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 それからは、以前話していた映画の話をした。
 ゆったりとした歩調のまま、このシーンが良かっただの、あの役者が好きだの他愛ない話だ。確かに映画に詳しそうな印象はあったけれど、案外荒っぽいものを好むのだと思うとギャップが面白かった。私が観るようなアクションもそうだが、サスペンスミステリーも好きらしい。

「あんまりミステリーは観ないんですよね。面白いですか?」
「ハマれば面白いですよ。確かにアクションに比べれば冗長に思えるでしょうが」
「おすすめ教えてください。今度借りてみます」

 彼は嫌な顔一つせず、小難しそうなタイトルを幾つか述べた。今まで触れたことのないジャンルではあったが、確か赤井も好きだと言っていたから、この機会に観てみるのも悪くない。何度か口の中に含ませるように繰り返しながら、どんな映画かと沖矢に聞いたら口を開けて笑われた。

「ミステリーでそれを聞いては意味がないのでは?」
「あ、確かに。えー、でもあるじゃないですか! どんでん返しとか、そういう奴」
「どんでん返しは途中まで騙されるからどんでん返しと言うんです。……ふ、あはは。知りたいというなら止めはしませんけどね」
 
 クスクス、押さえた口元から笑い声が零れた。
 私は少し恥ずかしい気持ちで下唇を小さくしながら、項を掻いた。いつも端的な結果を求めてしまう気の短さは、やはり直すべき欠点だ。

 私が気まずそうにしているのに気が付いたのか、彼は顎を擦り、思い立ったようにチラリと片目を開けた。生粋の日本人ではないのだろうか、一瞬垣間見えた瞳の色は透けるような光をたたえているように見えた。夕焼けのせいで、殆どはオレンジにしか見えなかったものの。

「なら、君は?」
「……私?」
「君のオススメも聞かせてください。僕も今度観てみます」

 また感想でも――。沖矢がそう言った。
 驚いた。彼は、再び私に会うことがあるだろうと言っているのだ。今日だって偶然会ったはずなのに。それでも悪い気はしなくて、私は頭にある映画タイトルを思い浮かべた。私は映画が好きだった。恐らく一般的な同年代よりも、よく知るほうだ。それでも数あるタイトルの中から、たった一つ思い浮かべたのは――恐らく、その煙草の香りのせいだろうと思う。


「アメリカンスナイパー! 知ってますか、アレ」


 指を立てて告げた時、一瞬時が止まったような気がする。踏切の前に差し掛かったからだろうか、誰の言葉があるわけでもなく、カンカンと規則的な音だけが響いた。その間を不思議に思ったものの、踏切の音が遮ってしまうから電車が通るのを待っているのだと分かった。


 ――そう、思っていた。


 電車が自分の前を通り過ぎていく。ゴトンゴトンと音を立てて、窓から漏れる四角い光の羅列が道路を走る。電車を見上げて、仕事帰りのサラリーマンたちがぼうと外を眺めているのが目に映った。それを凝視しているのもいかがかと思い、ふと沖矢のほうに視線を遣ったのだ。

 今度は私が息を呑んだ。
 沖矢のレンズの奥にある鋭い眼光が、私をジィと見下ろしていることに気が付いてしまったからだ。何気なく、ぼんやりとしている視線ではなかった。確実に私のことを射抜くような、ゾ、と肌が粟立つような視線だった。

「……っ」

 しかし、それを勘付かれるのは良くないような気がした――なぜかは分からない。直感でそう思った。私が怯えていることを、彼に気づかれてはいけないと頭の奥が警鐘を鳴らす。

 電車が走るゴトゴトという音に、私の心臓の音が重なるようだ。点滅する赤色をひたすらに、必死に真っすぐと見上げていた。


 しばらく歩いて、駅が見えてくると沖矢はこのあたりで大丈夫だと軽く手を挙げて断った。私もそれに頷き、じゃあと踵を返そうとする。彼のほうから断ってくれて助かった。安堵に息を零した時――大きな手がはしと私の手首を引いた。

 冷たく、固い指先だ。不意な力にドクンと鼓動が高鳴った。

 私が目を大きくして振り返ると、沖矢はゆったりと微笑んだ。にこと口角を持ち上げているのに、まったくもって不安が拭えなかった。先ほどの、射抜くような視線が頭の奥にこびりついて離れないのだ。

「いえ、お名前を――伺っていなかったと思って」
「え、ああ……。スズですが」

 そういえば名乗っていなかったかと、私が名前を告げると、彼はそれを噛みしめるように口の中で繰り返した。しばらく歩き出そうとしないから、私はその沈黙に困ってしまって「行かないんですか」と尋ねた。

 眼鏡の奥の瞳は、日差しが反射しているせいで読み取れない。口元は笑ってもいないし、怒ってもいなかったように思う。ぞくりと腹の下のあたりに寒気が走った。

「あのぉ〜……」

 ゴクリと生唾を飲み込みながら、覗き込むようにして彼の顔を見ると、沖矢ははたと思い出したように微笑みを浮かべる。完璧なまでに貼り付けられた笑顔に見える。輪郭に対して小さな口元が柔く持ち上がるのが、スローモーションに感じた。

「いえ、ぼうっとしてしまいました。失礼」
「そ、そうですか……」

 ――いや、いくらなんでも人を信用しすぎだろうか。
 もう少し疑り深くいたほうが良いのかもしれない。初対面で迷惑を掛けた負い目もあって悪い人だと思いたくないが、彼のことを何も知らないわけだ。他人だもの、もしかしたら妙な考えの一つや二つあるのかもしれない。自身に言い聞かせ、そそくさと離れようとすると、またもや手首をはしりと掴まれる。冷たい指先だった。

 ぐいん、と体が傾いて、ドキドキと嫌な音で胸が鳴る。私は今度こそ少し怒りながら「ちょっと」と声を荒げた。体格の大きな男ではあるが、その気であれば喧嘩の一つや二つ買うしかない。キっと睨みつけると、彼は手首を強く離さないまま口を開いた。その力はその穏やかそうな見た目よりもずっと強く感じる。


「探している、とは――誰を?」


 声色は変わらないようなのに、別人のように声が地を這う。
 私はなんとかその手を振り払って、彼とは対照的に高く声を荒げた。

「あのですね! そんなこと貴方には関係ありませんし、答える義理もありませんから!」

 ――私が腹を立てたのは、彼の無礼な振る舞いというよりは、その質問が私の心の奥を掘り返すように思えたからだ。特に赤井のことだけは、他の誰にも触れられたくなかった。彼の威圧的な視線が恐ろしいと思いはすれど、それだけは許せなかったし、ひたすらに怒れたのだ。


「僕がその誰かを知っているかもしれないのに」


 男は指先を私のネックレスチェーンにトンと当てがい、挑発的にそう笑った。
 ――確かにそうではある。工藤新一の家を借りているのだから、どこかで出会っていたり、関係している可能性は多いにあっただろう。それでも私は一度沸々と煮え立った腹の奥を冷ますことができず、拳をギュウと握りしめて、歯を剝きだした。

「そんなの知らない! ……先日は失礼なことをしてすみませんでした。私、もう帰ります」

 掴まれた手首を擦りながら、私はふいと顔を逸らした。これで先日の罪悪感はチャラだ。むしろ貸しにしてやっても良いくらいだ。振り向いた後彼がどのような表情をしたかは分からないが、これ以降関わることもないのだから、構わない。
 彼の家以外に、工藤新一に関われる方法を探すとしよう。だいぶ沈んでしまった陽に、影が長く伸びていく。男の影も、暫くの間付きまとうように私の視界に入っていた。

 一言だけ言えるのは、私は沖矢昴という男のことが嫌いになっていた。
 あまり負の感情に執着しないほうだとは思っていたが、この感情は紛れもなく嫌悪だ。
 嫌よ嫌よも――ではなく、関わりたくない。だい、っきらいだ。