26


 今も毎日のように夢を見る。
 まるで、私に忘れないでくれと懇願する彼の祈りにも思えた。その瞳の色も声質も思い出せるというのに、触れられない夢のなかでは体温だけは思い出せなかった。
 寒い夜、彼の大きな体が少し猫背になる。いつもはしゃんとした背筋が無意識に丸まって、はぁと煙草とは違う白い息を零す姿が好きだった。私の視線に気づくと、なんだか困ったように笑う。なんで笑うのと尋ねたら、「いや、そう反応したら良いもんか」と言っていた。

「別に、見ないでとか格好いいだろとか」
「ホォー、なら見ないでくれるのか」
「いやあ。聞くとは言ってないし〜」

 声を上げて冗談めかせば、彼もまた少し肩を揺らす。
 そんな夢を、見た。ぼんやりと瞼を持ち上げると、映るのは最近ではもはや見慣れた天井だ。小さくため息をついて、布団を被りなおした。それから云々と唸って、がばりと上体を起こす。

「いや、そんなこと考えてもしょうがないし」

 今更悲観的に、ネガティブになったって――。
 それに、蘭から工藤新一と連絡をつないでもらえるよう口添えもしてもらったのだ。降谷のように、別人のようであったって、たとえ私のことを覚えていなくたって――それでも、彼の姿を一目見たい。無事であると、今も平穏に生きていると、安心したい。

 パーカーを羽織って賞味期限がすれすれの牛乳を空にすると、私はフラリと家を空けた。蘭からのメールによれば、今日の夕方ごろに電話をするよう、工藤新一に伝えておいてくれたらしい。特に意味もないが、ジっと待つのも落ち着かないので近所のスーパーやDVDショップを巡ろうと思った。

 今日は休日だからだろう。道行く子どもたちの楽しそうな声だとか、駆けまわる犬が枯葉を蹴り上げた音だとか。賑やかな色で満ちた街並みに、小さく息をついた。かつて、自分もその中の一員であったと思うのだ。

「ねえ、寒いよぉ」

 通りすがりのカップルが身を寄せあった。
 いつの間にやら秋も更け、確かに日が落ちるとやや肌寒いような季節になってきた。そんなやりとりを横目に、自らの掌をチラと見つめた。

 ズキンと足が痛んで、耐えきれず近くの公園にあったベンチに腰を下ろす。ため息をつきながら、痛んだ足を柔く擦った。

 確かに、こんな境遇ながら恵まれている。

 生活に困らず暮らしていけていることだって、怪しい人に何かを掴まされることなくいられることだって。だが、時折虚しいような気持ちになるのは――私の中の恐怖心が勝つからか、それとも握った手の体温を忘れているような自分に嫌気が差すからだろうか。

 銀杏の葉が足元に落ちた。まだ青く、若い葉だ。
 
 そして、もう一枚――。
 そらを舞う行く末をぼんやり見守っていると、やけに焦ったような手つきが肩を掴んだ。驚いて「ぎゃあ」なんて怪獣みたいな声があがる。その声に驚いたのだろうか、触れた指先も私を真似るように跳ねた。


「すみません。そこまで驚かれるとは――」


 柔和な声色。私は先ほどとは別の意味で体をギクリとさせた。振り返ると、亜麻色の髪が揺れた。眼鏡の奥の視線は、今日は冷たいものではないが――。
 私は飛び出そうな心臓を抑えながら、ひっそりと深呼吸をした。それから「ビックリするに決まってるでしょ」とツンケンしながら答える。

 彼――沖矢昴は苦く笑った。眼鏡の位置をくいと直してから、何故か私の座るベンチの傍らに腰を掛ける。

「以前、ぶしつけに詰め寄ったことは謝ります。すみません」
「……自覚あったんですね?」
「いえね。君がどうにも――……まるで僕の好みやらを把握したようなことを言うから、ストーカーだかと勘違いしてしまって」
「ス、ストーカー!?」

 愕然として、顔を顰めた。なんて失礼な男だろうか。
 そう思う反面、彼の表情が僅かに冗談っぽくほくそ笑んでいることに気が付く。分かりづらいが――もしかして、今のはこの男なりのジョークだったのか。そう思うと、なんだか不器用な部分が面白くて、ついフっと笑ってしまった。
 沖矢は、私が笑ったことは意外であったようだが、すぐに小さく笑った。

「いえ、その……私も。ちょっとだけ、理由も知らない人に怒ってしまったのは、すみません」

 小さくネックレスのチェーンをなぞって告げると、彼は私の指先に視線を落とした。

「大切な人から貰ったんですね」
「あ、はい……。その、彼とつながるものが、今はこれしかないから」
「踏み込んでしまって、申し訳なかった。駄目ですね、どうにも――警戒心が抜けなくて」

 言葉を探すように、沖矢はそう話した。
 もしかしたら、その口ぶりから案外ストーカーを危惧していたのは間違っていなかったのかもしれない。私も、初対面から彼にずいぶんなことを言って家に上がったワケであるし。今は男への被害も多いだとか、ついこの間三池に聞かされたばかりであった。

「じゃあ、こういうのは50:50ということで……」

 私は開いた手のひらを前に差し出して、軽く笑う。
 沖矢は少しだけ間をおいて、しかし小さく頷いた。以前の強引な態度が忘れられず、いまだに苦手ではないかと言われると苦手であったが、小さくなった背中に強くは言えなかった。彼もだいぶ体格が良い。その背中を自信なさげに丸めている姿を見て、赤井を思い出してしまったからだ。

「それにしても、どうしたんです。さっきすごい焦ってたみたい」
「ああ――いえ、怪我でもしたのかと」
「え?」

 首を傾ぐと、彼は「遠くから足を擦っているのが見えて」と気まずそうに語る。私はああ、と足を軽く撫ぜながら苦笑した。

「ちょっと、事故の後遺症で……ていうか、もしかして視力悪くないんじゃないですか」
「さあ、どうだかね」
「えー、絶対そうだ。実は伊達眼鏡なんでしょ。オシャレ?」

 確かに彼の柔らかな髪色に似合っているけれども。
 揶揄うように指摘すると、僅かに眉間に皺が寄った。その顔を覗き込むように姿勢を直すと、煙草の香りがする。相変わらず、赤井と同じ銘柄を吸っているのだと思った。

「足が痛むのでしょう。近くまで送ります」
「ああー……。リハビリも兼ねてるので、気にしないでも」

 一度は断ったが、彼が食い下がるのも面倒で受け入れることにした。そのころにはもう足は痛くなかったし、少し時間が気にかかる。蘭からは「多分三時は過ぎると思うけど」と聞いていたが、詳細な時間を伝え聞いていない。いつ電話がかかってくるか分からなかった。

 赤井のことを、他の誰かに聞かれたくない。

 独占欲ではないと思う。これは恐らく防衛本能だ。私のなかに唯一残る、僅かな鍵を他の誰にもとられたくないという、本能だった。

 ややハラハラしながら帰路につく。沖矢の影はやはり坂に伸びると、なんだか不気味な怪物のように思えてしまった。隣を歩く彼が、またいつあの冷酷な視線で私を見ているのだかと思うと、それもなんだか落ち着かないのだ。

 彼は気を遣ったように、以前のように映画やらの話を振ってくれたが、私の心はここにあらずだった。やはり一度苦手だと思ってしまったものを覆すのは、中々に難しい。困りあぐねていた時、携帯を入れたポケットが震える。断続的なバイブ音に、私はハっとした。

「あ……すみません。大事な電話なので、これで!」

 そそくさと立ち去ろうとしたとき、グイっと犬か何かを掴むようにパーカーの襟首をつかまれた。ぐんっと体が強制的にブレーキをかけられる。小さく咳き込んだ。

「な、なにっ」
「……いえ、虫が。すみません、お気になさらず」

 ――何を考えているのだか、やはり苦手だ。
 私は頭を掻いて、ぱたぱたと自宅へ走り出した。携帯を取り出せば目当ての人物からの着信画面が表示されている。私は後ろ手に鍵をしっかりと閉めると、よしと意気込んで通話ボタンを押した。

 聞き覚えがあるものより、いくぶんか青年らしいような声が、スピーカーから響く。