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 受話器を耳に宛がう。期待と不安が半分ずつ、胸の鼓動を早くした。向こう側から聞こえる声は、少し気まずそうに私のことを呼んだ。毛利蘭から話は聞いていると、だが人探しができるかどうかは分からないと彼は謝りながら告げる。

「あの、大丈夫です。もしよかったらお会いしたいんですが……」

 大切な話なので――私が告げると、新一は困ったように言葉を濁した。どうやら向こうにも事情があるらしい。「無理だったら良いので」と付け足すと、妙に安堵した吐息がスピーカー越しに聞こえた。
 以前話した時よりも、やはり若いかんじがするだろうか。敬語の使い方も、慣れてない風ではあった。恐らくだが、私が若い女子だと蘭から聞いたのではないだろうか。砕けた口調で構わないと笑えば、彼もまた少しだけ笑った。

『それで、人探しってのを高校生の探偵に頼むってことは……。名前がわからないとか、何か事件性があるとか、そういうことか?』
「あ……うん。そう、なんだけど。あのね、一つお願いがあって」

 新一が私の言葉を復唱する。それに頷いた。携帯を握る手が僅かに震えた。

「今から話すことはね、誰にも……その、言わないでほしいの。その、蘭にも」
『――事情があるのは分かったよ。探偵にも守秘義務はあるしな』
「きっと誰のことか、分からないかもしれない。でも、このことを伝えるのは君だけだから」

 緊張していた。
 元より、度胸が据わっていないほうではないと思う。
 物怖じしないほうだと父からも笑われていたし、環境の変化にも私なりに対応してきたつもりだ。これは相手が男であるからだとか、有名な高校生探偵であるからとか――そういうことは関係ない。初めてだった。あの男の名前を、こちらに来て声に出すことは。人に、伝えることは。

 勝手にジンクスじみたことを考えていたこともある。彼との思い出を、大切に思っていたこともある。今の私に唯一残る、踏みにじられたくない聖域だったのだろう。

 けれど、たぶん。
 本当は、その名前を出した時に「それは誰だ?」と尋ねられるのを恐れていた。そんな人間はこの世界にいないと突っぱねられるのが、怖かったのだ。しかし、もし彼がこの世界に存在するのならば――。

「今度は私が、星を見つけたいから……」

 思わず独り言が零れ落ちた。小さな声で聞き取れなかったのだろう、新一が怪訝そうに何か言ったかと尋ねる。私はブンブンと首を大きく振り、大丈夫と彼に答えた。

『できる限りは守る。約束するよ』
「ありがとう、新一くん」

 真っすぐな声に礼を述べた。
 私は息を吸って、彼に見つけてほしい男の情報を受け渡すことにする。私の知る彼の情報は少ない。いや、特徴や仕草は鮮明に覚えているのだが、人を捜すのに役に立つような――たとえば出身地だとか、交友関係はまったくと言っていいほど知らなかった。知っているのは、過去にはFBIで働いていたということ、そしてその背格好に、年齢。

「あ、あと左利き! 右手も使えないことはないらしいけど、日常動作は左手が多かったかな」
『なるほど……。日本とイギリスのハーフで、FBIの職務経歴あり、と。名前まで分かっているなら、実際に問い合わせたほうが早いんじゃないか?』
「それは、そうなんだけど……。もしかしたら、FBIにはいないかもしれなくて」

 私は曖昧に声を沈めていく。彼の過去の経歴を聞いていなかったことに、これほど後悔したことはない。もしあったとしても、この世界が私のかつていた世界と一致しているか定かではない。私と言う人間が二人存在することも、降谷零が安室透と名前を変えていることも、まだ説明できていないのだ。

「本当にごめんね。でも、大切な人なの。会いたいとは言わないから、せめてどこにいるかだけでも知りたいんだ」
『――蘭から聞いた。大切な人だって』
「そうなの! 新一くんが、知り合いかもしれないって思って、私……」

 新一は私の言葉に、はたと固まった。『知り合い?』、彼は訝し気に尋ねる。

「うん、知り合い……。あれ、蘭から聞いてない?」
『いや、聞いたな……すっかり忘れてた。待て待て、俺の知り合いかもしれなくて、FBIで左利き、日英のハーフで三十四歳?』

 彼は矢継ぎ早に私の挙げた特徴を並べ始める。私は一つずつに頷き、何やらブツブツと唱え始めた彼の次のセリフを待った。どうやら、何かを思考しているような感じだったので、邪魔しては悪いと思ったのだ。

『いや、でもまさか……』
「し、知ってるの?」
『いやっ! 知らない!!』

 妙に白々しい返事である。私はその声がひっくり返るような声に、心当たりがあるのではと思った。しかし、新一は何度尋ねても『知らない』の一点張りだった。押しても引いてもそれ以上の言葉は出てこなかったので、私は諦めてそこで通話を切ることにした。

「聞いてくれてありがとね。また何か分かったら教えてほしいな」
『……ああ、分かった』
「ごめん、じゃあ――」
『待って』

 鋭い声色が私の仕草を留めた。受話器から離そうとしていた携帯を持ち直す。彼はどこか恐る恐るといった態度で、最後にと一つの質問を切り出した。

『――名前、聞いても良いか。その人の……何か分かったら、絶対に連絡するからさ』

 私は狭いワンルームに、深呼吸を落とした。通話越しに、彼には聞こえただろうか、定かではないが――。久しぶりに口にした名前は、思ったよりもずっと重たくて、喉の奥に突っかかってしまいそうだ。それを乗り越えて、声が震えた。


「赤井――赤井、秀一」


 かたん、その言葉と同時に玄関から物音がしたような気がする。郵便受けに、何かが差し込まれたような音だった。私は慌てて新一との通話を一方的に切ると、玄関へと足を向ける。まさか、誰かに聞かれていたわけでもないのに、心はやけに急いていた。

 玄関には何も落ちてはいない。私はそうっとそのノブを回した。ドアの向こう側に誰かがいると思ったら恐ろしくも思えて、扉を思い切りバンっと外へ向かって押し開けた。ドクドクと、胸が騒がしく鳴っている。

「きゃあっ」

 聞こえたのは、馴染みのある声色であった。床にペタンと座り込んだ、歳のわりに幼い顔つきを見て、胸を撫でおろす。手に下げていた弁当は地面に落ちてしまっていた。私はそれを拾い上げて「急に開けてごめんなさい」と彼女に手を差し伸べる。

「ビックリしたあ……何かあったの?」
「ううん。ただ、不審者かと思って」
「ああ、お弁当で手が塞がっちゃって……。もしかしたら変な音をさせちゃったかも」

 ――そうか、私は先ほどの物音の理由も分かり、ホっと胸をなでおろした。自覚はなかったが、きっと気が立っていたのだろう。物音ひとつに過敏になりすぎだ。鼓動の音を宥めながら、三池を部屋に招き入れた。

「今日はもうバイトもないよね? 洗濯まわしちゃおう」
「はあい。あれ、三池さん今日良い匂いする……デートしてきた?」
「でっ、デートじゃなくて! 帰りのお弁当買いに行くの、付き合ってもらっただけ!」

 成程、道理で今日の弁当はいつもよりも高そうなものなわけだ。
 私の弁当が彼女の恋愛の切っ掛けになるのなら何よりだが――。三池は顔を赤くしてぶんぶんと首を振る。そのたびに、ひっつめた二つ結びが揺れて猫の尻尾のようだ。その様子に笑いながら、着ていたパーカーをぽいと洗濯機に投げ込む。

 結局赤井のことは分からず終いである。しかし、まだ少し希望は持てるかもしれない。また蘭に会ったら今日の礼を言うついでに、新一のことを尋ねてみよう。もしかすると、イギリスやアメリカでの事件で関わったことがあったりするのかもしれない。私は自身に言い聞かせ、明日への活力を奮い立たせるのだった。