70



 鈴を鳴らすような蜩の声が、まだ暑さの残る木々の中を巡っていく。青々とした葉を伝う雫が厳しい日差しを受けて煌めいた。昨晩降った雨の名残だ。整備の行き届いていない道のりはぬかるんで、男は足を取られそうになりながら坂道を登った。

 手土産は大玉な西瓜。車の中までクーラーボックスに入れていたから、冷たく汗をかいている。小坂を登りきったところに、都会で言えば土地の広い――まあ、田舎で言えばこれでも並みだろうか――庭付きの日本家屋が見えた。彼は一度手元にある住所と照らし合わせ、表札のない門扉のインターフォンを押し込んだ。

 やや間があって、玄関の奥から足音が聞こえる。ぱたぱたと駆け寄る足音は軽く、どうやら女のものらしい。がらりと横開きの玄関が開いて、パっと明るい顔色が男を出迎えた。一見さほど新しくもない家屋だったが、室内はリフォームされているらしい。心地よい冷気が男の体を撫でていった。


「バーボン!!」


 明るい声色が、男を招く。オールバックにした褐色の額から、ブロンドが汗とともに崩れ落ちた。歳を重ねても変わらない、甘く垂れた目つきがその姿を捉えて笑った。

「懐かしい呼び方ですね、誰のことかと思いました」
「あ……ごめんね。えっと、降谷……さんか」
「あはは。バーボンで結構、君にそう畏まられるのも妙な気分だ」

 後ろ手に扉を閉めると、男――かつてバーボンを呼ばれたその人は、手に持っていたスイカをちょいっと軽く持ち上げた。「良かったらどうぞ」、にこやかに差し出したスイカを、女もまた喜んで受け取る。瑞々しい実だ。「すごい、立派なスイカ〜」、と呑気に触り心地を楽しみながら、客間のほうへと足を向けた。

「良い家ですね。いつから?」
「二年前かな。コンビニまで三時間、マジ? って思ったけど」

 肩を竦める様子を、バーボンは微笑みながら見つめた。その表情に棘はなく、意外にも田舎での暮らしを気に入っていることが分かる。住所を聞いたときにはヤクザの下請け事務所のようになってないかと心配したものだが、見渡す限りの生活感に内心胸を撫でおろした。ここまで生活が整っているのは、単に同居人の影響であるとは思ったが――。

「スコ〜、スコちゃん〜!」

 まるで犬猫でも呼ぶように、女は廊下へ顔を出す。バーボンへ座布団を一枚手渡して、座っていてとジェスチャーした。バーボンは言われる通りに座布団を敷き、胡坐を掻く。彼女はスイカを手に、再びパタパタと駆けた。客間は畳だが、廊下はフローリングだ。スリッパの音がよく響く。

 暫くすると、勝手場らしい部屋からやいやいと言い争うような声が聞こえた。男らしき声は聞きなじみがあるものの、あまり響かず、女の声だけがくっきりと言葉尻まで聞こえてきた。

「――ら、――だって……ろ……!」
「えぇー、良いじゃん。スイカくらい私にも切れるって!」
「や……くだから――、――だよ……。アッ!!こら!!!」

 ――ダン!
 場が静まり返る。しぃん、とやけに不気味な静寂が響いて、バーボンは廊下のほうににじり出た。何があったのだろうかと首を出せば、続いて「いだっ!」と女の声。怪我をしていないと良いのだが。覗き込んだバーボンの視界に入ったのは、どこか目を吊り上げてスイカの並んだ皿を手にした、見覚えのある男だった。齢はちょうど同じ頃だろう。
 
 彼もまた、女と同じようにバーボンを目に捉えると顔を輝かせる。
 
「ゼロ……、ゼロ!」

 口元を綻ばせ、記憶よりも歳をとった目元が細められた。声も、いささか低くなっただろうか。それでも確かに記憶の中の姿と重なって、ぐっとこみ上げるものを堪えるようにその肩を抱いた。

「うわあ、久しぶりだ。ずいぶんこう……アダルトな感じに……」
「言うなよ。見た目が若すぎると部下から舐められるんだ……せめてもの抵抗さ」
「なるほど。そっちも大変だ」

 互いに視線を合わせてふっと笑みを浮かべていると、後ろから甲高い声がスコッチを呼んだ。

「な、殴ることないのに……」
「包丁を持つのは禁止ってあれほど言っただろ。ゼロが来たからって例外はないぜ」
「なによぉ、ゼロ、ゼロって〜……」

 彼女は悔しそうに、スコッチが持った皿からスイカを一切れ奪い、しゃくりと歯を立てた。それにまた、行儀が悪いと吊った目がますます吊りあがる。バーボンはそんな彼らの姿に苦笑を零し、今一度座布団へと座り直した。

「何年ぶりだろう。六年とか?」
「いや、今年で七年目だ。思ったより遅くなって悪かった」
「気にするなよ。二度と姿を見せるなって言われてたんだ、早いほうさ」

 スコッチはかつての彼の言葉を揶揄うように笑う。
 七年――世界的な闇組織が崩壊し、その後処理がすべて終わるまで、七年。世間には表立っていないニュースだが、少しでもその事件に携わる者たちにとっては果てしなく長い時間だった。バーボンなどはその筆頭で、ライとスコッチが組織から足抜けした後も根強く組織の内部に潜り込み、情報を解決に役立てた。女は思う。よくもまあ、四肢がついて戻ってきてくれたものだと。

 本当は、少しだけ不安だったのだ。彼一人を残すことに、いくら本人が決めたことといえど罪悪感がなかったわけではない。しかし彼は最後まで最前線でその役目を果たしたのだから――今は謝罪ではなく、賞賛を送るべきだとも思う。

「ヒロは、どうする。公安のポストは空けることもできる」
「……そうだな。長野県警の採用試験を受けようと思ってるんだ」
「長野県警の?」

 そう尋ねると、スコッチは静かに頷いた。彼が現在住居を置く場所――長野は、彼の故郷でもある。悲惨な事件に見舞われるまで、彼が育った場所だ。否定する気はない。だが、バーボンはてっきり彼は東都へ帰るものだと思っていた。

「いや、警視庁に嫌気がさしたわけじゃない。ただ、まあ、もう少しこの土地を知るのも悪くないかと思っただけだよ」
「……うん。好きにすると良いさ」
「七年間、庇ってくれてありがとう。少しでも降谷警視長に恩を返せるようにしよう」

 組織の足抜けをした彼が、表舞台に姿を見せることは難しかった。
 彼の命があると漏洩した時点で、バーボンの潜入捜査は打ち切りだ。彼の命すら危うい。だからこそ、慎重に姿を隠してきた――。そんな時に再会したのが釘宮だった。彼女は実に献身的にスコッチでは手の届かない情報や、時には接触を試みた。スコッチ曰く、この家はそんな行動への、少しばかりの恩返しらしい。


 それからは暫く、世間話に花を咲かせた。
 特に世話になった人たちの情報については、バーボンの口から聞くたびに、スコッチも釘宮も大げさなほどに一喜一憂した。バーボンもその反応を面白がって、いつもよりも多く口が回っているようだ。

 松田はあの後、降谷という相談役がストッパーとなってか一人で爆弾犯を追うことをやめた。同期の中でも一つ頭の抜けた降谷の推理力に信頼を置いていたのだろう。いざこざはあったようだが、犯人は無事に捕まったらしい。萩原という彼らの同期生について、スコッチも独断で家宅捜査をしていたことを認めていた。無論、二人そろってバーボンの二時間説教コースをかまされる羽目になる。

 宮野明美、志保は今はイギリスに身を置いているらしい。
 バーボンも二人のことについてはFBIに任せてあった為詳しいことは聞いていないということだったが、少なくとも組織の崩壊後、時計塔の下で笑顔を見せる二人の写真を添えた手紙が届いたようだ。

 ライはと言えば、相変わらず現役の捜査官――かと思いきや、今は教育係へ身を引いたのだと言う。二人揃って「ライが!?」と爆笑した末、腹を抱えながら畳に突っ伏していた。彼の傍若無人ぶりだけは、後世に伝えてはいけないと語りながら。

「……ミチルさん、少し変わりました?」

 バーボンは、一通りのことを語り終えると、静かに涙を滲ませた釘宮を見遣った。彼女は首を僅かに傾げ、「そうかな」と問う。あれほどブリーチで痛んでいた髪も、今は少し色素の抜けたブラウンで、白いティアードスカートが足元に揺れている。

「こう、丸くなったというか」
「それはバーボンもそうでしょ。ていうか、それは歳だって」
「それもそうか。はは、二人が幸せなら、僕はそれで何よりです」
「可愛いコト言うね。私バーボンと一緒に住んじゃおうかなあ」

 ちらっとスコッチの笑う顔を見返しながら笑えば、スコッチは呆れながら彼女の首根っこを引っ掴んだ。

「君みたいな奴、ゼロは四六時中見張るほど暇人じゃないぞ」
「へぇ〜、じゃあ君は暇人なんだ。いっつも横についててくれるもんね」

 ふふ、満足そうに微笑みながら、釘宮はもう一切れスイカを齧った。そんな二人の様子を、バーボンも微笑みながら見守るのだ。それは彼らが七年越しに実らせた、幸せの形であったのだttttttttttttttttttttttttttttttttt――――――



―――
――


 ああ、またこんなところで寝てる……。パソコンつけっぱなしにするなって言ってるのに。幸せそうな顔して、一体何――。何だ、コレ。ふ、あは、あははは! デタラメだらけじゃないか。へえ、こういう未来が良かったのかな。相変わらず嘘ばっかりつくんだから、ミチルさんは。しょうがない、オレがちょっとだけ、本当の未来を書いてあげようか。起きたら怒るかな。寝室に運ぶ代金にさせてもらうか。