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「――スコッチ!!!」

 シャッターを押し上げて、転がるようにガレージに潜り込む。
 中には灯りがなくて最初目が慣れるまでは時間が掛かったものの、月の明かりに次第に視界が効くようになる。ガレージの奥、頭を壁に凭れさせるように、顔を白くした男が目に入った。慌てて駆け寄るが、返事はない。以前怪我をしていた脇腹の傷は開いてしまったようで、今まで自分の手で圧迫していたのだろう。今はほとんど手が乗っているだけでアスファルトにはジワジワと染みが広がっていた。

 その冷たい手のひらの上に重ねるように、私の手を重ねた。ぐっと痛いくらいに押し込むと、彼はなぜだか安心したように一つ息を吐く。そして虚ろな色をした目を瞼でゆっくりと隠そうとする――その仕草に、ゾっとした。

 そのまま、もう目を開けなくなってしまうのではないかと思った。

 衝動的に、手を思い切り振りかぶっていた。とてもじゃないが、怪我人にするような力加減でもなかったと思う。バチィ――ッ、静かな空気が震えて、自分の脈が五月蝿く鳴った。

 生きることを諦めるみたいな、私が無事だったことに安堵したような――そんな彼の姿を見たくなかったのだと思う。駄目――駄目、駄目! こんなところで死のうとするな。こんな、一人誰にも見られない中で、死のうとしないで。

「もう一発喰らいたくなかったら、ちゃんと起きて!!」

 ドクドクと鳴る心臓の音に負けないくらいに声を張った。自分の息が切れる。目の前で消えそうな命を、なんとか取り戻そうと必死だった。

「ミチルさん、なんで、此処……」
「――取引は反故してないもん、良いでしょ」

 掠れた声色は弱弱しくて、私は震える指先をなんとか押さえ彼の体を担ごうとした。どうしよう、移動させて良いのだろうか。怪我をしている、動かしたら痛いかもしれない。そんな動揺の中で腕を首の後ろに回し立ち上がろうとしたら、ずるっと自分の体が引っ張られてしまった。

 ――重い。
 つい独り言が零れるくらいには、彼の体は重たい。この間肩を貸した時とは比べ物にならないくらいだ。それだけ、今の彼には力が入っていないのだろう。なんとか立ち上がると、血の滲んだ衣服とアスファルトがべりっと剥がれる感覚があった。
 どれだけの時間、この場所にいたのだろうか。
 それを考えるだけで、彼は本当に死ぬつもりだったのだと体が震えた。いつも触れる体温より、ずっとずっと冷たい。重ねた指先なんて、血の気が通っていないのではと思う。

「……きみ、あったかいな」

 掠れた声色のまま、彼は独りごちた。
 私が温かいのではなくて、彼が冷たいのだ。そう言い返したかったけれど、堪えたまま歩みを進める。返事をしない私に、スコッチは僅かに笑った。意識を失うよりは良いかと思って、シャッターを潜ろうとした時だ。

 スコッチが、ぐっと私の袖を引いた。まだそんな力が残っているのかと思うほどに、強く。


「待って……足音がする。二人……三人」


 その言葉に耳を澄ませると、確かに路地を歩く何人かの足音が聞こえた。特に一人はヒールを履いている女なのか、コツコツと夜道に響く。「どうして」、言葉が零れる。この道には、一般人は入れないはずだった。――そういう風に、打合せたのだから。

 とにかく、このまま鉢合わせるわけにはいかない。彼の目撃者がいてはならない。ぽた、とスコッチの傷から血が零れた。彼がいた場所から数メートル、血の跡が続いている。その跡を振り返って――唇を嚙みしめた。

 私はフー、と一度息を吐いてから、彼の体を背に預けて、ぐっと立ち上がった。最初の一歩はよろけたけれど、背中に滲む血はなんとかコートに吸収されるはずだ。

「ちょっと、がんばって傷押さえてて……めちゃ気合入れて……!!」
「無理だ、何考えてる」
「良いから! 血の跡見れば、たぶん外に出たって思うでしょ……このまま屋上まで行く」

 さすがにあの傷を負って、屋上まで上るとも予想しづらいだろう。血の跡は都合が良いほどにガレージの外へと続いていたし、外に逃げて鉢合わせするよりは現実的だ。追い詰められれば袋の鼠だが――そうならないことに賭けるしかない。

「馬鹿か、君! 早く下ろせ!」
「そんだけ声上げれるなら傷押さえて!」
「オレを助けて、今更贖罪のつもりならやめてくれ。ここで死ぬ覚悟をしてきたんだ。誰の目から見たって、それが一番良い判断だと思ったからこうしているんだよ」


 そうかもしれない。ライとバーボンの話を聞く限りでも、組織から一人足抜けさせるというのは多くの人間が犠牲になることが分かる。彼がここで裏切り者として殺されれば、すべては円満に行くのかもしれない。――私だって、そうだろうと思う。

『僕には、言えないんだ。間違ってもこの想いを口にはできない。だけど、君は、きっと僕と同じ願いを持っているんじゃないか。僕に話を持ち掛けた時点で、きっと――……!』

 バーボンの瞳が、あれほどに光を跳ね返すのは初めて見た。晴天の下にいるときよりも、部屋のたった一つの灯りをキラキラと揺らしていた。多分、瞼の膜が瞳の表面で揺れていた所為だ。堪えなければならないと分かっていても、滲んだ感情が灯りを反射していたのだ。


「――……うるっさい」


 階段に足を掛けて、私は顔を歪めた。スコッチの体が少しだけ強張った。

「そんなの、分かってる。分かってるけど、死んでほしくないんじゃんか。ちょっとでも助かる可能性があるなら、縋ってみたいと思うんでしょ」

 一段、一段と上るたびに体が軋んだ。重たくて、冷たい。死体を運んでいるみたいで嫌になる。ぽつんと無機質な階段に落ちる涙は、きっとその重さに耐えられないと体が叫んでいるからだ。きっと、そうだ――。

「命を懸けて守りたいものがあるって、言ってたよね。じゃあ、今回は君の負けってだけ。私と……バーボンの想いのほうが、君より強かったの。分かったらおとなしく言うこと聞いてて……!」

 すん、と鼻を啜りながらふらつく足を叱咤した。
 途中、滑り止めに引っかかって片方靴が脱げてしまった。脱げた靴は階段を転がって少し下のほうまで落ちていく。どこまで転がっていったかは目で追えなかったが、今は放っておこう。男物ではなかったから。

 スコッチは、私の言葉を聞くと何も言わなくなった。ただ大人しく傷の圧迫は続けているらしく、強張った腕の力が伝わってくる。それだけで、彼が生きているのだという実感が湧いた。あと少し、あと少しだけ。

 ようやく見えた屋上の入り口を、体重を掛けて押し開ける。
 スコッチの体を抱えていた腕は痺れていて、ノブを捻るのにも時間が掛かった。今日は風が強かったからか、扉は風圧に押されていつもより数倍重たかったように感じる。

 扉が開いたあとは、もはや崩れ落ちるように屋上に出た。べちゃ、と膝をついた振動が伝わったのか、背後で「うっ」と唸る声がする。彼を壁に寄せるように下ろすと、ハァ、と低い吐息が零れた。

「あー……重たかった……」
「だろうな……。本当、無茶だ」

 無茶だ、と言った彼の顔は、なぜだか少し笑っていた。なんで笑うの、彼のほうをジトリと睨めば、スコッチは力ない声を上げて、自分で勝手に傷を痛がっている。何がしたいのだかわからない。

「あはっ……ははは、イタッ……あはは!」
「傷開くから笑わないでよ。待って、今ライと連絡とるから」
「ライ? まさか、こんなことにライまで関わっているっていうのか」

 関わるも何も、この作戦を練り立てたのは紛れもなくライとバーボンの二人である。私だけでは情報の持ち腐れで、行動に移しても上手く行かなかっただろう。スコッチの問いかけに頷けば、彼は眉を下げて笑った。

「負けたよ、そんな三人がかりじゃ、敵うわけないなあ」

 そう笑う彼の表情はようやくいつも通りの人の好さが滲み出ていて、私は少しだけ勝ち誇ったように口角を持ち上げた。