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 ケホ、と咳き込んで重たい瞼を持ち上げる。見覚えのない天井だ。
 頭を動かすと首が何かに固定されていることに気が付く。否、首だけでない、足もうまく動かなかった。ままならない呼吸にもう一度咳き込むと、顔にも違和感がある。ピ、ピと継続的になる電子音を耳にして、ようやく此処が病室だと気が付いた。

 ――良かった、私は生きていたのか。

 何度か赤井が呼ぶ声が聞こえたあたりまでは覚えていたが、遠くなる意識と落ちる瞼に逆らえなかった。旅行に行けなかったのは残念ではあるものの、命にはかえられまい。真っ白な天井と繫がれた呼吸器を見比べて、ずいぶん派手にぶつかったのだと分かる。意識が戻るとじわじわと足の痛みを感じて、ウウと唸った。

 その声が届いたのだろうか、点滴を代えていたらしい看護師がパっとこちらを振り向いた。目を見開き、私の指先を軽く握る。

「意識はありますか、大丈夫ですか」
「あ、はい……ちょっと痛いです……」
「すぐ痛み止めも処方しますから。少し待っててくださいね」

 看護師はそう言い残すと、軽い足音を響かせながら誰かを呼びに戻る。
 きっと父にも赤井にも心配させてしまったことと思う。青信号だったとは言えど、いつも忙しなく突っ走るのはなんとかしなければ。すぐに駆けつけるだろうから、ちゃんと謝って、直ったら向こうのご家族にも謝罪をしよう。

 私はしばらく、赤井のことが心配で仕方がなかった。
 意識を失う前の彼が真っ青な顔をしていたことといったら。この世の終わりでも見たような――それが嬉しいと同時に心配だ。銃声をトラウマに思うほど繊細な人だから、あんな光景を目の当たりにして苦しんだことと思うのだ。私だって、目の前で赤井が跳ねられたら暫く良い夢など見れやしないだろう。

「……会いたいな」

 あの時は抱きしめられなかったから、早く会って抱き寄せたい。
 ネックレスは誰かが預かってくれているだろうか。千切れてはいなかったので、紛失してないと良いのだが。暫くすると医師らしき男が戻ってきて、私の手足や指先の感覚を調べたり、意識がしっかりしているか、痛みはどの程度のものかと色々テストをされた。また後日には改めて検査をするからと言い聞かされる。真面目そうではあるが、優し気な雰囲気をした男だった。

「いや、でも奇跡だよ。あんな大型車に跳ねられてこの程度で済んでるんだから」
「この程度って、めっちゃ大怪我だと思いますが……」
「まさか。時速四十キロで走行していた普通車でもビル六階の高さから落ちる衝撃と同じくらいと言われているんです。丈夫な体に産んでくれたご両親に感謝したほうが良い」
「えぇ……マジですか」

 私の体ってそんな丈夫にできていたのか。
 確かに昔から喧嘩で骨を折っても治癒力だけは高くて、一周間後には相手の顔を殴りにかかっていたっけ。父はそれほど丈夫な男にも見えなかったので、母が大層頑丈であったのかも――でも病弱だって言ってたか。じゃあ隔世遺伝かもしれない。
 
「……あの、私の荷物とかってありますか?」
「いえ……あ。一つあります、ネックレスつけていたね。手術のときに外してしまったけど、保管してあるからね」
「良かった。……え、他は?」

 そんなわけがない。だってスーツケースごと跳ねられて、衝撃で全部ぶちまけてしまったのだ。私がキョトンとして尋ねると、医師は首をゆるく振った。それから、私の目線に合わせるようにして彼は尋ねる。


「ちなみに、名前は言えるかな。できればご両親の名前とか電話番号とか――。君の身元が分からなくて、一応警察にも連絡は取ってるんだが」
「……名前」


 ぽかんと、小さく口が開いた。
 名前――って。荷物だってあったはずだ。間違いなく、スーツケースを転がしていた記憶はある。中にはパスポートだってあったし、赤井が傍にいたのに。あの人のことだ、きっと救急車にも付き添ったことだろう。そうじゃなくても、名前くらい。

 私がぼうっとしていると、医師は難しそうな顔を一瞬見せて質問を変えた。

「じゃあ、歳とか。お友達の名前とか、住んでた場所とか……。何でも良いよ、思い出せることを喋ってごらん」

 ――いや、全部覚えている。
 覚えているのだが、そんなことを聞かれる理由が分からない。赤井が父に連絡を取らないわけもない。これはテストだろうか、記憶障害がないか疑っているとか。私はひとまず、自分の覚えうる限りの情報をポツポツと答えていくことにした。

 名前、両親の名前、電話番号、年齢、住んでいた地名、友人の名前。
 それから、事故に至るまでの覚えている限りの経緯。

 医師が尋ねたことすべてに答え終えると、彼は口元だけをニコリと微笑ませた。そして「分かった」と一度頷くと、痛み止めを取ってくるからと踵を返す。

 何だろう、やけにモヤモヤとするのだ。
 というか、普通は血縁者を呼んでこないだろうか。父親然り、苗字は違えど戸籍を入れたのだから赤井然り。態度が悪い医師にも見えないが、忙しくて伝えるのを忘れてしまっているのだろうか。

 暫く待っていると、次に病室に来たのは優しそうな中年の女性だ。

「こんにちは」
「……こんにちは」

 にこやかに挨拶をされて、私も体を動かせないままに挨拶を返す。彼女は、先ほどの医師と同じ質問をした。私は同じように答えを返してから、少し眉間にしわを寄せた。

「……あ、あの。父に連絡を取ってもらっても良いですか。夫にも」

 少し強気に伝えると、女性は困ったように眉を下げた。その表情に嫌味たらしさはない。真剣に、どうしたら良いのか考えているようだった。まるで私が可哀そうだと、そう言いたそうな柔らかな眼差しをしている。

 もしかして、彼らにも会えない理由があるのか。

 事件に巻き込まれたとか、あの事故が玉突きで赤井自身も事故にあったとか。
 そうだったら尚更に情報を知りたい。少し強めの口調にはなってしまったが、私は「お願いします」と食い下がった。遅れて入室してきた医師が、女性と顔を合わせる。もう一つ、人影があった――スーツに身を包んだ、年若い女性だ。

「良かった。意識が戻ったみたいで」
「……誰?」
「交通部所属の三池苗子です。捜査課とは違うんですが、事故現場に居合わせて、心配で……」
「毎日お見舞いに来てくれてたんだよ。現場のこともよくご存知だ」

 「警察」、と零すと、彼女は柔らかく微笑んだ。まだ若い、私と同い年くらいだろうか。私の額を少し撫でると「痛かったよね、可哀そうに」と言う。その発言にやはり違和感を覚えながらも、現場にいた男とスーツケースのことを尋ねた。すると、彼女は首を振った。

「ごめんなさい。現場には貴女が荷物も持たずに倒れていて、近くには誰も……」

 眉を下げて、彼女もまた私のことを見下ろして同情の色を露わにする。ゾっとした。確かにひどい怪我をしているとは思うが、何をそんなに憐れんでいるのだ。警察官なんて、事故にあった人を山ほど見てきたのではないか。私なんて怪我をしているとはいえ四肢もついたままだし、彼女からすればまともなほうではないか。
 そんなことを考えていると、ぽたりと雫が額を打った。驚いて視線を上げると、三池と言う警察官がポロポロと涙を零している。私は困惑したまま彼女を見上げていた。

「ご、ごめんねっ……。本当に、泣くつもりは……」
「三池さん、本人の前ではあまり」
「すみません! ちょっと頭冷やしてきますから」

 彼女は顔を背けてパタパタと走り去ってしまった。私は驚くままに、目の動きだけで彼女を追う。

 ――やっぱり、変だ。

 何を隠しているというのだ。赤井に何かあったのか、私に言えない何かが――!
 だとしたら、寝てはいられない。なんとか医師に説明しようと言葉を尽くしたが、彼は柔らかな笑みで「今は体を休めることが優先だからね」と。どのみち、この体では自分で立ち上がることすら許されず、私は胸の奥に心地悪さを感じながらこの不可解な状況を受け入れることしかできなかった。

 次の日も、その次の日も、次の日も――。
 赤井と父はおろか、知人が姿を見せることのない病室で、私は寝たきりのままだ。