14
ケーキを片付け終えると、先ほどよりも少しばかり気まずい空気の中で部屋の片付けが始まった。カチコチと強張ったわけではないが、いつもに比べるとやや会話がぎこちない。彼もまた私がネガティブな想いを抱いたことを察しているのだと気づく。食事もケーキも美味しくて、ツリーだって完璧だったのに。私の態度がそうさせてしまっているなら申し訳ないと思う。
私は悶々と考えて、何とか彼に気にしないよう伝えられないかと思った。
確かに気になることはあるが、これは彼に原因があるわけではない。私が解決すべきものだ。考えているうちに、赤井がふと皿を食器棚に戻す私を呼んだ。
「え、どうかしました――」
か、最後の言葉が空気を震わす前に、その長い腕が伸びた。私の頭上に影を作る。腕の先を辿ると、皿を押し込んだことで隣にある小皿が棚から落ちかけていた。
「すみません! 大丈夫ですか」
「平気だ。その少し大雑把なところはどうにかならないか」
「反論もできません……父にも直すように言われてるんですが」
整えてくれる腕に甘えて、私は下にあるカトラリー類を片付けることにした。迷いなく食器類を仕舞う姿に感心する。私は蘭から聞いた情報を頭の中で復唱しながらなんとか片付けているというのに、やはり覚えが違うのだろうか。「すごい」と褒めると、赤井はゆるやかに首を振った。
「言っただろ、世話になった人だと。短い間家に住んでいたことがあってね」
「へえー、ホームステイみたいな」
「そんなものだ。料理もその時に覚えた……君より十も上の歳になって、ようやくな」
「じゃあ私にもワンチャンありますね〜」
あと十年したら覚えてみますと笑って拳を握ると、赤井は笑った。――あ、笑ってくれた。どうやら気まずさは大分払拭できただろうか。素直な部分は自分の長所だとも思うが、これからは少し言動に気を付けよう。
「その、すまなかった」
一人頷く私の横で、ふと赤井がつぶやいた。
――いや、まさか心の中を読んだのか。
そうとも思えるタイミングだったものだから、かなり動揺していたと思う。思わず後ずさった足元を見て、彼が笑いを堪えるのが分かった。小さく、安堵の息をつく。穏やかな顔の彼を見て、気が楽になった。
「君のことを好きだとだけ言って、話していないことが多すぎた。一方的な押し付けになっていたことは、悪かったと思う」
「い、いえ……。というか、過去を話してほしいなんて思ってません。でも、その」
――今の彼が、どう思っているかは気になる。
彼にどんな辛い過去があろうと、忘れられない人がいようと構わない。彼とは違う人生を歩んできたのだから、仕方ないのだ。だけど彼が今私に何を思っているかは知りたい。その感情は矛盾しているような気もする。上手く言葉にできなかった。
「なんでそんなに私を好きでいてくれるんですか」
初めて出会ったときから違和感を感じていたことを投げかけると、赤井は少しだけ口を噤んだ。
「自信がないとか、そういうんじゃないんです。もしかしたら特殊な一目ぼれなのかもしれないし、理由があるのかもしれないですから。ただ、考えても赤井さんが最初から好意的な理由は浮かばなくて……極度のアジア人好きとかロリコンくらいしか……」
「よせ、確かに年若い君に求婚している自覚はあるがやめてくれ」
「全部じゃないくても良いので、教えてください」
彼はキッチン台に軽く腰を凭れかけた。行儀が悪い、と笑うと恥ずかしそうにしながら尻を浮かす。
「俺は運命という言葉が嫌いだ」
頬骨をなぞって、彼は小さくそう言った。最早答えているのだか独り言なのだか分からないほどの声量だ。
「仕事柄、たくさんの人間を見捨てた。幸せな奴も、不幸せな奴も、犯罪者も、被害者も、関係者も――……」
それから眉を僅かに顰めて、瞼を僅かに落とした。
「恋人もいた」
翡翠の瞳が僅かに揺れる。優し気な色が眼差しに浮かんで、それだけで彼がその恋人のことを好きだったと分かるほどだった。失恋したと聞く、噂の恋人だろうか。口を挟むのは邪推になると思って、頷くだけ頷いた。
「散々苦しんで、こんな俺に見捨てられるのが運命だとしたら馬鹿にしてるよ」
自嘲気味に笑って、掌を緩く握った後、それをゆっくりと開いていく。
「でも、スズが言った運命という言葉を嫌だと思わなかった。寧ろ出会えたことが運命であれば良いとさえ思った。どうしてかは分からないんだ」
「……なにそれ!」
「怒らないでくれよ……それじゃ、駄目かな」
怒ったわけじゃない。驚いたのだ。ここまで聞いて、彼に好きな理由はないと言うのだから――そしてそれは、私と同じであったのだから。これこそ運命なのではないかと思った。彼を手放したくないと、強く。
同時に吹っ切れた。私を好きでいてくれることに代わりないのなら、私もそうでいようと思った。私は彼の手をはしと両手で取って、視線を真っすぐに合わせた。猫のように丸くなった目つき、グリーンの瞳の真ん中がきゅうっと小さくなって見える。困惑した彼に、私は衝動のままに詰め寄った。
「私と、け、結婚してください!!」
ばくばくと心臓が大きく鳴っている。
今にも口の奥から飛び出てしまいそうだ。指先が震えるし、声も震えていた。けれど視線だけは真っすぐと逸らさずに、私の言葉は嘘でも冗談でもないと訴えたかった。
ぷるぷると引き結んだ唇、気が付けば呼吸を止めてしまっていて、赤井が驚いた肩をゆっくりと下ろすまで息を吐けなかった。ややあって、赤井は笑った。くしゃ、と軽く皺を寄せて、可笑しそうに、愛おしそうに。
「そうだな、君にはそのくらいストレートに伝えなければいけなかった」
私が捕まえていないもう片手が頬に触れる。彼はゆっくりと私の首筋にかかった髪を払った。深爪した指先が皮膚を擽る。囁くように「手をはなして」と言われた。たじたじと手を離す。続くように「目を閉じろ」、と。瞼を落とす。
「……大丈夫」
不安そうな顔をしたのだろうか。自覚はなかったが、彼が柔く笑った。私は先ほどと同じように彼の言葉に従った。
擽るような感覚が首筋に走る。彼の香水の匂いが強く香った。赤井が目を開けてと言う言葉のままに瞼を持ち上げる。
「回りくどくてすまない。歳を取るとどうにも臆病になる」
「私、そういうちょっとオジサンっぽいところ好きなので……」
「失礼なことを言うな。プロポーズの途中だろ」
クク、と笑いながら、彼は私の鎖骨あたりをなぞった。チリ、と何かが掠る感触。指を伸ばすと、細いチェーンが首を一周していることが分かる。ペンダントトップには花を象った、チェーンと同じゴールドの小さな装飾が下がっていた。
「本当はクリスマスプレゼントのつもりだったが、これが答えでは物足りないか」
「そんなわけないじゃないですか、すっごい綺麗だし!」
「なら良かった」
彼は私の腰を引き寄せて、ひょいと軽く抱えた。つま先が地面から離れる。鼻先にチョンと彼の唇が触れた。
「結婚、してくれるんですか」
じっと見つめたままに尋ねると、彼はまたキョトンとしてからニィと笑う。
「ふふ、さっき反省したばかりなのに、また同じことをしてしまった」
「な、なに。どういうことですか」
「ペンダントを捧げたことが答えさ。いや、やめよう……」
笑いながらゆるく首を振り、私の体を持ち上げてカウンターに乗せた。これほどに逞しい腕であったことは初めて知った。彼の目が細められる。
「もちろん、イエスさ」
「本当に!?」
「俺としちゃあ、さっきのアレがプロポーズのつもりだったんだがな」
苦笑を浮かべながら、彼は私の頬にキスをする。今度はもう戸惑いはなかった。私は彼と結婚すると、幸せにすると、そう決めたのだ。