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「生きているのか?」

 ライから借りた専用の無線機で連絡を飛ばすと、意外にも彼はすぐにビルへ駆けつけてくれた。恐らく、スコッチの怪我の様子を私が動揺混じりに伝えたからだ。彼が此処まで訪れることができたということは、先ほどの足音は組織の人間ではなかったのだろうか――。そう思うと、なんだか登り損のような気もする。

 素っ気ないライの問いかけに、スコッチが軽く手を挙げた。「まあ、なんとか」と軽口を返すことくらいはできるようだった。それでも顔色は悪く、ライはギターケースから応急手当用の用具をいくつか取り出し始めた。

「……驚いた。やっぱり組織の人間じゃなかったんだな」

 スコッチは覇気なく、しかし抵抗することも諦めたようにライにされるがままになっていた。糸と針を取り出し始めたあたりからは、見ているのが辛くなって外を眺めながら彼らの会話を聞くことにする。

「呼びつけてアレだけど……。大丈夫? ほら、明美ちゃん」
「信用できる部下たちに任せたよ。君の作戦≠ェ上手くいっているうちは平気だ」
「うーわ、嫌味?」

 はは、と笑いながら肩を竦める。気がかりではある。はたして、彼女たちが無事だと良いのだが。彼らと話し合った作戦が予想通りにいっているのなら、確かに問題はないはずなのだ。ライは神妙そうに、歯切れ悪く「まあ、だが」と続けた。彼にしては珍しいことだ。


「ジンは用心深い男だ。確かに短気だが、厄介なことに一度敵と認識したものには念を重ねる。その命を落とす瞬間まで――」


 プツン、と何かが切れる音がした。スコッチの傷の手当てが終わったのだろうか。振り返ればガーゼを傷に当てながら、ライが浅く眉間の皺を寄せた。数秒、スコッチも私も黙りこくった。彼らなど、組織の恐ろしさを知っているから尚更だろう。ライの言う通りだと納得して、順調な作戦に僅かな不安を感じたのだ。

 意外にも、その沈黙を破ったのは、やはりライ本人だった。
「いや、こんなことを気にしている場合じゃあない。どちらにせよ、明美に俺がついていれば姿が目立ちやすかった。彼女だけなら日本に溶け込みやすいだろう」
 彼はまるで自身に言い聞かせるように、冷静に呟く。遠まわしに私たちの背を激励しているようにも思えて、私も軽く笑っておいた。

「ライと一緒とか、絶対標的だもんね。これを機に髪切ったら?」
「バーボンにも言われたよ」
「ヘアドネーションとか? すごい伸びてるし、絶対……」

 ふと、月明かりの反射に視線をとられた。ジンから受け取った報酬の入った、ジュラルミンケースが輝いたのだ。私はスコッチを運ぶことに精一杯だったので、多分ライが回収してきたのだろう。

「ガレージの外に置いてあった。報酬だろう? 見つかったらすぐに二人組だとバレるぞ」
「うわ、確かに。ごめん」

 まさか重症のスコッチが大金のケースを抱えているわけもない。調べれば私が受け取ったものだとすぐに分かるはずだ。シャッターを押し開けた瞬間、スコッチの死体のような項垂れ具合にしか意識がいかなくて、放ってしまったのだ。今思えば不用心なものである。

 ――そのケースを残していくわけにもいかず、抱えた瞬間に――嫌な予感がした。
 
 この廃ビルには、階段が二つある。一つは内側、私とスコッチが使ったビルの内部を登る階段。もう一つはビルの外から続く非常階段だ。ライが合流したとき、彼は非常階段側から登ってきた。ケースに気が付いたのも、ビルの外側に放ってあったからだろう。


「――だぁから、なんでこんなつまらない任務ばっかりアタイに回ってくるんだよ!!」


 ヒステリックな叫びが、ビルの間に響いた。思わず姿勢を低くする。ライとスコッチも、視線だけを鋭く声の方角に向けていた。

「裏切り者なんだろ? それこそスナイパーの出番だってのにさぁ!!」

 キャンティの声だった。コツンコツンと特徴的なヒールの音――先ほどのヒールの音と同じ。間違いなく、彼女のものだ。その後に続く男の声は何を喋っているのか分からない。足音からして、もう二人ほどいるように思う。しかも、今いるビルとかなり近い距離だ。

 恐らく、ジンは誘導通りに目的の場所へ向かったはずだ。ライの言う通り、用心深い男なのだろう。念のために此方に残っている可能性も潰したかったということか。パっと二人のほうを見上げると、ライは表情を歪めていた。

「……頭の切れる女じゃない。腕も機嫌に左右されやすいところがあるから、ひとまず様子をみたほうが良い。足跡もなければ諦めるだろう」
「ああ。ミチルさんの撒いた簡単なトリックに誘導されると思う」

 スコッチも続いて頷く。彼の言っているのは、あの時血の跡を残したことだ――。
 
 ――いやいや、まずい!!

 私は勢いよくかぶりを振った。そして、擦り切れた足元に目線を落とす。彼らも私の足を見遣り、すぐに気が付いたのだろう。

 靴だ。

 女ものの、靴。スコッチが履けるようなものでもない靴だった。しかも片側だけ。もしかしたら、一階までは落ちていないかもしれない。視界の悪いビルの中では、もしかしたら気づかないようなものかもしれない。
 けれど――。背筋に嫌な汗が伝う。
 どうしよう、私の所為だと思った。私が靴を脱がなければ良かった。あの時に脱げたまま放っておかなければ良かった。どうすれば良い、どうすれば――。

「――スコッチ!」

 ライが少しだけ声を荒げた。普段の声量と差して変わらなかったかもしれないが、今の静けさの中にはよく響いた。はっとしてスコッチのほうに視線を遣れば、彼はどこから取り出したのだか拳銃を手に、静かに深く息を吐いた。


「な……にしてるの」


 尋ねながらも、頭は理解していた。彼がその手を震わせもせず、私を見つめる理由も。

「――今の一瞬で銃を抜き取るとは、怪我人のすることか?」
「すまない、手癖が悪くてね」
「……まだ、ここに辿り着くと決まったわけじゃない」

 そうだ、まだ可能性の話だ。スコッチは僅かに口角を引きつらせた。その意識は銃よりは、ビルの外の音に向いている。

「拳銃の音で、間違いなく奴らは此処に来るはずだ。少しの間でも意識を引き付けられるだろう。ライ、彼女を頼む」
「待って、やめてよ……。さっき、負けたって言ったじゃん」
「オレの命一つで、救われるものがある。君も、アイツも、この頭に詰まった情報も――」

 ぐっと拳銃を頭に押し付ける。その瞬間に、黒い影が目の前を過った。
 煙草のにおいが香る――ライが、スコッチとの距離を詰めて彼の足の間に体をねじ込み、銃を握った。引き金に掛かった指先が何度もそれを引こうとするが、弾は発砲されなかった。

「リボルバーのシリンダーをつかまれたら、人間の力でトリガーを引くのは不可能だよ」

 ライが冷静に、彼を諭そうと声をかけている。話を聞けと語りかけるライに、スコッチは相槌を打つ。銃を下ろすその姿に――どうしてか、胸がざわめいた。このまま終わるわけがないような気がした。ケースの持ち手を握る手に、知らないうちに汗が滲んでいる。
 
 たぶん、彼の目だ。まだ、諦めていない。――死ぬことを、諦めていない。

 ライもそのことを分かっているのか、スコッチが銃を下ろしてもシリンダーから手を離そうとしなかった。

「やめて」

 私はただそれしか言えないままに、彼のほうへ歩み寄る。
 ライみたいに冷静に説得することもできない。バーボンみたいに、貴方の全てを知らない。ただただ、死んでほしくない。貴方の上っ面しか知らないけれど、心の奥から湧き上がるのだ。死んでほしくない。死なないで。自惚れだと思われても良い。干渉するなと嫌われても良い。お願いだから、生きていて。沸々と腹の奥で渦巻く想いを、言葉にするには難しくて言いあぐねた。

「お願い、やめて……」
「……ミチルさん」
「ごめんね……。私が、今から組織のところに言っても良い。逃がしたのは私だって告白したって良い。贖罪なんかじゃない、ただ、私、私は……お願い……」

 ――「死なないでよ」

 その言葉は殆ど吐息に混じって、声にはならなかった。風の音が五月蝿くて、彼に届いたかどうかは定かじゃない。スコッチは少しだけ手の力を緩め、ふらふらと歩み寄った私の顔を見上げた。

「……前にさ、君をどう思っていたか知りたいって言ったよな」
「え? あ、うん……。でも、それは」

 ホテルで聞いた。君のことは嫌いじゃなったのだと、彼は語っていた。今と同じような眼差しだったと思う。

 ライの鋭い視線が背後に向いた。――誰かの足音だ。最初は小さな音に気が付かなかったが、近づくと私にも聞こえた。階段を駆け上がる音。男か女かは判断できなかったが、間違いなく屋上に向かっている。ぎくりとした。先ほどキャンティたちの声を聞いたばかりで、彼らの顔しか頭に浮かばなかった。死を連想するような、真っ黒な装束。

 カン、カン、カン――。
 
 その足音が響いたのは長い時間ではなかったと思う。
 多分、時間にしたら一分もない。けれど、それが永遠に続くカウントダウンのようにも感じた。扉のノブが、回る。背後に意識を奪われたライの指先が、シリンダーから僅かに離れる。――駄目、駄目、駄目!!! 
 
 ライ、と私が叫ぶのと、扉が開く音が重なって吸い込まれていく。


「大好きだよ」


 にこりと、人の好い笑顔が貼り付けられた。
 嘘なのか真実なのかも分からない言葉と共に、銃口が眉間へと向かう。手に力が入る。擦り切れた足を彼のもとへと走らせた。たとえ私を慰めるための言葉だったとしても、なんて酷い男だ。空気を切り裂くような発砲音が、不思議なほど明るい夜の空に響いた。