今から君は、幹部と会うことになる。君から話を持ち掛けようと、そうでなかろうと――。彼女の妹は組織の研究所を転々としていて、しかも厳重に情報を隠されている。それほど奴らにとっては蜜のような存在だ」

 彼は、理由を敢えて話すことはしなかった。しかしライの傍らにいた明美が、申し訳なさそうに眉を下げて私に声をかけた。

「前、貴女の体調を見てくれた子がいたでしょう。あの子が私の妹なの」
「え……シェリーのこと?」

 ――だからか。あの日、明美にシェリーへの礼を伝えた時に、自分のことのように彼女が喜んだのは。姉のうわ言を言っていたという私に、シェリーが柔く微笑んで見せたのは。ライは先ほどのバーボンのように、そして私のように、小さく項垂れたように頭を下げてから視線を持ち上げた。


「……頼む。命に代えても守ると、約束した」
『人は、大切なものがあると強くなれる。それは弱点にもなるけれど、最後に自分の足を動かすのは、その心だよ』  


 ああ、そうか。そういうことなのか。
 ライにもバーボンにも明美にも、スコッチにも――確かに、彼らのその視線は、背筋は、驚くほどに美しく見えるような気がした。私の血にも、同じ想いが流れていれば良いと――そう思うのだ。