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 彼女は他の人間に素顔を晒す気はないと言って、コンタクトは車の中から電話越しに取ることになった。渡された条件は二つ。自分と連絡を取ったことを他言しないこと。自分の呼び出しには必ずすぐに答えること。もちろん番号を教えるわけではないので、その都度連絡手段は変わるらしい。その条件を加工のかかった声で告げられて、ライもスコッチもぽかんと口を開いていた。

「……それだけ?」

 まるで安売りされたバーゲンものを前にしたように口を開けるものだから、私は場にそぐわず笑ってしまった。気持ちはわかる。タダより怖いものはない、その通りである。それでも私が彼女を信用したのは、何だか彼女には浮世離れしたような雰囲気とは裏腹な親近感があったからだ。

 初めのうちは二人とも疑い深く幾つかの質問を投げかけたが、先に折れたのはライだった。彼はため息を零し、彼女の条件を了承する。

「良いのか、ライ」
「知らん。だが、最初に提案をしたのは俺だ。尻ぬぐいくらいしよう」
「……まあ、乗りかかった舟ってヤツかもな」

 ライが頷くと、スコッチも諦めたように笑った。彼らの順応性の高さ――いや、これは頭の回転の速さだろうか、それには目を張るものがある。他に手段はないと、自分のあらゆる策と可能性を考えた上で辿り着いたのだろうと思う。慎重な男だから、何も考えなしに頷いたとはとても思えない。

『うん、お利口ね』

 彼女は満足そうにそう言った。どうしてか、口元が微笑んでいるような気がする。最後に彼女から、組織にどのような情報を与えるつもりなのか、隠れ蓑の参考にしてくれと話をされる。長い話ではあったが、一瞬のことのように感じた。もう、終わるのだ――その気の抜けようが、時計を早く刻ませたのだ。

『まあ、後のことは上手くやるのね。私にできるのは情報に関することだけだから』
「……ああ、助かるよ」

 スコッチが礼を述べた後、一度口を噤み、彼女に話しかけた。スコッチのほうから話を振ったのは、それが初めてだ。彼女も少しだけ驚いていたように思える。


「なあ、一つだけ教えてくれないか。どうして無償で引き受けた?」
『……何度も言わせないで。だから、私はそうやって子飼いを作ることで』
「違う。そんなの、別に無償じゃなくたって良かっただろ。噂に聞く貴女は欲深くて、どんな些細な情報だろうと無償で渡すことはない。今回だって、例え五千万円受け取ってもこっちからしたら万々歳な条件だ」

 
 その視線が、スマートフォンの先にいる彼女を射抜くように細められた。疑っている――というよりは、不思議がっているように見える。自分には理解しがたいものを見るような。案外、自分で納得できないことが許せないあたりは頑固なのかもしれない。

「何で金を受け取らなかった? いや、むしろ貴女にとっては組織に協力したほうが今後の利益に繋がったんじゃないのか。それじゃあまるで、最初から味方をするつもりでミチルさんに出会ったみたいな……!」

 ばっと顔を上げたスコッチに、彼女は静かに吐息を零した。『シィ』、と綺麗な発音がスピーカーから響いて、スコッチは押し黙る。それ以上詮索するなと、告げている。彼にも伝わったのだろう。浮かしていた腰を下ろして「悪い」と一言謝罪した。

『猫みたいな人だね』
「ね、猫」
『ああ、見た目じゃないのよ。好奇心に殺されそうってだけ』

 けらけらと笑いながら、彼女はスコッチをそう例えた。どこか揶揄うような、飄々とした雰囲気がある。確かに腕はあるのだろうが、スコッチの言っていたミステリアスな雰囲気とはまた少し異なるような気もした。

 怒っているような声色ではない。
 スコッチが動揺している様子にひとしきり軽快に笑って、彼女は通話を切る。切る直前に、ノイズに混ざって独り言のような言葉が零れた。果たしてそれは、私に聞こえると思ってわざと零したのか。それとも切る直前に零れ落ちてしまったのか。



『ただね、世の中を回すのは金と知恵――ってことよね』



 その言葉が鼓膜を震わせて、私は慌てて携帯を取った。それから何度彼女の番号に掛けても繋がることはなく、ただデフォルト画面を映し出す液晶に目を奪われた。ドキリと高鳴った動揺がまとわりついて離れない。
 いや、そんなはずはない。
 記憶の中のあの人とは似ても似つかないし、第一彼女は死んだはずだ。――正しく言えば死んだと思い込んだのは、私だったかもしれない。あの家に帰ってこなかっただけで、別に死体を見たわけでもない。
 顔はもしかしたら、整形か。ああ、そうか。それでも変わらなかったのだ。顔の形を変えても、瞳の色が私と同じだ。だったら、本当に? 私の勘違いではなく――。

「……ミチルさん?」

 スコッチが、呆然とした私を覗き込むように顔を窺った。
 ――私のことは、分かっていたはずだ。
 だからこそあの時、私に声を掛けたのだったら。私にだけ素顔を晒そうとしたのは、どうして。その結論に辿り着くのは、少しばかり無粋だ。彼女の微笑みを思い出す。かつての細い背中とは似ても似つかないほどに、自身に溢れた艶やかさを。

「ううん、なんでもない」

 答えながらも、自然と笑みが零れた。二人で話している時にも自身の素性を明かさなかったのだ。今更私が問い詰めることもない。昔からそういう関係だった。同じ空間にいるだけで、助け合うことも談笑することもなかった。

 けれど、たった一人の血縁者だ。

 血の繋がりを強く思ったことなどなかったけれど、今なら素直に受け止められる。彼女もきっとどこかで、私のことなど素知らぬ顔で生きていく。生きている中に、私の記憶がある。私も、彼女の記憶を体のどこかに刻みながら生きていく。

 私は気を取り直してハンドルをぐっと握った。
 もう連絡が繋がることはないと分かっていて、小さく液晶に向かって微笑んだ。
 幼いころ、私に才能があると言ってくれたことを、今でもよく覚えている。確かに、才能はあったのだろう。今や世界の情報屋を名乗れる貴女の、たった一人の妹だもの。貴女の背を見て、育ったのだもの!

「ミチルさん」
「うん。もう大丈夫」
「いや、違くて……」

 ハイビームを焚いて、暗い街路を照らした。目的地は高速道路に乗って、都心から離れたヘリポートだ。ライとはそこで別れる約束をしている。バーボンもライも、次に会うのは何年後なのか――もしくはもう二度と会わないことになるかもしれないが、それも悪いことではないと今は思う。彼らに出会った人生は確かに此処にあると、よく分かった。

「おい、なんでコイツを運転席に座らせた!」
「オレは後部座席で寝てたんだから、ライの所為だろ! なんで煙草吸ってから助手席に戻ったんだよ!!」
「癖だ、ああ、チクショウ! せっかく命拾いしたっていうのに……」

 なんだ、今になってケンカなど、男は本当に子供じみているなあと思う。
 あと少しで別れだと分かっているなら、ちょっとくらい感傷に浸るとかないのだろうか。私が言えたことではないか。それでも、彼らとの別れが僅かに名残惜しいくらいには肩入れしているのだ。スコッチとも――。それを考えるのは、今は後回しにした。
 
 ぐっとアクセルに掛けた足を踏み込む。タイヤが空回る音の後ろで、二人が何か喋ったような、そうでないような。クラブにいるときのように声を荒げて「何!」と聞くと、ライが「スコッチを殺す気か」と助手席から怒鳴りこむ。


「そんなわけないじゃん! これでも大好きなんだけど!」


 なんてケラケラと笑って見せたら、彼はそれ以上言及することはなかった。そんなことを大声で言うのも、照れくさくて、私は軽く頬を掻いたのだ。