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「ほら、あとちょっとだけよ」

 病院で目を覚ましてから二か月ほどが経ったろうか。
 知人や友人、家族までも顔を見せられることもなく、自分のことを尋ねても医師たちは誤魔化すようにそれを伏せた。時折見舞いにくるのは三池という女性警官だけで、元より短気な私はこの生活に限界を覚えていたところだ。
 
 しかも、ちょっとやそっとの限界じゃない。

 どうして誰も見舞いにこないのか理由すら分からなかったし、家に帰れない日々も辛かった。もしかしたら変な組織か宗教に捕まってしまったのかと被害妄想さえ膨らませながら、しかし日々私に関わる人たちが悪人には見えない。確かに隠し事はあるようだったが、それでも誰一人悪意を持って接することはなく、寧ろひどく優しい言葉だけを掛けられた。

 そして、思い通りにならない体である。
 怪我は一通り回復したものの、そこからのリハビリ期間は厳しい。医師は「早い方だ」と褒めてくれたものの、ようやく松葉杖でヒョコヒョコと移動することができるようになったのだ。動かすと痛いし、見た目も中々綺麗にはならない。すぐに良くなるはずだと思い込んでいた自分にとって、身近な人が励ましてくれない中淡々とリハビリを重ねることが辛かった。

「……もうやだ」

 ぽつりと零したのは、もう何十回と重ねた歩行練習に失敗して倒れてしまった時だ。
 零した言葉と共に、久しぶりに泣いた。
 いつぶりだろう。滅多に泣くほうではないと自負していたのに、ボロボロと泣いた。ワっと声を上げた私に、近くにいた看護師や療法士が駆け寄ってきた。必死に励まされたけれど、もう自力で立つ気力さえない。

「も、もうやだ〜っ!!」

 わんわん、子どもみたいに泣く私を見かねて、車いすのほうへヒョイと抱えられる。
 私ってそんなに小柄だったろうか。体重も軽くなったような気がする。噂を聞いたらしい医師に、髪を切りにいかないかと誘われた。気分転換にと誘ってくれたのだろう。病院の敷地以外で出かけるのは事故以来初めてで、私は静かに頷いた。


 そういえばだが、私は病院を出てから初めて鏡を見ることになった。
 体や顔を拭くことも、髪を洗うことも、全部看護師がやってくれていた。外にでることもなかったので、鏡を見ることも――そういえばテレビも病室についていなかった。考えれば、窓もいつもカーテンが閉まっていたし、姿が映るようなものを見た覚えはなかった。


「……嘘ぉ」


 だから、それが事故のあとに見る初めての自分の全体図だったのだ。
 ――ようやく、医師や看護師の態度が理解できた。
 口を緩く開けて、私は鏡に映る頬を押さえる。どう見ても、若いのだ。極端に幼いわけではないだろうが、十代前半か半ばごろだろうか。付き添いに来ていた療法士が心配そうに私を眺めていた。

 姿が映るようなものを偶然見かけなかったわけではない。
 恐らく、避けてくれていたのだ。私が何度も自分のことを、二十二歳だと訴えていたからだろう。そう考えれば納得がいく。もしかすると、事故の衝撃で記憶や思考が可笑しくなってしまったのではないかと、そう思われていたのかもしれない。

 いや――。
 どっちだ。どっちが、正しいのだ。
 
 私は自分の主観でしか物を測れない。もしかすると、医師たちが言っていることが正しくて、本当に私の頭がおかしいのかもしれない。髪を切りそろえてもらっている間、困惑しながら過去のことを思い出す。こんなに鮮明に覚えているのに――。

「……あの」
「うん、どうしたの?」
「その、暴れないので正直に教えてほしいんですけど……。小山内スズって言う人は、その父親は、存在しないんですか?」

 鏡越しに彼女を見つめながら問いかける。
 看護師は一度驚いたように目を見開いて、それから私の様子を眺めた。そして申し訳なさそうに、「先生に聞いてみる」と答えた。医師から説明があったのは、その日の夜だ。最初は慎重そうに私の様子を窺っていたが、私が「絶対暴れないんで!」と食い下がって告げれば、少し笑ってから私に向き合った。


「小山内スズという人は存在する――君の父親だという男もいるよ。けれど、その人は君の父親ではないし、スズという子は君ではないんだ」
「……ごめんなさい、すごく簡潔にいうと?」
「小山内スズは別にいる。君と同じくらいの、十五歳の女の子だ」
「十五歳……」

 
 ペタリと頬に触れた。彼曰く、私が彼女の知り合いで、その記憶が混在してしまったのではないかと言う。しかし、私の考えは違った。鏡で見た私は、私をそのまま少し幼くしたような顔をしていたのだ。彼がそれに気が付かないのは、十五の私の化粧の仕方がバチバチで金髪のスケ番女だったからだと思うのだ。


 私はそれから、真面目にリハビリを受けた。
 私が混乱しないと分かると精神的なカウンセリングも始まる。それも真剣に受けた。合間に覚えている電話番号に掛けたりもした。確かにこの世界には、小山内スズという――私の記憶の中の『過去の私』が存在した。

 ――なら、私は何だ。
 私がおかしいのか、周囲がおかしいのか。
 とにかく、過去ではなく今の私を知る人物に会いたかった。私だけがこの状態にあるのか、それとも他にもいるのだろうか。赤井も、そうではないのだろうか。そればかりが気がかりであったが、今の私にはそれを調べる方法もない。

 ―――
 ――
 ―
 半年が経ち、自由外出の許可が出ると覚えのある建物を巡ることにした。
 その頃にはだいぶ歩けるようにもなっていた。残暑が残る、日差しの強い日だ。

 赤井の住んでいたマンションは、その建物自体が建っていなかった。自宅には――行く勇気が出ない。タイムスリップものでもう一人の自分に出会ってはいけないのは鉄板だ。無駄な知識だけは映画を好むせいか身についている。

「……あった」

 考えた末に辿り着いたのは、工藤家だ。
 縋るような想いだった。他に赤井に辿り着けるものを、私は知らないのだ。まさかFBIに問い合わせることもできまい。工藤家とどういう関わりかは分からないが、何かを知っている可能性はある。

 その屋敷の造りは変わらない。
 外観は――前見たより少し草が茂っているだろうか。隣にある近未来チックな建物も変わっていなかった。工藤と書かれた表札を見て、小さく息を呑む。もしかすると両親が住んでいるかもしれないが、新一とは年齢の差も少ない。友達だと言えば良い。

「うん。良し、うん」

 門扉の前で頷き、意を決してインターフォンを押し込む。以前と同じような古めかしい音が響いて、暫く間があった。留守だろうか。けれど、カーテンは開いているようだ。不躾かと思いながら、もう一度インターフォンを押した。

 ――どのくらい経ったろうか。ぷつりと、マイクが繋がる音がした。
 聞こえたのは、落ち着いた男の声だ。新一のものではない。『はい』と応える声に、私は慌ててマイクのほうへ顔を近づけた。

「すみません、工藤新一くんはいらっしゃいますか」
『新一くんですか』

 男は一言呟くように繰り返して、何やら答えあぐねているようだった。

『すみません、今留守にしているようでして……。要件があれば承りますが』
「あ……またいる時に伺います」
『いえ、恐らく暫くは戻らないかと』

 それから暫く、ああ言ってこう言って、と問答が続いた。私はその返答が次第に怪しく思えてきて(なんだか、新一のことを隠そうとするようだったので)、まさか空き巣か何かじゃないだろうな、と疑い始める。最初のインターフォンの返答もやけに遅かったし、後ろめたいことがあるのではないか。僅かに声色を鋭くして問いかける。

「あの、新一くんのご両親ですか?」
『違いますが……』
「どちら様でしょうか、答えられないようでしたら警察呼びますよ」

 少し早口になった私の口調に、男は返答に困っていた。マイクが切れる。
 私は「えっ」と声を零した。いよいよ怪しい男なのではないかと疑い始めた時――見覚えのある玄関が開く。ギィ、と重厚な音がして、一人の男が顔を覗かせた。彼は不思議そうに私を眺めて、軽く会釈をする。柔和な顔つきをした、背の高い男だ。日本人ともハーフとも言いづらいような、不思議な雰囲気の男であった。