24


 
 入口のベルが鳴る。皿を拭きながら振り返れば、一人の女がそこに照れくさそうに立っている。口元を微笑ませて「いらっしゃい」と告げると、彼女ははにかんで「こんにちは」と零した。

 最近店に訪れる彼女の定位置は、必ずカウンターの端。いつも女性誌を一つ手に取ってそこに座る。大人っぽく伸びた黒いストレートに、それとは不釣り合いのややふっくらとした輪郭。まだ余分な肉が削げ落ちていない未熟な体は、見る限り十代前半から半ばほどだろう。

 ポアロは落ち着いた商店街の喫茶店ではあったが、十代の女子が来ることが珍しいわけではない。若い子に向けたカフェメニューも幾つか考案してあったし、年の割に大人びた風なのは――とある前例で慣れている。(この街の人間とは、そういうものなのか。)

 コーヒーを挽きながらその姿を横目に眺めた。こちらの視線に気づく様子はなさそうなので、ある程度ゆっくり見つめることはできる。ぱらっと頁を捲る指先も、然して異常はなく、十代ならさもありなんといった様子だ。


 ――どうなってるんだ。


 はぁ、と小さくため息をついた。
 ランチセットのドリアにチーズをかけながら、彼女と初めて会った日を思い出す。僕を見上げて、明らかに動揺した様子で、こんな街中の少女が知るはずもない名前を零したのだ。小さな声ではあったが、いくらなんでも目の前でこんな大切なことを聞き逃すわけはない。

『降谷さん』

 彼女は、間違いなく僕を見てそう零した。
 今は他の客の様子を見て『安室』と呼んではいるが、確かに『降谷』と、そう呼んだ。驚いた。僕の名前を知る人間は、多くはない。僕が学生までに出会ってきた人間か、もしくは警察の関係者――それもごく一部の――である。
 
 しかし、見た限り十代の彼女と僕に面識があるような記憶もなかった。
 僕が学生の頃にはよほど幼い少女であっただろう年齢だし、僕にそれほど幼い少女と印象的な出会いをした経歴はない。警察に至っては論外だ。

 そこまで考えて、ふと思考がもう一つの考えに至る。
 降谷零の正体を知る人間に、あと一つだけ心当たりがあった。その人間のことを考えた瞬間に指先が僅かに震える。怒りに腹の奥が燃えるような想いだった。非常に不本意ではあるが、その男に、僕の正体を知られている。

 赤井秀一、という男である。

 だが、その男と彼女に関係があったとして――あったとして、何なのだ。
 まさか、彼女を情報収集に使うか――? いや、にわかには信じがたい。国こそ違えどFBI、成人にも満ちていない女の手を借りるようなことはしまい。考えれば考えるほど彼女のことが分からなかった。


 怪しい女かと問われれば、怪しい女と答えるだろう。

 僕の名前を知っていることもそうだが、行動があまりに妙だ。
 初めて出会った日も、毛利探偵事務所に用があったと聞いていたのに、二階に寄らずに帰宅した。まるで僕が店にいることを確かめるように。調べた自宅からポアロは決して近くないというのに、頻繁にランチタイムにポアロに寄る。そして何処に寄るわけでもなく、真っすぐに帰宅する。

 考えれば考えるほどに疑わしき点は増えていく。
 年齢に似つかわしくない雑誌を好むところも、決して無視をするわけではないが、店員と親しく積極的に喋らないところも、首にかかったペンダントが彼女の年齢にしてはやけに高価なブランドなところ。だというのに、いつも一番安いランチセットしか頼まないのだ。

 ぱちん。

 彼女の視線が此方を捉えた。
 コーヒーの香りに顔を上げたようだ。僕は偶然を装ってニコリと微笑む。
 ――すると、彼女はパっと顔色を明るくして、頬を僅かに赤らめ、力が抜けたように笑った。

「安室さん、今日はなんだかボーっとしてます?」
「え、ああ……」
「忙しそうですもんね。私の注文ゆっくりで良いので」

 喜びの感情が、その声色に隠せていなかった。
 喜色に満ちた暖かな声色が、弾むようにそう告げるのだ。僕があいまいに頷くと、彼女は再び誌面へと視線を落とした。一番よく分からないのは――彼女の僕への接し方が、あまりに好意的すぎるところだ。

 僕だって潜入捜査官の一端である。
 しかも非常に難易度の高い潜入捜査を任されており、長年ボロを出していないという自負がある。誰よりも感情を取り繕う方法や技は知っているはずだ。

 彼女が敵であったとして。
 それは、まあ、僕の監視が目的であれば好意的には接するだろう。油断をして心を開くほど、都合が良い立ち位置につけるからだ。だがそれにしては分からない点がある。

 一。いつも同じ席に着き、同じ行動をすること。
 もしも親交を深めるのなら、こんなにも話しかけてこないことはない。監視が目的だとすれば彼女の行動は――よく分からない。監視する側として、自分の行動を認知してくれとばかりに印象につくような習慣を作ることはしないだろう。もっと影のように、風景の一部になるように。そうやって行動するはずだ。

 二。――その喜色に、演技を感じられないこと。
 どうしてだろうか、彼女は常に嬉しそうに機嫌よくしているわけではないのだ。
 店員である梓に話しかけられた時は、不機嫌なわけではないが人当たりが良いという印象だった。それだけであれば疑いだけで済んだのに――。

「どうぞ、ランチセットです」
「わあ、今日はビーフシチューなんですね」
「お好きですか?」

 まただ。
 ふわりと、風を運ぶように彼女は微笑む。ついぞこの間出会ったばかりの僕に、まるで貴方しかいないのだと肩の力を抜くように笑う。

 まさか、僕が忘れているだけで彼女と出会ったことがあるというのか。
 
 何度も考え、時には自分の担当した事件を調べもした。しかし、彼女の特徴に該当する人間を見つけることはできない。彼女は一体誰なのか。分からない、分からないが――。


「はい、ビーフシチュー大好きなんです!」


 浮かんだ笑顔に嘘がないと――僕は信じたいのだろう。
 名前の調べはついていた。小山内スズ、年齢は不明。入院歴有り。骨折三か所と、記憶障害を併発している。殆ど偽物の薄っぺらい戸籍は、江戸川コナンを調べた時によく似ていた。その表情とは裏腹に、彼女には疑うべき要素ばかりが色濃く残っている。

 機嫌よくバケットを千切った指先を見つめながら、つくづく嫌な職業病だと思うのだ。
 ポアロの中で、僕が彼女に好意を寄せているだのという噂が流れて初めて、自分の未熟さを思い知る。まったく、これでは部下のことを手ひどく叱ってやれないではないか。