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 くだんのプロポーズ以降、一息つく間もない忙しない日々を送った。父親への挨拶や式はどうするやら向こうの両親との顔はどう合わせるやら、決めることはたくさんある。たかが結婚、されど結婚だ。友人、知人、職場の人への報告や籍を入れてから書き換えるものを調べたりと、ようやく二人揃って落ち着けたのは実に二週間あとのことだ。
 ああ、実に情緒のない年越しをしてしまった。
 そうは思うが、嫌ではなかった。彼もそう思ってくれていれば嬉しい。新居探しの帰りには車のなかで眠ってしまい、起こすのを可哀そうだと思ったらしい赤井まで眠ってしまったのは今や笑い話である。

 もう少し結婚まで二人で過ごす時間もあるかと考えていた。
 予想は大きく裏切られ、あれよあれよと籍が変わる。父親は私が家を出るのと同時に、実家のある田舎へと引っ越すことになった。田舎で喫茶店を営むのが夢だったんだと話すその目じりは僅かに潤んでいて、無理をすることはないのにと私はその体を抱きしめる。父は赤井のことを好いていた。私を抱きしめるのと同時に赤井の体も引き寄せて、ぎゅうと背を叩いているのを見て、私までウルウルと涙が滲んだ。

 ――と、ここまであまりにダイジェストに説明したのには訳がある。

 一つ一つの思い出を紐解くほど、今の私に余裕が残されていないからだ。スーツケースをガラガラと引きながら走る。まずい、次のバスに乗り遅れては間に合わない。赤井が仕事だというから、自分一人で行けると軽く笑った昨夜の私が恨めしい。やはり迎えにきてもらうのだった。

 急ごしらえの新婚旅行――も兼ねた、赤井の家族との顔合わせだ。
 彼の家族は現在イギリスに在住しているらしく、折角なので新婚旅行も兼ねて挨拶しに向かう予定になっていた。赤井は本当にそれで良いのかと再三聞いてくれたものの、父子家庭で海外旅行の時間もとれなかった我が家にとってはじゅうぶんだ。私たちが旅行のあとに顔を合わせるタイミングで、父や祖父母も合流するつもりだ。
 
 いや、だからそんなことを言っている場合ではない!

 赤井からあれだけ口酸っぱく一時間前には空港に着いているよう言われていた。今のバスに間に合ったとして、到着は四十分前。今は赤井の住むマンションへ身を寄せているが、父も赤井もいなくなった途端にこれである。いかに今まで甘えて暮していたか身を持って思い知ることになってしまった。

『まもなくドアが閉まります』

 というアナウンスを耳にして、ダッシュで駆け寄る。こんな寒い日だというのに、額や背中には汗が滲んだ。どうやら私が走る姿が運転席からも見えていたようで、運転士はにこやかに扉を開けてくれた。

「た、助かった〜……」

 ぐて、と背もたれに凭れかかり、スーツケースを邪魔にならないよう座席へと寄せる。私の零した言葉は周囲にも聞こえたらしい。笑われたような気がする。ちょい、と肩を叩かれる感触に、五月蝿かったかと謝りながら振り返った。

「スズ」

 笑いながら零れた声。はっとして顔を上げると、男はネックウォーマーから口元を覗かせてニコリと微笑む。私はその人に今の一連の流れを見られていたと思うと、どうにも恥ずかしくなって肩を縮こまらせた。

「結婚おめでとう」
「ありがとうございます」
「最近仕事が忙しくて、偶然会えて良かったです」

 降谷には結婚報告の電話を一報入れていたが、暫く折り返されることはなかった。赤井も忙しいのだろうと言っていたから気にしてはいないが、元気そうなので何よりだ。出発前に会えて良かったかもしれない。――などと、自分の遅刻に言い訳するようなことを考えていると、彼はチラリと私のスーツケースを見遣った。

「もしかして、日本を発つんですか」
「あ、いえ! ご家族に会いにいくんです。ついでに観光を……」
「なるほど。ということは、飛行機の時間に遅れそうで急いでいると……」

 がたん、減速帯を踏んだ車輪が浮かんだ。転がらないようにスーツケースを押さえながら、あははと誤魔化すように笑う。

「車だったら送っていったんですがね。赤井は?」
「昨日は仕事が色々あったみたいで……。忙しそうだったので、現地集合にしたんです」
「今頃心配で仕方ないでしょうね」

 スマートフォンの未読メールをチラと一瞥して、頷いた。バスの時刻表を見て、到着時間を送信すると【了解】と短い返事があった。恐らく送ったその表情は呆れたように笑っていることと思う。

「意外です」

 背もたれに腕をついて、降谷は笑った。私は「確かに、急な結婚でしたよね」と零す。すると彼はゆるく首を振り、走る景色を眺めた。朝陽が照らすブロンドはさながらミルクティーが波打っているようだ。

「アイツが僕に紹介すると言った時、君に本気で惚れているとは思っていましたから」
「えぇ、どうして」
「だって、そんな風に恋人を自慢する人に見えます?」

 苦く笑われて、赤井のことを思い返す。
 ――見える。ものすごく見える。籍を入れた日など浮かれていたのか、婚姻届けと私のピンショットを「職場の奴に見せるから一番かわいい君を撮りたい」と言ってこだわりぬいた角度で何枚も撮影したのだ。
 私が答えあぐねていると、降谷が察したように「まあ、その、歳もありますが」と咳払いする。

「僕が意外なのは君の方だ」
「私ですか」
「だって、あんなに恥ずかしがっていたのに。結婚まで一足飛びに行くなんて……僕の予想よりずっと思い切りの良い子だったんだと思いまして」

 そう笑う彼の顔は、いつもより少し幼い。思い立ったが吉日、と父に笑われたことはある。否定はできない。曖昧に笑うと、降谷は「でも」と付け足した。

「どこか、しっくりくるのは不思議ですね。ずっと前から君たちを知っていたような気もします」
「確かに。ねえ、降谷さんは知ってます? 私ってそんなに赤井さんの元カノに似てますかね」
「元カノ……ですか」
「あ! 気にしてるとか、そういうわけじゃ。ただ時々ぽろっと零す情報があんまりに私にぴったしなんです。だからその、どんな人なのかな〜と思って……赤井さんに聞くと誤魔化されちゃって」

 彼はしばらく考えるように黙った。踏切の音が響く。どうやら心当たりがないわけではないようで、記憶を取り戻すように唇に指を当てた。

「すみません、それほど親しいわけでもないので、嗜好は分かりません。外見や雰囲気は似ていないと思いますが」
「へえ……いや、急にすみません」
「いえ。君が気にしないと言うなら、志保という子に聞いてみてください。彼女の妹で、今はイギリスにいるはずですから」
「でも感じ悪くないですかね? 今から結婚するっていうのに」

 姉の元恋人の婚約者に色々と聞かれたら、気を悪くしないだろうか。心配して告げると、降谷は笑いながら「気にするような人じゃありません」と言う。

「ああ、もう着きますね。僕は次のバス停なので」
「本当だ、ありがとうございます。お仕事頑張って!」
「何かあれば留守番に入れてください。お幸せに」

 ひらひらと手を振られて、私は機嫌よくバスを降りた。空港はもうすぐ目の前だ。中は広いので、先に赤井に連絡を取っておこうか。先に着いて待ちわびていることだろうし。彼に電話を掛けると、すぐにコール音は鳴りやんだ。

「赤井さん! すみません、もう空港ですよね!」
『良かった、間に合ったようで』
「あはは……今行きますから」
『ああ、そのようだ』

 鳥の鳴き声。信号の音だ。私が顔を上げると、大きな道路を挟んで向こう側に赤井が軽く手を挙げていた。私も大きく両手を振る。鳴っていたのは私が渡る方向ではない信号機で、赤井のすぐ上に立つ歩行者信号は赤色を指していた。

「昨日は眠れました?」
『いや? 君がいなかったから寝付けなかった。隈がひどいよ』
「よくそんなこと言いますね……。あ、さっき降谷さんに会いましたよ」
『降谷くん? それはまた、粋なことだ』

 赤井の笑い声がした。向こう側にいる彼が腕時計を見るのが分かる。肩にかかった革のボストンバッグ――今からイギリスに旅行にいこうという荷物ではないようにも思うが。男とはあんなものだろうか。家の中も、荷物が少なくはあるけれど。

「仕事が忙しいって。式に呼んだら迷惑ですかね?」
『呼ばなければ俺が叱られる……っと、待ってくれ。母さんからだ』

 携帯を確認すると『君が来るのが待ち遠しいと』、赤井が内容を読み上げた。私も口元を綻ばせる。赤井に似た人なのだろうか、だとしたら美人だろうなあ。妹も一緒に住んでいて、弟は今は仕事で大阪にいるとか。楽しみだ。これからも、ずっと彼を知っていきたい。

 反対側の信号が赤になるのを見て、私はうずうずと足踏みをした。早く彼の体に思い切り抱き着きたい。煙草の香りを嗅ぎたい、大きな手で支えてほしい。

「赤井さんに会いたい〜……!」
『いつになったら名前で呼ぶんだ、君……。はは、俺も会いたいよ、スズ』

 信号の色が変わる。私は待ちきれなくて、スーツケースを引きながら小走りに彼のほうへ走り出した。バスに間に合うかと走っていた時にはあれほど重たく感じたのに、今はひどく軽く感じる。

 赤井秀一という男に、恋をした。
 よく笑う人。愛情深い人。可愛い人。猫のような美しい瞳をした人。
 もしかしたら辛い過去があったのかもしれない、それに苦しむのならば支えたい。忘れたいのなら、共に過ごして塗り替えたい。彼が私に幸あれと願うように、私も彼の笑顔を望みたいのだ。

 どうか、これから先も彼が穏やかに過ごせますよう。
 その隣にいるのが、私でありますよう。ここが、彼の楽園でありますよう。
 ――もしも傷つくことがあるのなら、彼を守るのもまた、私でありますように。

 白い息が空にのぼる。空港から発つ飛行機が頭上に暗い影を落とした。カンッ、スーツケースのタイヤがアスファルトの上に転がった小石に突っかかった。


「――スズッ!!!!」


 大きな手がこちらに伸びた。私もその手を掴もうとしただろう。聞いたこともないような大声に気を取られて、遅れて聞こえたブレーキ音に振り返るまではずいぶんとゆっくりだったように思う。

「……あ」

 走馬灯が流れる暇さえなかった。肩、腹、腰、上半身に衝撃が走って、ぐっと体が熱くなる。痛いとは思わなかった。熱いと、思った。次の瞬間にはぐるっと視界が反転して、空を行く飛行機を眺めていた。スーツケースの中身がぐちゃぐちゃに散らばっている。腕が動かない。服でも財布でもスマホなく、ただ一つ無事かどうか気になるものがあるのに。

 顔を真っ青にした赤井が覗き込んで、そのグリーンアイに映る自分の首筋を見て、私は小さく笑った。良かった、壊れていない。「スズ」、彼が心配するほど慌てふためいて私を呼ぶ。「はい」と、いつものように元気よく答えようとして、声は出なかった。かわりに腹の奥が、熱くなった。