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 重たい扉を押し開ける。ジャズ調の音楽と、それなりに賑わった人の声が店内を満たしていた。少しだけ、むわっと熱い空気に感じるのは外が寒い所為か、それとも酒のにおいの所為だろうか。

 店の奥へと歩みを進めて、カウンターの端へ腰を下ろした。隣合うのは、たっぷりとした黒髪を揺らすアジア系の女だ。間違いなく、私があの時――ベルモットと初めて会った時に出会った女であった。
 
『彼女を知っているのか』

 ライは、その話を聞いて驚いたように私を見ていた。彼らと作戦を立てる最中に、バーボンが零した『せめて君の素性が本物だったらな』という一言が切っ掛けであった。曰く、彼女≠ニいうのがその情報屋の通称なのだそうだ。実際のところ、それが男なのか女なのか、年若いか老人なのかも分からない。世界の裏社会を牛耳るほどの膨大な情報の持ち主なのだということだ。

 ――私、とんでもない人間に成りすまそうとしてたんだな……。

 恐らくそれでも疑われなかったのは、それだけ彼女への情報が世間に出回っていなかった所為だ。そりゃあ、スコッチからイメージと違うと言われても仕方がない。

『お前の前に姿を現したのは、何か理由がある。間違いなく、何かがあるはずだ』

 何しろ組織が手を尽くしても素顔をつかめなかった正体だ。もしかしたら偽物なのではとも思ったけれど、ベルモットが直接会うくらいに組織は確信に迫っていた。だからこそ、恐らく本物か――そうでなくても本物に近い人物のはず。ライは言う。彼女に協力を仰げれば、あるいは世界の情報を操作することも可能であると。

 ただし、失敗すれば私のような戸籍もない存在は最初からいなかったように処理されるかもしれないとも脅された。しかしそれしかないならば、腹を括るしかないのだ。スコッチが――ライが、バーボンが、それぞれに賭けたものを守り抜くには、それしかなかった。


「……ハァイ、ミチル。情報屋は楽しかった?」


 切れ長の目つきを振り向かせて、彼女は微笑んだ。以前出会ったときとは印象が異なる。前はもっと高飛車でヒステリックな印象があったのに、今目の前にいるのは自分が優位だと分かった余裕が滲んだ姿だった。私が犬で、彼女はドッグトレーナー。それくらいの差がある。

「何て呼べばいい?」
「なんとでも。好きにしたら良いわ」

 貴女だってそうでしょ、と肩を竦めて、彼女は手元にあったボトルを傾けた。黒いチャイナドレスに、銀色の刺繍。意地悪そうな目元を細めながらグラスを呷る。ボトルにはジョニーウォーカーと書かれていた。恐らくだが、私たちのことすらもう知っていて、それでここに座っているのだ。

「細かい前置きは抜きにする……取引をしたいの」

 私は手に持った、ジンからぼったくった五千万の現金を彼女の前に差し出した。

「ここに五千万ある。前金よ、あとは貴女の言い値で良いわ」
「なるほど。言っておくけど、高いわよ。組織より貴方達にメリットがあると思ってこうしているのだから。逃げようとしたって無駄……私、すごく執念深いの」

 薄っすらと瞼を下ろして、切れ長の目つきが私を射抜く。不思議と恐怖はなく、その色っぽさにくらっとした。絶世の美女というわけじゃない。アジア系――恐らくだが日本の血も混ざっているだろう顔つきをしているし、瞳はくすんだグレーで、見惚れるような美しさではなかった。酒のにおいと、ニヤっと笑った口元。その時にチラリと覗いた八重歯が、やけに艶やかだ。今にもその牙で、私の首筋に噛みつこうかという挑発的な笑みだった。


「絶対に金は回収する。自殺なんてさせないわ。人体実験だって風俗だって落としてやるし、もしかしたら貴方一人では返せない額かもしれない。一生を費やすことになるわよ」


 ――私が返せない何十億何百億という額を請求されることだってあるだろう。
 そうでなければ、彼女は私じゃなくて組織のほうへ話を持ち掛けているはずだから。元はそんな人生を送りたくなくて始めたことだった。惨めな人生なんて御免だ。誰かに搾取され続けて、そんな――二度と、あちら側に渡れないような人生を送りたくなかった。もう二度と、二度と狭い部屋の中で、楽しそうな笑い声を聞くだけの人生なんて! その一心だったのだ。

 だから、この素性を借りた。悪いことだという自覚はあれど、罪悪感は、あまりなかったかもしれない。
 
 だって、私の人生だもの。
 私はあちら側に行くんだ。日々の恐れも不安もなく、その日の娯楽だけを考えて過ごすんだ。こちら側にいる、苦しむ声など、届かない所まで――。

 
「――良いよ。私、何でもする」

 
 自分の心を理解しろと彼は言った。大切なものを見つけろと言った。
 今なら不思議と、ストンと腑に落ちるのだ。これから先に待ち受ける悲惨な人生や、膨大な借金さえ恐ろしくないというのが、なぜだか理解できるのだ。搾取されるわけではない。これは取引だ。平等で、互いのメリットを掛けた取引。彼女が与えるものの代わりに、私の人生が使われるだけ。そして――。


「良いの。だって、私の人生を差し出せる人だからね」


 本当は、良い人になんてなりたくなかった。平穏な日常なんて欲しいわけでもなかった。
 そうしたら私が積み上げたものが、今までの人生が無駄になってしまうような気がした。頑張らなくても良いと、嘘をつかなくて良いと――そう言われたことに、内心悔しかったのだ。

 だから、私の人生はそのままで良いと。自分のしたことに責任を持てと私を叱る彼に捧げたい。きっと彼ならば――スコッチならば、私の人生を馬鹿にしない。売り出した人生の全てをしっかりと受け止めて、この先を歩んで行ってくれるはずだ。そうやって、彼の中に生きて行けたら、良いと思う。


 世の中を回すのは、知恵と金だと――姉はそう言っていた。

 
 それが、私の生きる指針だった。実際に世の中は甘くなくて、凡そはその通りであったように思う。知恵がなければ絞りとられる。金がなければ自由はない。金も知恵もない人間は、貧しさを更に的にされて、消費されていく。それが私の生まれた世界というものであった。

 君が羨ましかったとスコッチは言った。強い人だと、あの少年が言った。

 多分、知恵と金があっても――人は自由ではないし、生きやすいわけでもない。
 そうだったのだと、思う。世の中は回れど、世間を渡れど、人はそれだけで生きていけるわけではなかったのだ。少なくとも私はそう思う。

『人は、大切なものがあると強くなれる。それは弱点にもなるけれど、最後に自分の足を動かすのは、その心だよ』

 確かにね。スコッチの言葉を思い返しながら、私は内心小さく笑った。まるで先ほど聞いたことのように、そのイントネーションの一つまで覚えている。大丈夫。私もそれを見つけたから。


 じ、と彼女を見据えた。息を一度つくと、先ほどまで聞こえていなかった音が流れ込む。人々の喧噪、氷がぶつかる音、机をたたく音、椅子を引く音。その一つ一つの物音が大きく聞こえる。私の心臓が鳴っていないみたいに体の全てが静かだ。


 彼女はグラスを空けてから、私の持ってきたケースに手を掛けた。そして髪をかき上げてちらっと私を見遣ると、カウンターの上を滑らせてケースを突き返したのだ。


 私は焦った。「え」と思わず声が零れた。
 取引には値しないと思われたのか。それは不味い。彼女はその情報を持って、次は組織へ話を持ち掛けるはずだ。私が慌てて彼女の手を掴もうとしたら、太い眉が下がって、彼女はケラケラと笑い始めた。

「良いわ。言い値はゼロよ」

 肩を揺らすその姿に、傾げた首の傾きが元に戻らなかった。え、なんで、どうして、と疑問符だけが頭の上に浮かんでいる。

「だぁから、タダで引き受けてあげるわよ」
「そっ、それは良いけど……なんで!?」
「言っておくけど、タダより怖いモンなんてないからね。覚悟しなさい。これは貸し……私はそうやって、フラついてる奴らを雇って情報収集してるの。貴方たちもその一部になるって話よ。じゃなきゃ最初からアイツに情報渡してるわ、金持ちだもん!」

 アハハ、と口を開けて笑うと、思いのほか愛嬌のある顔をしていた。私はすっかり力が抜けて、ハァ、と曖昧に相槌を打つことしかできない。クスクスと笑う彼女は、目元をキュっと細くした。くすんだ色の瞳がオレンジの電球を受けて、不思議な色を魅せる。美しく彩られた指先が、ポンポン、と軽く私の肩を叩いた。その温度に、やけに安心したのは、指先が冷たくスコッチに似ていたからだろうか。なんだか、やけにくすぐったい感覚だと思ったものだ。