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 呆然とする私に、男は整った眉を下げ困ったように「あの、お会計」と声を掛ける。私はハっとして、けれどどこか浮足立つ想いを隠せないままに財布を取りだした。小銭を取る指先が滑る。

 ――まさか、こんな所で降谷に会えるとは!

 嬉しかった。ようやくのこと、私が知っている人間を見つけることができたからだ。彼の様子を見ると、あちらはこの時系列のままの人間――つまり、【此方側】――のようだったが、それでも良かった。未来ではあれだけ赤井と親しそうにしていたのだ、連絡先くらい知っているだろう。

 ただ、初対面でいきなり彼に詰め寄るのも怪しい人物でしかない。私だって突然見知らぬ人に友人の連絡先を聞かれて良い気はしない。怪しんで警察にも相談するだろう。男女が逆の立場とは言え、降谷も良い気はしないだろう。

 勤めている場所は分かったのだ、大人しく引き下がろうと思った。少し時間は掛かるが、来れない距離ではない。私はトレイに会計を払って、目の前の男にニコリと笑いかけた。

「すみません、お願いします」
「はい、お預かりします。……あの」
「は、はい」
「あまり見られると、穴が開いてしまいます」

 はは、と恥ずかしそうにその頬が綻んだ。相変わらず、破壊力の大きい笑顔である。容姿は驚くべきことに、ちっとも変わらない。多少目元にハリがあるだろうかというくらいで、やはりこの頃から若く見られることが多かったのだろう。間違っていなければ、三十近くのはずだもの。

「いえ、あんまりに格好良かったので。見惚れちゃいました」
「お世辞がお上手ですね……ケーキ、美味しかったですか」
「すごく美味しかったです。ごちそうさまでした」

 ――と、そこまで話して、女性店員が言っていたことを思い出した。
 確かケーキを作ったのは、頭が良くて手先が器用で、すごくイケメンだとか言っていなかっただろうか。その情報を辿れば紛れもなく降谷を指すためにあるようなキーワードだ。私はそれを思い出しながら「店員さんが作ったんですか」と首を傾ぐ。

「そうですよ、楽しんでもらえて何よりです」
「うわ〜、あの店員さんの言う通り、すごい人なんですね」
「そんな、梓さんは大袈裟ですから」

 梓、というのがあの店員の名前らしい。恐らく日常茶飯事なのだろう、彼は照れ笑いして軽く肩を竦め、私にお釣りを手渡した。深く切られた爪先が掌を掠める。俯くとびっしりと生えそろった睫毛が美しく頬に影を落としていた。

「……また、いらしてください」

 と、小さく笑みを零した降谷に、私は勢いよく頷いた。
 色々と考えることはあったが、来て良かった。降谷に会えただけでも僥倖だ。店を出てから事務所に寄ろうかとも思ったのだが、降谷に会えたのだし、依頼することもないか――。場所は把握できたので、最終手段にしようと思い直した。

 私はそのまま踵を返し、一人帰路についたのだ。




「……いらっしゃいませ」

 きょとんと、驚いたように目を瞬かせながら降谷は告げる。
 私はその表情に少し気恥ずかしさを感じながらも「こんにちは」と挨拶をした。これでポアロを訪れるのも十を越すか。しかもバイトがない日は決まってポアロまで歩いていくことが、もはや日課になっていた。
 歩くのにもちょうど良い距離であったし、ついでに昼食もとれる、何より彼の顔を見ているとどこか心が安らぐのだ。三池からも、前より顔色が良くなったかと言われたが、確かに嫌なことを考える時間は減ったように思う。

「ごめんなさい、いっつも押しかけるみたいで」
「いえいえ、嬉しいですよ。そんなに気に入ってくださったんですか」
「ここのランチお値打ちなのに美味しいので……」

 まさか貴方に会いに来ているだなどと言えなかったので、苦笑いで誤魔化した。今日は梓は表におらず、降谷がランチを回しているようだ。平日の昼前ということもあり、客足はまばらだった。ランチ客も今から増えるのだろう。

 私はお気に入りのコロッケサンドとコーヒーを注文すると、いつもの雑誌コーナーから食べ歩きグルメの雑誌を選んでページを捲った。果物狩りの特集がされている。赤井はこういったイベントに行ったことがあるのだろうか、想像はつかないが――。背が高いからひょいひょいと美味しいところを取っていってしまうだろうなあと思うのだ。

「なんだか今日はご機嫌ですか?」

 コーヒーを運んできた降谷が笑いながらそう尋ねる。
 赤井の妄想をして笑っていた――と、まあ口を滑らせても言えまい。私は頷いて「はい、少し」と笑う。ポアロまで歩くことが必然的に日課になって、足の調子も良い。機嫌が良いことは確かだった。

 客足が少ないからだろうか、彼はコーヒーを置いた後、暫く私の前にあるカウンターに腕を置いてこちらをニコリと見つめてきた。私もそれにペコリと小さく会釈をする。

「ずっと気になっていたんですが……ああ、いえ、失礼でしたら無視してくださいね」
「何かありましたか?」
「いえ、見た風、お若い方かと思ったので。学生くらいの……けれど平日の昼間にこんなにしょっちゅう来るんですから、違うんでしょう。女性に年齢の話は、と思い中々聞けなくて」

 が、学校――。
 そうか、私学校に通うような年齢だったのか。義務教育は終えている年齢とみなされて、何も聞かれなかったので気づかなかった。しかし確かに学生頃の年齢であったし、髪も黒いままなのでそう思われても仕方ない。

「フリーターなんです。今度遊びに来てください、いつものお礼にサービスしますから」
「良いですね、どちらで働かれてるんですか?」
「あはは、フツーのラーメン屋です。でも美味しいですよ!」

 お洒落ではないですけどね〜、とコーヒーを飲みながら笑えば降谷もクスクスと笑った。

「安室さーん!」

 入口のベルが鳴り、転がり込んだ声に降谷が小さく頭を下げてそちらへとつま先を向かう。

 ――そう、何度か通って気が付いたことだが、彼は降谷零という男ではないらしい。
 ここに通う人間は皆、彼を【安室透】という名で呼ぶ。彼もまたそれに自然と応えているから間違えてはいないのだろう。

 だが、その容姿はどう見ても降谷零その人であったし、声色も話し方もソックリだ。これで「ちょっと似ているだけ」なんて、さすがに無理がある。元より他に並ぶ人間はいないほど特徴的な容姿をした彼なのだから、間違いようがない。

 しかし安室だと呼ばれている中、一人降谷とは呼べず、結局心のなかだけはいつも降谷だと思って接している。

 記憶にある彼よりも少し中性的な雰囲気を感じるのは、その物腰の穏やかさゆえだろうか。以前は赤井にプリプリと文句を垂れる場面も少なくなく、それの所為かもう少し気難しく男らしい印象があった。

「安室さんかあ」

 頬杖をついて、入店した幼い客の相手をしている姿を見守った。近所に住んでいる子なのだろう、今日は咳が出たから休んだのと、あどけないながらに利発そうな声で語っていた。
 
 妙な気分だ、彼が降谷ではないなんて。
 そうなると、やはり赤井も他の人間として存在するのかもしれない。降谷のように名前が違うと困るなあと思った。

 しかし、名前が知らないことも記憶がないことも別に良いのだ。
 そりゃあ寂しいことには寂しいが、今はただ彼に会いたい。彼に会ったら、まずは元気かと――ゴミ出しはちゃんとできているかと、洗濯は溜めていないかと、酒と煙草ばかり嗜んでいないかと――聞きたい。知りたい。

 先にすべてを知ってほしいといったのは、赤井自身だというのに。

 そういうところも、意地が悪いなあと思う。降谷に相談したら、彼のことを叱ってくれるだろうか。