08
「鬼塚教場! 点呼!」
グラウンド中に響き渡るような声に、はっと顔を上げた。
明日はようやくの休日となる――それが待ち遠しいのと同時に、現在睡魔の限界に襲われている。慣れない寮生活と厳しい訓練の積み重ねで、疲労はすでに体のあらゆる部分を蝕んでいた。まだ朝の点呼だというのに、既に布団に潜りこみたくてしょうがない。
いつもどおりの体操と集団走をぼんやりと終え、各自割り当てられた掃除へと向かう。今日の掃除は外周担当だ。見上げるだけだとあれほどにうつくしいと感じた桜も、箒で掃くには重苦しい。いっそ散らなければ良いのに、なんてくだらないことを考えながら欠伸を零した。
「小林!何サボってんだぁ!」
「は、はい! 失礼しましたァ!」
怒声に背筋を伸ばし箒の柄を握りしめた。最悪だ。先ほど走り終えて体はまだ少し汗ばんでいるというのに。そう後悔するのも束の間、腹を括るしかないと唇を引き結んで振り返る。ピシ、とここ暫く叩きこまれた足の角度を揃える。心の奥は憂鬱なままだ。しかしいつまでたっても次の言葉が降りかからないので、おそるおそると顔色を窺う。
「……は?」
そこに立っていたのは、妙に得意げな顔をした男だ。教官ではない。見覚えのある癖毛が揺れていた。私は露骨に眉間に皺を寄せ、大きなため息をついた。――コイツ、と心底肩を落としたものだ。
「生意気な反応すんな」
「うるさいなあ、もう。本当にやめてよ」
「スゲー顔。寝坊した?」
箒に凭れかかりながら、ぶすくれて「寝坊は≠オてない」と返す。確かにうとうとと瞼を重たくはしていたものの、寝坊ではなかったわけだし。彼はなまいきな目つきを細めてフゥンと相槌を打った。
あれからと言うもの、何かと松田と会話を交わす機会が増えた。
もとより松田と萩原の仲が良く、私が萩原と席を近くしていることが大きい。萩原と会話をしていれば、松田はもう後ろめたさを消化したのか遠慮なく会話に口を挟んでくるようになった。まあ、すなおな男だとは思っていなかったものの、イチイチ鼻につくことばかり言うので、最初こそ遠慮がちに話していたが気を遣うのも馬鹿らしくなってきた。
「目の下、デッケー隈」
「良いの。明日は休みだから一杯寝るし……」
「休みィ? オェっ、講義がねえだけで拘束されてちゃ世話ねーわ」
べ、と松田は小さく舌を出す。
まあ確かに、外出禁止、携帯もまだ返される時間は限られている。休みだといっても、ほとんどの生徒は寝るか自習か――。その程度しか余暇は許されていなかった。ここで自習を選択できるほど出来た人間は、ごく僅かだとは思うが。
「大体、松田くんだって何するの。ゼッタイ私と一緒じゃん」
「ハァ、一緒にすんな」
「まさか自習するの!?」
驚きのあまり箒を手から落としかけて、慌てて持ち直す。まだ出会ってから然したる時間は経っていないが、恐らく同教場の全員がこの男が自習などする性質でないことを知っている。松田陣平とは、そういう奴であった。
松田は案の定露骨に表情を歪めると、ため息をついて「んなわけねーだろ」とジトリとした睨みを効かせた。じゃあ、他に何があるというのだ。怪訝な表情のまま彼を見遣ると、松田はガシリと私の肩に手をまわした。
「そりゃ、決まってらあ。お宝倉庫に忍び込むのよ」
「お、おたから……?」
「見てねえの? ココの駐車場、スッゲー半端ない外車が山ほどとまってたぜ」
子どもじみた目を光らせて、松田は口角を持ち上げる。私はキョトンと目を丸くしたまま「車が好きなの?」と首を傾ぐ。車には明るくない。駐車場――があったような気もするが、車種など注目してもいなかった。
「好きつうか、まあ……。気になるだろ、外車の部品間近で見れる機会そうそうねえし」
「そういうもの……かな」
私は首を傾げながら苦く笑った。
忍び込むというから何かと危惧したが、駐車場くらいは大したことないだろう。在籍中は一切の運転を禁じられているので多少厳しいことを言われるかもしれないが、いくら一般生徒が入る場所ではなくても精々厳重注意程度だ。松田のことだからもっと突拍子のないことを言うのではとヒヤヒヤしてしまった。
松田は声を小さくして、チラと私を見上げる。どこか悪戯っぽい表情に、心の奥がギクリとした。悪い予感が背筋を走る。
「……お前、来るか?」
いや、行かない。
第一そこまで車に興味はない。しかも怒られるかもしれないリスクと睡眠の時間を削ってまで行くべきではない。脳内はキッパリと、声高に叫んでいる。しかしながら、私の口元はやや引きつった笑みを浮かべたまま動かなかった。
それは目の前にいる男の瞳がやたらガキっぽく輝いて、今までに見たことがないくらいに楽しそうな色を浮かべていたからだ。健康的な頬が、薄っすらと朱がかかっている。悪戯っぽい表情とは裏腹に、彼が期待を胸のうちに秘めているのだと分かった。
断れなかった。そもそも、この長い人生の中で断れた試しなど一度もないのに。
結局視線を泳がせて押し黙っている間に、ぐらりとバランスが崩れた。もう片側の肩に、誰かの手が乗ったのだ。うわ、と声を漏らしながら振り返れば、ご機嫌そうな口元がニマ〜っと笑っていた。
「おや〜、お二人さん。何の話?」
――その声色に、あ、コレは逃げられないと確信した。
明らかに私たちを巻き込むように回った腕。松田とは言えば、その声の持ち主にその表情を益々ニヤっとさせて「明日の話」と答える。
「明日ァ?」
「夜に駐車場に忍び込むんだよ。ちょ〜っと弄っても元に戻しゃ文句ないだろ」
交機なんかありゃ万々歳だな〜、語尾に音符でもつきそうな語感で松田が笑う。何の鼻しかちっとも分かりはしないが、私はひとまず聞き取れた部分を聞き返した。
「待って、夜に行くの?」
「ハァ? そりゃ、俺だって説教で寝れねーのはゴメンだぜ」
「で、でも寮は施錠してるし」
「窓から出ろよ。内鍵だろ」
「お、オーボーだ……」
時間外に寮の外に出るだけでじゅうぶん処罰対象だ。話が違うではないか。私はげんなりしながらも、ノーとは言えないままでいた。これはもはや性といっても過言ではないのだが、結局仲良くなって皮肉を言えても、肝心な言葉だけは吐けないものだ。萩原が私の表情をチラと覗き見る。松田とは異なり、感情を読むのに敏い男だ。もしかすると私のこの葛藤にも気づいているのではと一端の願いを込めて、その垂れた眼差しを見上げた。
「…………そういうお誘いとあらば! じゃあ、夜の十一時にな」
「コッ…………!」
私は思わずギョっと目を丸くして固まってしまった。萩原は以前医務室でも見たように、わざとらしくクっと目つきだけを細くして含むように笑うと、あっけらかんと手を叩いて松田の誘いに乗ったのだ。
――こ、こいつ〜! 私が嫌がってるの分かって言ってるじゃん!!
揶揄い屋だが、気の遣える優しい男だと信じていたというのに。前言撤回である。やはり松田と仲が良いだけの理由はあるのだ。私が金魚のように言葉もなく口を開閉しているのを、萩原は少し可笑しそうに口元を押さえソッポを向いた。組んだ肩が震えているぞ。
「デッケー声だすなよ、鶏か?」
「なっ…………」
「っと、ヤベ。鬼塚のヤローに睨まれてら」
するっと松田の腕が離れていく。待ってと引き留めようとした私の肩を、トドメのように萩原の手がぽんぽんと叩いて行った。
「気を付けておいでね。ちゃんと迎えに行くからさ」
ニコっ。いつも他の女生徒たちに向ける愛想の良い甘い眼差しが垂れさがるような笑みが目上で浮かぶ。ああ、もう無視だ。夜の十一時に、行かなければ良いだけの話だ。室内に引きこもって眠ってしまえば、彼らは寮内には入れないのだから――。ググっと桜の花びらを踏みつけながら、肩を落とす。そんなことができる自分のビジョンが、これっぽっちだって想像できなかったのである。