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 ぐぐ、と伸びをして部屋に転がる。
 決して華美とは言えない、都市からは離れたアパートであるものの、一人で暮らすぶんには十分だ。記憶喪失だろうと天涯孤独だろうと、いつまでも入院しているわけにもいかない。三池に色々と世話になり、戸籍を作って働き先を見つけてからは、彼女の伯父が持て余しているという部屋に転がり込んだ。
 三池はやや感情的になりやすく大雑把なところはあるものの、彼女は困っている人を放っておけないような、警官らしい女性だ。パっと見ただけだと幼そうな容姿をしているものの、年齢は以前の私とさして変わらないくらいだろう。今となっては、気を遣わずに喋ることのできる数少ない人間だった。

「わっ、また散らかして……」
「三池さん! おかえりなさい」
「もー……」

 ぐちゃっと部屋の隅に寄せていた布団を、目を吊り上げた彼女の表情を見ながら綺麗に畳み直す。「できました」という表情で見上げれば、ため息をつきながらカップ麺やらお菓子やらがどっさりと入ったダンボールをテーブルに置く。

「どうしたんですか、コレ」
「職場で飲み会があって……。そのときにスズちゃんのことをチラっと話したら、皆おいおい泣いちゃって、次の日にはデスクに置いてあったの」
「えぇ〜……三池さん、大げさに話してないですよね?」
「ないない。保存がきく物ばっかりだし有難くもらってきちゃった」

 ふふ、と機嫌良さそうに肩を竦める。申し訳ないような気持ちはあるが、三池は嬉しそうだし、少なくとも怪しいものではない。お金を無駄にしたくもないので、甘えて受け取ることにした。

「足はどう? 来週は通院だっけ」
「ぼちぼちです。今日は天気が良いしリハビリついでに散歩に行こうかな〜と」
「酷くなる前に帰ってきてね。伯父さんにも言っとくから!」

 はあいと間延びした返事をしてから、私はもそもそと外着に着替える。コチラでの生活にもそれなりに慣れた。基本的に勝手は変わらない。だいぶ自分の意思どおりに動くようにはなったが、長期間の入院で体力や筋力が著しく落ちていること。それから、今の私が恐らく十五、六歳であるということ――。それを頭に置いておけば、特に問題なく日々を過ごすことができる。

 外履きに代えて道路に踏み出すと、低い場所をトンボが過ぎていく。陽は低く、眩いほどのオレンジ色で見るものをすべて染めていく。

 もしかすると、元の世界の私は死んでしまったのだろうか。

 たまに漠然とそう思うことがある。夢や走馬灯にしては、あまりに長い時間を過ごしてしまったのだ。この世界が悪いとは言わない。確かに私を知る人もいないものの、私に接してくれる人は皆良い人ばかりだ。私が苦労なく見知らぬ土地で過ごせているのは、三池や担当してくれた医師、療法士や社会福祉士たちのおかげである。バイト先の人も、事情を分かって私を雇ってくれている。
 もともと人間と関わるのは嫌いなほうじゃない。きっとこのまま生きていけば、それなりに親しい人ができ、それなりに平穏に過ごしていけるのではないかと思う。

 そのたびに、ペンダントトップが煌めくような気がした。

 多分、気のせいだろう。分かっている。日差しが反射して、キラリと輝いて見せるだけだ。なのに、それを見ると赤井が私を呼んでいるのではないかと頭を過ぎる。

「……ベツヘレムの星、ね」

 私は細かく掘られた花びらを指先でツンと突いた。「星に見えないこともないかな〜」と一人苦笑いを零す。彼が呼ぶのなら、私もここだと応えてやらないと。見た目よりもずっと柔らかな心をした人だと知っていたから、臆病な男だと分かっていたから、手放せないのだ。

「……星っつったって、触れなきゃ意味ないのに」

 フン、と一人肩を竦めた。私を見つけるといったって、私が彼に触れられないならどうしようもない。軽くペンダントトップを弾いて歩き出すと、カラン、と足元に何かが転がった。すれ違った人が落としたのか、それを拾い上げて振り返ると、夕暮れを反射するレンズが私の視界を刺す。

「あ……」
「おや、奇遇ですね」
「コレ、落としたと思って」

 ライターを差し出すと、彼は軽く胸ポッケを擦ってから礼を述べた。驚いたのは、このあたりは都心から離れた住宅街で、住人以外、人が歩いているのをあまり見ないからだ。特に沖矢が歩いてきたほうは坂が急なので、用がなければ好んで歩くようなこともないだろう。
 私はそう考えて、ついつま先を彼のほうに向けてしまった。

「どこかお探しでしたか?」
「ええ。少し知り合いの家に用がありまして……もう帰るところですよ」
「駅だったらアッチですよ。送りましょうか」

 私は坂のほうを指さして首を傾ぐ。彼はキョトンとした表情で「そうでしたか」と頷いた。ここから駅までだったら、ちょうどいいリハビリにもなりそうだ。ずいぶんとゆったりした彼の歩調に心地よさを感じながら、私も隣を歩いた。

「このあたりにお住まいなんですか」
「はい、ちょっと知り合いの借家で」
「ホォー、ならお揃いですね」

 にこり、と微笑まれて、私は「えっ」と声を零した。お揃いって――お揃い?

「ふ、ふふ……あははは! た、確かに……ッ、家の規模はちょっと違いますけどぉ」
「家を借りてる身ですから、大きさは関係ありません」
「真面目に返さないでくださいよ〜。あはは、居候お揃いなんて初めてです」

 わき腹を押さえながらひとしきり笑うと、沖矢も少し頬を緩やかにした。少し天然なのだろうか。大真面目な表情で言うのだから性質が悪い。私はまだ笑いの余韻を引きずりながら、ぺたぺたと坂を登った。

「新一くんは、どうですか?」
「まだ戻りませんね」
「そうですか〜……。そうかあ」

 諦めたようにポツリと零すと、彼は不思議そうに私を見る。そして口元をなぞるようにしながら、ふと尋ねた。

「彼に、何を聞くつもりですか」
「……あー、えーっと」
「すみません、言いたくないなら大丈夫ですから。ほら、彼って高校生探偵でしょう。もしかしたら探偵の依頼をしにきたのではと思ったんですよ。僕もそういう話は不得手じゃないので、良ければ聞かせてもらえないかと」

 ――そういう考えもあるのかと、素直に思った。
 確かに工藤新一といえば、さしてニュースに興味のない私でも知るほどの名前だ。探偵の依頼――探偵って依頼を受けて動くのか、それすら分からないが――がきても可笑しくないのか。最初からそういえば良かった。
 だが、私のお願いしたいことは探偵依頼ではない。
 沖矢に言っても仕方がないだろうと思い、彼の好意を喜びながら首を軽く振った。

「うーん……人探しというか、なんというか」
「人探し……」
「はい。でも今思えば、その人に会ってどうするかって言われるとどうするのかな〜と……。会いたいのだけは確かなんですけどね」

 自分でも言葉にしていると、何を言っているのだか分からなくなってきた。曖昧な言葉をポツポツと続けていたら、沖矢の糸目が益々不思議そうに私を見つめている。ハっとして、ぶんぶんと首を振った。

「ごめんなさい、変なこと言って。お気持ちだけ有難く受け取りますね」
「いえいえ。こちらこそ余計なお節介を焼きました。――ちなみに一つ気になるのですが、何故新一くんなんですか」
「……何故というと?」
「だって、他にも有名な探偵はいるわけでしょう。彼は難事件を解決していますけど、人探しの印象がなく……」
「ああー、そういうこと! あはは、私の探してる人が、彼の知り合いかもしれないってだけですよ」

 あんまりに神妙な面持ちで言うものだから私はそれを笑い飛ばした。神経質なところは、赤井とは似ていない。懐かしい煙草の香りを嗅ぎながら、私は指先でチェーンをなぞっていた。