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 月の灯りが、彼のブロンドを透かして、見上げているともう一つ月を見ているようだと思った。私の熱視線を受けてかは分からないが、暫くライやスコッチとこれからの話を相談していた真面目な表情が、ふと私を見下げた。膝と背を支える手つきは意外にもガッシリとしていた。私を見ると、小さくその口角が持ち上がった。

「痛みますか?」
「ううん、怪我とかじゃないから大丈夫……敬語じゃなくて良いのに」
「まあ、そうなんだが……。貴女相手だと、癖というか」

 最初がバーボンとして接したからでしょうか、と彼は苦笑いを浮かべながら零した。確かに、敬語のほうが可愛い感じがして良いけれど。笑って話すと、彼は複雑そうに私を抱え直しながら口を開いた。

「……ありがとう。君のおかげで、上手くいきそうだ」
「いや、作戦考えたのは私じゃないし」
「でも、君がいなければライのことを疑うこともなかった。松田と連絡を取り合うことだって……」
「話はできた? ビックリしてたでしょ」

 それはもう、――吊りあがった眉尻が八の字に下がる。
 今日の昼、煙草屋の暗号を見て待ち合わせのファミレスに向かうだろう彼と降谷を引き合わせた。何でも警察学校時代の同期だという彼に、協力を頼めないかと思ったのだ。私づてに話しても良かったのだが、信用できるか分からない女より彼が直接話したほうが良い。私には、他にやることもあったというのもあるが。

「殴られたよ。僕がスコッチを殴ったみたいに、思い切り」
「本当だ。ほっぺ、ちょっと赤くなっちゃってる」

 暗くてよく分からなかったが、言われてみればその頬は僅かに赤みを帯びて見える。そっと手を伸ばして頬に触れると、その赤みがカっと増したように思えた。相変わらず可愛い子だ。誤魔化すように、彼はふいっと顔を逸らした。

「……私こそ、ありがとね」

 ぽつりと零したら、彼は意外そうに目を見開いて、ククっと可笑しそうに笑った。

「貴女が、お金以外のことで礼を言うのが珍しくて」
「うわあ〜……確かに。あんまり思い出してほしくないけど」
「そうですか? 僕は気に入っていましたよ、そういう現金なところも」

 にこりと柔らかそうな唇が微笑む。街灯の灯りが彼の唇へ艶やかにハイライトを乗せて、いつもよりも優しく、少しだけ色っぽく思えた。そんな彼の声を聞いてか、スコッチとアタッシュケースを運びながらライがため息をつくのが分かった。

「よく言う、どう見ても惚れていたくせに」
「え? そうなの!?」

 目を丸くして私を抱きかかえた顔に視線を戻せば、彼は驚いたようにして「まさか」と首を振った。本当に違うのか――それとも、照れ隠しなのかは、この薄暗さの中で図ることはできない。

「確かに個人的に気に入ってはいましたけど、惚れてなんて。ライの戯言です」
「あ……あー! だから私が髪切った時ヤキモチ焼いたんだ!」

 まさか出会ってすぐの女にそんな感情抱くわけがないと思っていたけれど、そう思えば納得がいく。スコッチが切ったと知って、妬いていたのか。もしかして、私がマンションを飛び出た時に焦って探しにきたのも、そういうこと――?

「……髪を切った時は、刃物を向けられる危機感のなさに貴女の素性を疑っただけ。マンションを飛び出た時は、連絡が途絶えて生死を気に掛けたまでです」
「今頭の中読んだ?」

 こほん、と咳払いと共に彼は説明する。考えたことを口には出していなかったつもりだが、筒抜けなのが恐ろしい。心底彼を敵に回さなくて良かったと思える。口をへの字にして、わざとらしいツンとした表情を作る彼の言葉の、どこまでが真実なのだかは分からない――。


「ありがと」


 もう一度、今度は先ほどよりもしっかりとした声で告げると、彼は優しく目元を細めた。彼の笑顔は可愛くて、それから綺麗だと思う。スコッチの指先と違って、触れただけで熱い体温が、冷えた体には心地よく思えた。

「仮に、僕が貴女に惚れていようと……それを伝えることは一生なかったでしょうから。あそこで伸びている公私混同男のほうが、よっぽどお似合いです」

 抱えられながら、彼の姿勢の良さに今更目が向いた。そういえば、そうだったかもしれない。記憶にあるバーボンの背はいつもしゃんと伸びていた。まるで何かを背負っているような、真っすぐな背筋をしていた。


「僕の恋人は、この国ですから」


 なんて気障な台詞に一つの野次すら浮かばないのは、そう話す彼の微笑みが、今まで見たどんな笑顔よりも清々しく、綺麗だったからだろうと思う。丁寧な口調で話す彼が、バーボンであるのか、降谷であるのかは、些細な問題であった。





「では、僕はこれで。後は頼みました」
「うん。また……いつかね」
「ええ、いつか」

 組織に合流するのだというバーボンと、いつまでも一緒にいるわけにもいかない。彼を組織への楔として残す以上は、彼が少しでも疑われるような行動は避けなければ。私はあと少し、やるべきことを済ますだけだ。

「どうするんだ? 言っておくが、国外だって組織の手の内だぞ」

 スコッチが後部座席で頭を冷やしながら尋ねる。先ほどのビルから少し離れた駐車場に停めておいた古びた車は、暖房の効きが悪くずいぶんと冷え込んでいた。

「それは、今からなんとかするところ」
「――今から?」
「呆れた声しないでよ。コンタクト取るのだけで大変だったんだから」

 私はケースをぎゅうと握りしめ、窓の外を眺めた。ライは運転をしながら、私の言葉足らずな部分へ補足をしていった。

「国外に逃がすのはナシだ。ジンたちには、お前がFBIだと伝えてる――国外逃亡は常套手段なんでな」
「灯台下暮らしってことか? なんの情報もなく、そんな手が通じる相手じゃないだろ」
「もちろん、偽の情報を与える。まるで国外を転々とした後に殺されたように」

 ライは軽々しく言っているが、簡単なことではない。スコッチが黙りこくるのもしょうがない話だ。何せ大きな犯罪組織である、裏社会の情報ならば彼らの得意分野だろう。いくらバーボンがライの情報を零しても、実際の情報と合ってなければ雀の涙だ。

「FBIも、公安だって……さすがに世界まで広がっちゃ、極秘には不可能だ」
「分かっている。何より、裏社会においては組織のほうが上だ」
「だったら、どうやってそんなこと」
「だから、彼女に頼んだ。俺たちにはどうしようもなかったからな」

 スコッチが、益々分からないといった表情で私に視線を向ける。私は苦笑いしながら軽く手を振った。

「私がやるわけじゃないって。そんな変な顔しないでよ」
 
 松田と降谷を引き合わせている間に、黙って何もしていなかったわけではないのだ。ジンと会うまで、とある人物の情報を探りに探って、連絡を取る術を見つけていた。――それが私にしかできない仕事だった。何故なら、他の誰も知らない情報を、私の頭だけが、強く記憶していた所為だ。

「世界的な情報屋だ。お前も話だけは知っているだろ」
「あ、ああ……」

 そりゃあ、知っているだろう。私はその名前を騙っていたのだから。
 スコッチはもう気が付いているはずだ。私がその人物ではないことを。

「誰も素顔を知らないっていう……男か女かも分からなかったんだろ。いつもソフトを使った声と適当な画像だけで、経歴も分からなくて、本人と取引をした奴なんて誰も……いなかった、って……」

 ――そんな噂が流れていることすら知らなかったのだが、ならばあの日彼女が素顔で話しかけてきたのは偶然か。違う、多分、私が金に困窮しているのが目に見えたからだ。そして、今から大金が入る仕事が来る。素性を騙った私が、いつか彼女を頼らなければいけないことまで――その時に、組織との取引よりさらに大きな金が転がり込むことまで、知っていたのだろう。金にがめつい女と、ベルモットが評していたのを思い出す。

 彼女の容姿を、このあたりでチャイナドレスを取り扱う店に片っ端から尋ねまわった。人から人へ流れる情報を伝って、辿り着いた彼女が常連だというパブ。きっとここまで辿りつくことすら、予想の範囲内なのかもしれないが。

 私は最後の取引を始めようと、深く呼吸を繰り返した。