エピローグ

「風見さん!」

 液晶からの光が室内を満たす中、男は磨かれた靴を鳴らして敬礼をした。
 液晶の前に立つのは風見と呼ばれた眼鏡をかけた神経質そうな男で、歳は敬礼している人物より僅かに上だろうか。彼は軽く手を挙げて、男の姿勢を崩させた。そして、液晶のほうへ男を手招く。
 
「悪いな、こんな時に」
「……いえ、分かっていますから」

 男の顔に苦笑いが浮かぶ。二人は液晶を覗き込み、映し出されたEメールを見る。彼らにとっては、幾度と覚えのある映像であった。簡単なアニメーションだ。女ものの下着をつけたネズミが、スコッチを飲み干して、酔っぱらった風に手招きをする。そのアニメーションを見て、男は軽く額を覆う。

「またですか」
「しかも、今度は官房長官だよ。上もお怒りだ」
「はぁ……被害総額は?」
「捜査で上がっているのは一億だが、裏も併せたらどうだろうな」

 彼らが今目の前にしているのは、近頃巷を騒がせる一人の詐欺師の犯罪声明だ。
 ただの一介の詐欺師が、今や新聞の一面を飾る――何故そこまで巨大になったかといえば、その詐欺師は強き者から金を奪い、弱き者にまき散らすという――。簡単に言えば、現代のネズミ小僧のような存在なのだ。
 その詐欺師が奪うのは不正金。俗に裏金と呼ばれるものをあの手この手と騙し取り、知らないうちに困窮した施設や団体の口座へと振り込まれているのだそうだ。
 そして必ず、騙し取ったその暁にメールへこのアニメーションを添付して送りつける。そこまでが彼女のやり方だ。

 本来であれば、これは捜査二課の担当なのである。
 だが、あまりにも国の中の要人ばかりを狙って詐欺行為を繰り返すため、これはいわば過激派団体からの攻撃ではないのかという声が上層部から絶えず、公安部まで話が回ってきたのだ。風見は公安警察らしい、公平と規律を重んじる男だった。彼から言わせれば「お前らが悪いんだろ! 余計な仕事を増やすな!」である。

 目の前にいる、風見の後輩でもある男――諸伏景光は、現在警視庁へ在籍していない人物だ。正しく言えば、在籍記録を消されている。とある闇組織への潜入捜査から帰還して依頼、その身を隠しているためだった。
 そんな彼に白羽の矢が立った。確かにサイバー調査は足を使う事件よりは身を隠しやすいのだが――正直に言えば、人手不足なのだ。風見は心底申し訳ないと思いながらも、彼を呼び出すこと、これで七度目だ。

 風見は諸伏にもう一度謝罪を述べながら、今回の事件の資料を手渡す。
 一度一度の事件が解決に至っていないわけではない。金は案外簡単に取り戻せるルーツになっていて、要人たちも裏金については帰ってくれば良しと口を噤んだ。捜査期間も、さして長いわけではない。ただ、犯人が捕まらない。

 おかしな話だった。
 これだけの捜査を繰り返して捕まらないだけの実力があるのに、金の出所や行き先はすんなりと辿れるようになっているのだ。まるでネズミ捕りのエサのように、トカゲが尻尾を切り離しているように。

 諸伏は小さくため息をつく。風見が踵を返したのを後ろに聞きながら、アニメーションをクリックした。

 スコッチを飲み干すネズミが、挑発するようにこちらを手招く。
 彼には、その犯人の姿が目に浮かぶようだった。まさか、自分を最前線に引っ張り出すために、彼女がここまで手を尽くすとは思わなかったのだ。今や、その名前は表世界に轟いている。
 諸伏は知っている。彼女は別に善人ではない。
 今回の詐欺とて、別に困窮した者たちを救いたくてやっているわけではないだろう。彼女はただ、そのしっぺ返しを食らうのを恐れたのだ。追い詰められた人間の想いを、誰よりも味わったから。

 それは良い。彼女は自分を知り、他人を理解したのだ。そこまでは良い。

 ただ一つ悔いるとすれば、彼女にここまで詐欺の才能があったことを見抜けなかったことである。その手口は鮮やかで、今や諸伏が力を尽くしても姿を掴むことは難しい。単独犯のメリットを最大限まで活かし、口座をおろしにいくのには決まって学生や浮浪者に上等な服を着せて行った。しかも、伝言は四重、五重となっていて、どの時点が彼女であるかも辿りづらい。

 あんなにも一円単位にがめつかった彼女が、今や億万長者である。――が、彼女の目的は金ではない。それこそが諸伏を悩ませていた。


「私、絶対君の気を惹いてみせる。どこにいたって、何年掛ったって……絶対に、君の一番になってみせるわ」


 これは、諸伏と彼女の根競べだ。どちらが先に折れるか、折れまいか――。彼はため息を零し、しかし口元にうっすらと笑みを浮かべる。のちに、その女は争いをヒートアップさせ、国を揺らがすような詐欺師になるとも知らず。のちに、ルパンに銭形、キッドに中森、Ms.ロビンフットに諸伏なんて呼ばれるようになることだって、彼はまだ知る由もないのである。


―――
――


「えっ、何打ってるの!」

 私は起きた先に、見覚えのあるキーボードに指を滑らす姿を捉え、慌ててパソコンを取り上げた。彼は枕に腕を凭れさせながら目を細めて「ン?」なんて首を傾ける。そんな顔をしたって、駄目なものは駄目なのだ。

「あんまりにデタラメだらけだから、訂正してやろうと思って」
「フーン、スコッチが打った分もデタラメがたくさん詰まってますけどぉ〜……?」
「多少の脚色は小説の醍醐味だろ」

 ニコ、と吊り目が猫の置物のようにわざとらしく弧を描く。それをジトっと睨みつけながら、大きく伸びをした。カーテンから零れる日差しを見るに、もう昼近くだろうか。彼がこんなに遅くまで叩き起こさないなんて珍しい。よほどその小説を気に入ったのだと思う。

 欠伸を掌に零し、大きく伸びをした。今日はコーヒーを淹れてくれないのと寝返りをうって零すと、スコッチは呆れながら私の寝癖を直すように髪を撫ぜる。昨日美容院でトリートメントしたばかりだから、さぞ触り心地は良いだろう。お金を取りたいくらいだ。

「ふふ、Ms.ロビンフットに諸伏だって」
「アダルトなバーボンを妄想する奴に言われたくないな。アイツ顔だけは二十代真っただ中だぞ」
「だって、絶対可愛いと思ったんだもん」

 拗ねながら言うと、スコッチは少しだけ顔をゆがめて、瞳孔が大きくなった瞳で私を見つめる。口が曲がっていた。そんな表情に、根競べは私の勝ちだとほくそ笑んだのだ。

 
噓つきのパラドックス
 どこからが真実で、どこからが嘘なのか。全てが偽りなのか、真実が混ざっているのか。
 それは誰にも分からない。何故なら私たちは皆生きていて、嘘だけをつくわけでもなければ、生粋の正直者ですらない。それが人間だからだ、物語の仮説の人物ではないからだ。

 ただ、強いて言うのなら、私は目の前の男のことが好きだ。彼の全てを独占したいし、彼のためならば命を懸けようとも思える。私は私のまま、噓つきのまま、彼を愛したいと思うのだ。



 世の中を回すのは、知恵と金――それから、ほんのちょっぴりの嘘である。

 その嘘は人を騙すものであったり、誰かを傷つけないためものであったりする。
 些細な嘘なのかもしれないし、世界を突き落とすような嘘なのかもしれない。
 生粋の正直者などこの世にはいない。少しずつの嘘を重ねて、私たちは生きている。自分の使命、友人の命、誰かへの恋慕、家族の立場、プライドや仲間への義理、信念。皆が何かを守るために、少しずつ嘘をつく。

 悪だと言うなら言うと良い。そういう嘘もあるだろう。
 だけれど、私は多くの嘘つきを見てきて思うのだ。彼らがそうやって呟く言葉を、或いは、人は別の呼び方をするのではないだろうか。それは、例えば愛と――愛と、呼ばれるものかもしれないと――そう、思うのだ。