気づかないうちに止めていた呼吸。息を吐く。冷たい夜の空気に、白く溶け込んだ。心臓が他の何も耳に入らないくらいに五月蝿く鳴っていて、私は痺れた手を伸ばした。ビルの間に、銃声が何度か反響していく。
後ろにのけ反って、スコッチの飛び出た喉ぼとけと顎が目立った。闇の中では、やけに白く見えたからだ。気づかないうちに目に溜まった涙が、頬を伝って零れる。それが冷たいコンクリートにぽつんっと落ちて、ようやくのこと時を取り戻したように周囲の音が耳に入ってきた。
「スコッチ……」
バーボンの声だった。あの扉を押し開けたのは彼だったのだ。良かった。――そう頭では理解できているのに、体が凍り付いたように動かない。扉を振り向くことも、彼に近寄ることもできなかった。この一歩を踏み出したら、崩れ落ちてしまいそうだった。
誰かの手が私の肩に乗る。
気に掛けるような優し気な手つきに視線だけが動いて、指先の肌色でバーボンのものだと分かった。トン、と置かれた手で私の体はいとも容易くその場にへたりこむ。へなへな、というか、ぺちょん、というか。一瞬で体に入っていた力が全て抜けて、抜け殻になってしまったみたいだった。
ライが、私と同じように白い息を零してから後ろに倒れたスコッチの体を覗き込む。壁に後頭部を預けてしまった彼を、眉を顰めて見下げていた。
「――平気か?」
「ああ……うん……眩暈がする。脳震盪だ」
「ご、ごめっ……マジで、そんな、追い打ちかけようとしたわけじゃなくて……」
私の引きつった表情に、ライは鼻で笑いながら足元に転がったジュラルミンケースをつま先で蹴った。ケースを彼に向かって投げたのは、もはや反射的なものだった。スコッチの清々しいほどの笑顔に、勝手に手が動いていた。思い切り投げた所為で肩を痛めたのか、今になって関節がジクジクと痛み出した。
本当はスコッチの手に持った拳銃を狙ったつもりだったが、勢いあまって彼の頭をケースで吹き飛ばしてしまったようだ。中には五キロの札束が詰まっている。当たった時に鈍く聞こえたゴゥンという音は、到底人間の体から出ていい音でもなかった。
「話も聞かずに死のうとした罰だ。少しくらい後遺症が残ったって構わないだろう」
「ひ、どい言われようだ……」
はは、とスコッチは空笑いを零す。手から離れた拳銃を、ライが取り上げて懐に仕舞い直した。彼はまだ頭が痛むのか、空を見上げて切れ長な目つきを細めた。
「ここまでして死ねないなんて……あの世から死ぬなって言われてるみたいだ」
涼やかな眉をへなっと下げて、彼は困ったように、だが懐かしむように呟いた。それを聞いて、バーボンがスコッチへと歩み寄る。あれだけの階段を登ってきたのにとっくに息は整っていた。彼はフゥと一度深呼吸をすると、手のひらを軽く振った。そしてぐっと拳を作ると、スコッチの側頭部を殴りつけたのだ。
「バッ……!!」
スコッチはもはや言葉すらなく、殴られてから地面に倒れこんだ。さっきまで血の気もないくらい体調の悪い怪我人だったというのに、これではあまりにオーバーキルだ。ぎょっとして目を剥いた私の前で、バーボンはフンと鼻息を荒くして眉を吊り上げている。
「潜入に向いてない。だからいつも公私混同するなって言ってるんだ」
「な……オレは、公私混同なんて」
「してるだろ! 誰のために死のうとした! 言ってみろ!!」
バーボンがもう一度ぐっと拳を握って怒鳴る。スコッチは、息をのみ口を噤んだ。そして頭を押さえながらバーボンの鋭い眼光から逃げるように視線を逸らす。彼がそんなに、おずおずとしている姿を初めて見たような気がした。
「……潜入捜査からは外れるように、上にも話を通すからな。二度と僕の前に現れるな」
吐き捨てるようにスコッチに告げた、その拳が震えた。スコッチもそれを分かっていたのだろう、何も言うことはなく、静かに頷く。
――ええ〜!? ここまで生きてたのに喧嘩別れすんの!?
その感性にばかりはついていけない。あれほど必死に訴えかけたバーボンの姿を見てきたし、彼のために命すら捨てても構わないとずっと葛藤してきたスコッチの姿も知っている。なのに、二度と現れるなって――。しかもそれで納得するのか。私には彼らの感覚がよく分からなかった。
困惑したまま彼らを見比べていたら、ライが呆れたようにしゃがみこんで耳打ちをした。
「ああ見えて、バーボンの方がだいぶ上官らしい。ケジメをつけたいんだろう」
「あー……なるほど」
「ジジイになれば勝手に仲直りしてるさ。気にするな」
彼の大きな手のひらが、私の頭をポン、と撫ぜる。
ホ、と安堵すると共に、先ほどまでの状況が一気に頭に流れ込んできた。まず、どうしてバーボンが此処にいるのだろう。キャンティたちは、どうなったのだろうか。私が口を開こうとしたら、今度はバーボンが私の視線に合わせるように腰を屈めた。
「キャンティたちのことなら、大丈夫。話すと少し長くはなりますが――」
彼はバーボンの時のままの柔らかな口調で語り始めた。
ジンがやはり用心にこしたことはないと、キャンティ、バーボン、そしてコルンという男のメンバーで怪しい場所を探るように命じられたこと。その中で、血痕を見つけてとあるビルに辿りついたこと。
その時は、キャンティもコルンもこのあたりにスコッチがいるのではと疑っていたらしい。しかし、外に続く血痕を見てその後を追おうとした。バーボンは落ちていた靴に気が付いていたものの、口は出さなかったらしい。
『……ン?』
本当に偶然であったと、バーボンは言う。
誰の落ち度があったわけでもなく、ただキャンティという女の勘の鋭さ故か――。彼女が一度だけ、階段を振り返った。その時に、階段の途中に転げている靴に気が付いた。はじめこそ裏切り者の手がかりではと、喜々として靴を拾いに行った。バーボンはどう気を逸らすべきか考えながら、その様子を見守っていたらしい。
『ああ、自殺の名スポットらしいですよ。このあたり……』
『フゥン、自殺ねえ……』
興味なさそうにバーボンの声に相槌を打ちながら、彼女はそれを拾い上げる。あまりにその場に留まるものだから、何かあったのではないかとコルンも後を追おうとした。
しかし、彼女は靴を階段へ向きを直すように置いたのだと、バーボンは言った。まるで今からここに、誰かが履き直しにでもくるように。そして満足げにニヤリと笑うと、コルンの腕を引き連れて他の場所へつま先を向けたらしい。バーボンが外されたのは、『裏切り者と仲良くしてた奴と一緒にいたくない』という理由らしい。
疑問を抱いたようなコルンに、キャンティは楽しそうに笑った。
『さあねぇ。また泣かれても困るから……。今度会ったらたっぷり可愛がってやるつもりだけど……』
――気づいていた。
だって、あの靴は彼女が買ったものだもの。サイズも、柄も、形も、キャンティが私に選んでくれたものだ。海外ブランドの限定品。自分で見間違うわけもない。
彼女が、身内と括った者に情が厚いのは知っていた。だけれど、まさか私が入っているなんて思わなかったのだ。ぎゅう、と胸を締め付けられるような、切ないような気持ちになる。
彼女と今後再会することはないだろう。会わないように生きなければならないだろう。
それでも、出会えたことが、過ごした時間が特別なものだとは思えた。出会うべきではなかったなどとは、もう思わなかった。
「……私も、二人のこと言えないか」
バーボンと、まだ空を見上げて伸びているスコッチの姿を見て、可笑しくて笑ってしまった。
パトカーのサイレンが鳴り響くのが聞こえて、先ほどの銃声を思い出す。私たちは全員で顔を見合わせ、腰が抜けた私と怪我人のスコッチをずるずると引きずりながら逃げおおせることになったのだ。