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「ほ、本当にすみませんでしたぁ!!」

 頭を目いっぱいに下げて謝ると、目の前で眼鏡の位置を直しながら男が苦笑を零した。覚えのある洋館の間取りだったが、以前訪れたときより矢張り手入れは行き届いていない印象だ。新婚だと言っていたし、家具を新しくしたところもあるのかもしれない。良くも悪くも古めかしい内観に、やけに馴染むように腰かけた男――沖矢昴というらしい。
 なんでも近くのアパートに住んでいたのだがとある事件で燃えてしまい、新しい家が見つかるまで好意で住まわせてもらっているのだという。
 ――と、怪しんでいる男に言われれば「まさかそんな都合の良いことが!」と思ってしまうのは普通ではないだろうか。普通で――ないか。こんなところで気の短い性格と思ったことをすぐに言葉に出してしまう性分が空回りするとは。

 説明された後も散々に詰め寄って、隣に住む阿笠という男に身分を保証されてしまった。第三者まで巻き添えにして、「ご納得いただけましたか」と零された時には自然と頭が下がっていたのだ。

「いえ……確かに人の家に居候しているのは確かですから。怪しむのも無理はありません」
「や、それにしたって言い方とか色々あったと思います……。それなのに私、泥棒とか空き巣とか成り代わりの強盗犯とか言っちゃって」
「そんなことは言ってなかったと思いますが、どう思われていたかはよく分かりました」

 くすくすと上品に笑いながら、彼は腰を上げて「飲み物でも」と。
 私は慌てて首を振る。迷惑をかけた上に気を遣われては私の立場はなかった。外では人目につくとは言え、こうして客間に通された時点で有難いと言うのに。私の記憶と変わらない、沈むようなアンティークのソファに体を甘えさせる。歩けるようにはなったものの、まだ立ったまま長時間過ごすのは辛い。

「まあ、そう言わず。ちょうど良い茶葉を貰ったのですが、僕は紅茶を嗜まなくてね。湿気ってしまっては勿体ないと思っていたところです」
「……あ、では、お言葉に甘えて」
「楽にしていてください。すぐ戻ってきますから」

 頷けば、彼は踵を返してスリッパを鳴らす。
 大学院生といっていたか――なら、本来の私よりも年上だ。物腰が穏やかで、紳士的な男だと感じた。外で見知らぬ女に泥棒ではないかと疑われたら取り合わないだろう。だというのに話を最後まで聞きながら丁寧に接してくれるのだから。彼の柔和な笑顔も相まって、教会で佇む神父のような雰囲気だ。

「良い人でよかった〜……」

 ホ、と安堵の息をついて、天井を見まわした。照明は以前とは異なり、シェードの上に埃が溜まっていた。男一人で暮らしていれば、それもそうかと思う。客間ではクリスマスに過ごした思い出が深く残っているので、見ていると懐かしい気持ちになる。赤井と過ごした日々よりも、彼と別れた時間のほうが長いなど信じられない。

 ツリーを飾った部屋の端を眺めていたら、ちゃばの良い香りがふわりと鼻を擽る。

 視線を戻せば見覚えのあるティーセットに、赤味の強い紅茶が注がれている。スムーズな手つきでそれをテーブルに奥置く。彼が腕を伸ばした時に、覚えのある匂いがした。紅茶のものではないが――何だったか。

 軽く会釈をしてティーカップに口をつけると、沖矢は足を組み膝を手に抱えた。そして私が一口飲み終えるのを待って、ふと尋ね始める。

「そういえば、新一くん……でしたか。何か用があったのでは?」
「あ〜……。そうですね、でも直接会って話したいことだったので」

 軽く頬を掻きながら答えると、沖矢は穏やかに相槌を打ちながら、小さく首を傾げた。

「しかし、彼は事件で海外を飛び回っているとか、いないとか」
「……そうなんですか?」
「ええ。そう噂されています」

 曖昧な答え方だった。彼も直接は知らないというような、遠まわしな口調だった。そういえば、高校生探偵だと言っていたか。新一の言葉を思い出す限り、高校のときは目立つ行動も多かったようなので色々事情があったのだろう。

 私はため息を零した。
 赤井は彼の家に世話になっていたと話していたから、もしかしたら現在の彼に辿り着けるのではないかと思ったのだが。まあ、会ったとして、どうするかと言われれば分からないが――。今の私にできることなど、それくらいしか思いつかない。
 
「残念そうですね」
「……あはは、ちょっと拍子抜けちゃって」
「今日は遠くから?」
「いえ、そんなに遠くは……」

 ほんのりと首を傾ける。
 どうして遠くから、と言ったのだろうか。新一に用があるという同年代の人間が来たら近所の人だと予想しそうなものだが。私の不思議そうな顔が目についたのか、沖矢は小さく微笑みながら顎に手をやった。

「新一くんが探偵業で留守にしがちなのは、同年代の子たちがよく知っていることらしいのでね」
「あ……そうなんですね。そうか、学校とかあるから……」
「それに、さっきから足を庇って歩いているでしょう。長い時間足を使ったのかと思って」
「すご! そんなこと分かるんですか?」

 指摘され、思わず足を擦った。リハビリを真面目に受けていた甲斐もあって、そこまで歩き方に不自然さはないほうだと思っていた。彼は苦笑を零して「いえいえ」とかぶりを振った。

「家主の影響か探偵の真似事が好きでして……野次馬精神ですよ。失礼しました」
「いや、めちゃめちゃすごいですよ! ふふ、FBIみたい!!」

 ケラケラと声を上げて笑ったのは、赤井も同じように人の生活習慣を推測するクセがあったのを思い出したからだ。この家にいるせいだろうか、やけに彼のことを思い出してしまうのは。機嫌よく笑っていたら、目の前の男がキョトンと「FBI?」と復唱する。その表情がまた面白く思えてしまって、おさまりかけていた声を上げた。

「あっはは、ごめんなさい! ふふ、ふふふ……。ちょっと、知り合いに似ていて……」
「ホォー、そうでしたか。まだお若そうですが……よく映画やドラマをご覧に?」
「そうなんですよ〜。アクションとか刑事モノとか大好きなんです。あと戦争モノとか……もちろん平和が一番ですが、フィクションとして!」
「僕もよく見ます。面白いですよね」

 それを聞いて、私は思わず食いついた。ですよね! 食い気味に同意を求めると、彼は苦笑しながらこくこくと頷く。すぐに自分が身を乗り出したことに気が付き、顔を熱くして腰を落とした。

 すると今度は沖矢が声を上げて笑う。――意外にも、笑うとどこかニヒルさを感じるような人だった。堪えるような表情が、口角の片側を上げたように見えるからだ。それからしばらく、好きな映画のことを話した。意外にも映画の好みが会うので、話は弾む。過去だ未来だと考えもせずに話をしたのは久しぶりで、ひたすらに楽しかったのは覚えている。

 子どもの声で、はたと会話を止めた。
 近所の子どもが、明日の約束をするような会話が開け放った窓から転がり込んできたのだ。もうそんな時間だったか。空になったティーカップを置いて、少し寂しさを感じながら「そろそろ行きます」と声を掛けた。

「そうですか……。連絡先を置いていきますか? いつになるかは分かりませんが」
「そうですね――いえ、時間はあるので。また様子を見に来ることにします」

 そういえば、今携帯電話を持っていないのだ。連絡先というと病院の電話くらいしか分からないので、私はその申し出を断った。玄関まで送ってくれた沖矢に礼と、今日の非礼を詫びる。靴を履こうとしたときに、ふと腿に痛みが走る。体のバランスが崩れて足をもつれさせたが、沖矢が背を支えてくれた。

「わ、ごめんなさい」
「大丈夫でしたか? 駅まで送って行きますよ」
「大丈夫です! ちょっと歩かないといけないし……」

 頭を下げて歩き出そうとした時に、ふとまたあの香りがした。懐かしい匂いだ。
 それを思い出すよりも前に、視界が滲んだ。じわじわと目の表面に涙の膜が張っていくのが、自分でもよく分かる。

「…………あ」

 ――そうか、赤井の煙草の匂いだ。
 気づいた瞬間に、彼が煙草を吸う仕草を思い出す。心の奥をギュウギュウと押しつぶされるような感覚に眉を顰めて、私は強く瞬きをした。駄目、駄目。こんなことで泣いたりしないもの。

「すみません、ありがとうございました」

 私は髪を耳に掛け、そう笑うと踵を返した。背後から鳴る重たい扉の音に、振り向かないように。そこから顔を覗かせるのは、あの人ではないのだから――。そう言い聞かせて、私は痛む足を引きずった。生活保護で手に入れた費用は大切に使いたいので、新一がいないのならば、しばらくは訪れるのをやめよう。自分に言い聞かせた。寂しいという想いを塗り替えるための言い訳だったようにも思う。