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 目的の場所に車を停めると、後部座席からえづくような声が響いた。そんな、ホラー映画でもあるまいし――車の振動が傷に障ったのではと振り返ろうとしたとき、ライが顔を蒼くしていることに気が付く。暗くてよくは見えなかったが、もとより悪い血色ながら唇など病人のように血の気を引かせている。
 大丈夫かと尋ねたが、二人はあいまいに頷きながら「うん」とか「ああ」とか、上の空な返事を繰り返す。

「高速道路あんなスピードで逆走するか、普通……」
「えぇ、だってそのほうが近かったし」
「警察の目が都心に向いていて良かったな。パトカーとカーチェイス待ったなしだ」

 まあ、確かに警察の目が向くかもしれないというのに、迂闊であったのは認める。本当だったらワイルドスピードみたいに鉄骨が降り注ぐ中を走りぬいてみたいものだ。崩れ落ちるように車から降りる二人を見て、スコッチに肩を貸してやる。ライにも手を差し伸べたが、あしらわれてしまった。

 ナビにも設定されないような場所だが、ここは本当にヘリポートなのだろうか。
 確かに山の中では木もなく開けていたけれど、あたりは不気味に静まり返っている。星の瞬きが恐ろしいほどに澄んで見えて、外気の冷たさに体を震わせた。

 こんな場所を指定されたからてっきりヘリコプターでも飛んでくるのかと思ったものの、山道を越えて来たのは一台のジムニーだった。ライが呆れ顔で「そんな目立つことするわけがないだろう」とため息を零す。言葉には出してなかったのだが、私はそんなにヘリコプターを期待するような表情をしていたのだろうか。

「赤井さん!」

 ジムニーの運転席から、海外マフィアのような人相が顔を出す。
 てっきりまた裏の世界の人間かと驚いた。しかしライは、FBIの捜査官だと彼を紹介した。同僚と合流して、しばらく身を隠すつもりだとライは言う。車のヘッドライトしかない山奥では、彼の黒髪やコートが闇に溶けていくようだ。私は彼を見上げ、小さく頭を下げた。

「ありがとう。色々協力してくれて」
「……結果としては50:50だ。気にすることはない」
「二人にもよろしくね」

 何気なく言ったつもりだったのだが、ライは長い髪を風にそよがせて小さく笑った。髪が流れたのを見て、周囲の風景より、彼の髪のほうが暗いのだと思う。あたりの光を彼がすべて吸収してしまっているような、そんな暗さをしていた。

「いや。彼女たちとは、ここまでだ」
「なんで? せっかく」
「前にも言ったが、彼女たちをもう巻き込みたくはない。俺が接触すれば必然的に組織の目が行く」
「そっか……」

 明美もライも、互いのことをあれほど想っていたというのに、そう安々とはいかないものだ。それでも、いつか会えると思えば良いのに。ロマンがないとライに愚痴を零すと、彼は喉を鳴らすように笑い声を零す。

「元々組織を離れる時には縁を切る気だった。――彼女が無事に生きているのなら、それで良い」

 ふいと空を見上げてしまったので、その表情を読み取ることはできなかったが、声色は今まで聞いたどの台詞よりも柔らかく落ち着いていた。彼にも、そんな声を出せるのか。あの鋭い眼差しからは想像できないほど穏やかだ。

 これ以上は、口を出すこともないか。私が何度か頷くと、彼は長い腕を伸ばして私の背を軽く抱き寄せた。一瞬驚いて身を固めたが、背に回った手が私をポンポンと軽く叩く。長い髪が耳を擽った。
 頭に洋画のワンシーンが過って、これは彼なりの挨拶なのだと理解する。そういえば、FBIだと言っていたのだから、彼はアメリカ人なのだ。確かに純粋な日本人でないとは思うが、日本語の発音にも違和感はなく、本名も日本名だったから忘れていた。頬骨の目立つ輪郭が私の頬にピトリと軽くくっついた。

 私も、彼の広い背に軽く手を回してみる。この煙草の匂いとも別れかと思うと、鼻につくのも嫌ではなかった。

「車は二度と運転するなよ」
「それ餞別の言葉……? もっとなんかあるでしょ」
「いや、お前に対してはそれに尽きる。せめて人を乗せるな」

 そんなにか、と拗ねていた私の頬へ、ライは一度唇を触れさせた。そして最後に肩を三度叩き、屈めた姿勢を戻していく。スコッチの肩も軽く叩くと、彼はジムニーの助手席に乗り込んだ。

 振り返ることもそれ以上言葉を続けることもなく、車の灯りはみるみるうちに遠ざかっていった。去り際まであっさりとしているのは、ライらしいといえばそうだ。


 風の音。枯葉が足元で乾いた音を立て、雲間から月が覗いた。ずいぶんと空が高いように思える。スコッチも、この後別の車に乗って別れるつもりだった。携帯の電波も入るような場所ではないので、彼もまた私と同じように空を見上げていた。

 一息ついてしまったら、最後に何と言っていいか分からなくなった。
 つい先ほどまであんなに好きだの大切だの、よくまあポロポロと出てきたものだ。無難に元気でと言えば良いのだろうか。それとも、これからどうするのと尋ねたほうが話が繋がる? まるで子どもの初恋のように慌ててしまう。
 ふと、彼の横顔を眺める。星を見て、何を考えているのだろう。
 スコッチは、ロマンチストなのだろうか。それともリアリスト。綺麗だと思っているのか、今後のことを考えているだけなのか――それすら予想できないほど、私は彼のことを知らなかった。

「スコッチはさ、なんで警察になったの?」

 少しでも、彼の素顔が知りたい。この先もし組織から身を隠すのなら、彼に関するものは全てなくなってしまうのだろう。どこで生まれ、どこで育ち、どこに在籍していたのか――そういった書類は、全て裏側に持っていかれてしまうのだろう。
 だから、今のうちに知りたいと思った。初めて会った時から、靄が掛かったように分からないことだらけだったこの男のことを。

 スコッチは瞬いて、切れ長な目つきで私を一瞥した。低く甘い声は、夜の空気によく馴染む。決して目立つこともなかったけれど、綺麗に溶けていく。ライの髪と同じだと思った。

「……復讐かな」
「うわ、めっちゃ意外かも」
「あはは、冗談。でも、まあ……切っ掛けではあったけれど」

 懐かしそうに、彼は車に凭れ掛かって足元の葉を踏み弄りながら口を開く。多分、その指先は、いつものようにモゾモゾと動いていたことだろう。

 スコッチは、ぽつぽつと語った。抑揚のない、けれど無機質さもない、不思議な口調で。まるで絵本の文字を追うような、淡々とした声色で。
 幼いころに両親が殺されたこと。人前で喋ることができなくなったこと。親戚に引き取られた先でバーボンと出会ったこと。

「……助けられなかった子がいたんだ」

 バーボンと出会ったすぐ後のことだと、彼は語る。
「強い子だった。悲しんでいるのに、それを隠すんだ。野生動物が弱っているのを悟られないようにしているみたいに、かたくなに泣いているところを見せてくれなかった。オレはその子が泣いていることに気が付いていたのに、何もしてあげれなかった」
 その言葉の最後のほうは、記憶を思い返すようにして笑っていた。自身の過去を責めるような嘲笑だった。

「本当はいつも見てたんだ。ズボンも履かない細い足でスーパーをうろついているのも、ランドセルを背負っている子たちを恨めしそうに眺めているのも。それなのに、オレが声を掛けたのは一回だけ。気が付いたらその子はいなくなってた」

 ポケットの中で丸まった何かが、やけに重たく感じた。私はそれを確認するように、ポケットをなぞる。それから、彼の顔を見た。

「苦しんでいる人を見て放っておくなんて、もう二度としたくない」

 ――私が理解できないと、ずっと思っていたことだ。
 ずっと、分からなかった。彼が何故そんなにも他人に心を割けるのか。どうしたらそんな風に思えるのか。
 私はシールを取り出そうとして――途中で止めた。スコッチの眼差しがあまりに真っすぐ、しかしどこか遠くを見つめていたからだ。瞬く星がその瞳に、チラチラと青白い光を跳ね返して、彼のこれから目指す道を示しているようだった。

 彼の中で、あの時の私はもういなくなった存在なのだ。

 本当に、お人よしな男だ。
 助けられなかったと思っていたのか。あんなに小さな体の少年が、きっと足の裏を傷だらけにしながら、そんなことを考えていたのか。

「……助けられなかったことなんて、ないと思うよ」

 落とさないようにシールを押し込めて、私は彼に笑いかけた。スコッチは驚いたように、ゆっくりとこちらに顔を向ける。

「私も似たような境遇だったから分かるんだけどさ、なんだか世界から自分だけいなくなったんじゃないかって思うことがあるの。泣いてても誰も心配はしないし、誰かを心配することもない。誰かに存在を認められることがなかった……っていうのかなあ」

 たどたどしい言葉に、うまく言葉にできないんだけど、と一応保険をかけながら言葉を続ける。

「だから、嬉しかったよ。きっと大人になっても、ずっと頭のどこかに君の言葉が残っていたと思う。自分も人から認められてたんだ、って……生きてるんだなあ、って……思っていたと、思うの」

 唇が僅かに震えた。声が震えないようにと気を付けてはいたが、彼には伝わってしまっただろうか。シールを握りながら迎えた朝を覚えている。朝陽のまばゆい日差しが、キラキラとホログラムを反射して、本当に宝物のように見えた。金を払ったわけでもない、同情されたわけでも、私が騙し取ったわけでもない。少年の好意という受けたことのない塊が、私にはどうにも眩かった。

 私、そんなこともずっと忘れていたのだ。
 あんなに宝物のように抱いていた眩さを、頭の隅に追いやってしまっていた。当時の想いが記憶から溢れれば溢れるほど、その感情が目の奥を熱くする。ずっと押し込められていた幼いころの私が、今になって泣きわめいているみたいだ。
 暗くてよく見えないだろうが、泣いているとも思われたくなくて、髪の毛を何度か手櫛で溶かした。顔回りの毛を重たく前に持ってきて、鼻水が垂れるのもちょっとだけ我慢した。鼻を啜ったら、泣いていると思われそうだ。


「……どうしてそう思う?」
「だから、私も小さい時、そういう風だったって……」
「じゃあ、どうして泣いているんだ」


 激しい風が髪の毛を後ろへと攫ってしまう。私は俯いたまま、深く呼吸を繰り返した。

「君こそ、なんでそんなこと聞くの」
「それは――」
「良いじゃん、もう会わないんだから。そんなこと――」
「どうして君は! 君は……」

 冷たい指先が涙を拭った。スコッチが、声を顰めて、小さく独り言のように囁く。語尾が上がっていた。首をほんの僅かに傾けて、問いかけるように。


「――――?」


 不器用な文字で書かれた名前。読むことにも苦労しただろう。
 私の、名前。物心ついたときには母はいなかったから、そう呼ぶのは姉しかいなかった。それでも確かに、私の名前だった。顔を上げる。スコッチは確信を持ったように目を見開いて、しかしすぐに小さく、人の好い笑顔を浮かべる。


「……今の君は、どっちだ?」


 私はその言葉を聞いて、初めて鼻を啜った。頬を伝う涙を拭い、口角を持ち上げる。彼が呼んだのは私の名前。だけれど、いつか置いてきた記憶の名前。ガラスの靴などなくたって、私はもう一人で歩けるのだから。守りたいものを、守りにゆけるのだから。


「ミチル。釘宮ミチル――。君のことが大好きな、ただの詐欺師だよ」


 得意げに笑って見せたら、スコッチが笑いながら「詐欺師は誇れることじゃないけどな」と茶化す。私もそれに声を上げて笑って見せた。

 遠くから車のヘッドライトが見える。タイヤがパキ、と枝を踏む音。彼との別れが近づく音だった。私は意地悪く笑って、その肩に凭れる。

「――で、お返事は?」
「……さあ。今は仕事しか考えられないんでね」
「遺言に好きって残そうとしたくせに。やな男だなあ」

 仕事とはよく言ったものだ。一人の男のために自らの命を投げようとしたくせに。
 考えれば考えるほど、僅かに嫉妬の炎が燃える。私は「スコッチ」と彼を呼んだ。薄い唇を微笑ませながら迎えの車に手を振る彼の親指を、ぐっと引寄せる。


「私、絶対君の気を惹いてみせる。どこにいたって、何年掛ったって……絶対に、君の一番になってみせるわ」


 車のライトに照らされると、彼の表情がクッキリと浮かび上がる。きょとんとした猫のような目つきに、私は挑発的に笑いながら手招きをした。詐欺――人を欺き、錯誤に陥らせること。それは金銭であろうと、感情であろうと同じなのだ。

「何度だって嘘をついて近づくから、待ってて」
「それって犯罪声明じゃ……」

 口を開いた彼に、噛みつくようにキスをした。彼のツンとした目が見開かれて、慌てたように顔を赤くするところまで、ライトに照らされてよく見える。どこまでも冷たい体温が、今ばかりは火照って心地よく思えたのだった。