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 事務所の場所は工藤邸の近くだったので、道のりは割かし分かりやすかった。そのビルは商店街の只中にある。看板はなかったが、窓ガラスに大きく毛利探偵事務所と書かれていたので、間違いはないだろう。

「探偵事務所ってこんな感じなの?」

 私はそのビルを眺めながら一人唸る。想像していた探偵事務所より何割増しで派手な外装に見えたのだ。もっとひっそりとしているものだと想像してしまうのは、ドラマの見すぎだろうか。探偵――というよりは弁護士事務所のような。

「あのぉ……」

 ビルを見上げて呆然としていると、ふと女性の声が転がり込んだ。
 振り向くと箒とチリトリを手に、一人の女性が困った表情で私を眺めている。初めは首を傾げたのだが、女性の視線を追って足元を見下げた時、そこに溜まった枯葉の山が目に入った。

「わあ! すみません、邪魔でしたよね」
「良いんです。ただ、ゴミをそこに溜めちゃってたので、汚れるかもと思って」

 私が足元を退けると、ロングヘアをサラリと耳に掛けながら屈んでゴミを集める。エプロンをしていたのでふと視線を彼女の背後に遣ると、喫茶店の看板があって、なるほどこの店の店員かと思った。どうやら事務所は二階で、一階は飲食店のようだ。
 
「二階に御用でしたか?」

 彼女は掃除を終えると、未だに立ち尽くす私へにこやかに話しかけた。ついボウっと見つめてしまっていたが、失礼だっただろうか。私はすぐ怪しい者ではないとアピールするように何度も頷いた。

「いざ目の前にしたら緊張しちゃって、探偵事務所とか来た事なかったので……」
「そりゃあそうですよ! 何もないのが一番、平和が一番です」

 彼女はにこにこと微笑みながら、私の言葉にうんうんと頷いている。少しオーバーなリアクションに思えるのは彼女の元来の性格なのか、それとも私が未成年だから分かりやすく話そうとしてくれたのだろうか。

「でも大丈夫。とっても良い先生たちですから、安心して良いと思いますよ」
「そ、そうですか。良かった、怪しい場所だったらどうしようって思ったんです」
「まさか! まあ、気持ちはわかりますけどねぇ〜……。階段が急なのでお気をつけて」

 そう微笑む彼女に送り出されて、私は階段を上がった。二階にある扉にも、事務所の名前が書かれている。こんこんとノックしてみる――が、返事は返ってこなかった。それから何度か声を掛けてみたりすりガラスの向こうを覗こうとしてみたが応答はなく、私は首を傾ぐ。

 外から見た限り灯りはついていたのだが――留守だろうか。
 
 確かに電話しても繋がらなかったから、今日は別の用事が入っていたのかもしれない。約束もなく訪ねてきたのは私のほうなので、しょうがないと言い聞かせて踵を返した。急な階段を降りると、まだ掃除の途中だったらしい喫茶店の女性店員がパチクリと目を瞬かせた。

「あれ、もう良いんですか」
「反応がなかったので、お留守なのかと……。私も電話が繋がらないまま押しかけてしまったものですから」
「可笑しいですねぇ。ランチを食べにきたときはこの後……あ! そっか」

 彼女はポンと手を叩いてペチリと額を押さえた。あちゃあ、という色が浮かんだ顔に、私は不思議に思い女性のほうを覗き込んだ。女性は眉を下げて、申し訳なさそうに手をあわせた。

「そうだった、今日はレースの日だから……」
「レース?」
「もう少しで終わると思うので、良ければウチで待ってませんか?」

 コーヒーもサービスしますから、と彼女は喫茶店の入り口を指さした。もう少しで用事が終わるというのなら、待たせてもらうのは有難い。お代は払えば良いので、頷いて案内されるままに入口に向かった。

 扉を押し開けると、カランとベルがかろやかに鳴る。
 清潔感のある内装だが、メニューやインテリアからはレトロな雰囲気を感じた。店内にはコーヒーの香りが満ちていて、数名の常連らしき客が談笑する声が賑わっていた。決して騒がしいような雰囲気ではないのに、気取ったような感じもない。ほどよく安心できる良い店だと思った。

 チラチラと内装を眺めながら席につくと、女性がにこやかにお冷を持ってきてくれる。メニューを渡してくれたので、少しドキドキと高鳴る胸のままにそれを開いた。ちょうどカフェタイムだったので、ケーキセットが大きく掲載されていた。季節のケーキとブレンドコーヒーを注文する。今日のケーキはマスカットのケーキなのだと、女性は嬉しそうに教えてくれた。

 近くの席にいた客が同じものを注文していたが、マスカットも瑞々しく美味しそうだ。予想していなかったが、良い店に巡り合えて思わぬラッキーだ。鼻歌まじりにメニューを捲りながら待っていると、コーヒーの香りが一層強く香った。コーヒーメーカーの音がする。

 ディナーメニューも美味しそうだと想像しながら捲っていると、店員がケーキをテーブルに置く。マスカットの下はクリームチーズだろうか。一口頬張るとのったりとした甘味とマスカットの爽やかさが実に楽しく、思わず笑みがこぼれてしまった。

「お、美味しい! ケーキ屋さんみたい」
「ふふふ〜、ウチの自慢のケーキなんです。コーヒーも美味しいですよ」
「すごい。店員さんが作ってるんですか?」

 彼女は「まさか」と勢いよく首を振った。そして少し茶目っ気のある表情で「ウチの自慢のシェフなんです」と耳打ちする。どうやら誰かのことを冗談めかして伝えているのだろう。そういう表情だった。

「へえー……。お料理が得意な方なんですねぇ」
「料理だけじゃないんですよ! 頭も良いし、手先も器用ですし、何よりイケメンで……あ、これはココだけの話に。あくまで、同僚として言っているだけなので!」
「は、はあ……」

 苦笑いしながら頷くと、満足げに微笑んだ女性は「ごゆっくり」と嵐のように踵を返していってしまった。なんというか、明るい人だなあ。良い人そうなことに間違いはないけれど。彼女曰く、噂のレースとやらが終わるまであと一時間ほどらしいので、それまではこの空間を楽しむことにしよう。少し離れた場所に並んでいる女性雑誌を手に、席に戻る。

 もう少しお金ができたら服も新調したい。今の服は最低限着まわせるものを量販店で選んだものだったので、出かけるときに着る服とかもあったら良いな。
 そんなことを考えていたらカップの底が見えて、私は時計を見上げる。もう少しで一時間、ちょうど良い時間だ。伝票を持ってレジへ向かうと、どうやら女性店員は窓際の席、常連客との会話でこちらに気づいていないようだった。話の邪魔をするのもなあ、と思いながらベルを鳴らすと、カウンターの奥から「はい」と男の声が返ってきた。

 それもそうか、まさかカフェタイムを一人で回すこともなし。さきほどの店員がフロア担当だとすれば、キッチン担当の誰かがいるはずなのだ。


「すみません、お待たせしました」


 私は、彼を見た瞬間にパっと伝票を手から落としてしまった。男は驚いたように伝票を拾おうと腰を屈め、目を丸くして首を傾いでいる。ブロンドが、揺れた。アイスグレーの瞳が、鏡のように私を映し出している。
 私はその人を知っている。他人の空似では説明がつかないほど、唯一無二の顔つきをした男だった。

「……降谷さん」

 ぽつ、と小さく、ほとんど独り言のような声だったろう。
 しかし降谷はパチパチと目を瞬き、僅かに笑んだ。紛れもなく、彼だ。そのゆるやかな微笑みさえ、降谷らしいとも思える。私は喉を鳴らした。会いたいとは思っていたが――こんなにも早く赤井の影が傍に現れるとは、思ってもいなかったのである。胸が高鳴った。期待の音が、する。