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 今日の昼食には牛筋の煮込みカレーが出る。
 それだけで訓練のやる気が出るというほどではないが、少しばかり浮かれているのは私だけではない。周囲を歩く生徒たちも、腹が減っただなんだと零しながら期待を膨らませているようだ。学校では、特別な日にカレーがメニューに追加された。明日が初めての拳銃訓練ということもあり、入校式以来初めてのカレーだ。入校式ではありつけなかったものだから、ひそかに楽しみにしていたのだ。

 いつもよりも軽い足取りで食堂に入ると、ちょうど水を汲んでいる松田と鉢あった。意外にも先に挨拶をしたのは彼のほうで、私も自然と「お疲れ様」と返す。どこで怪我をしたのだか、その頬には絆創膏が貼られていた。軽くコップの水を歩きながら口につけ、彼はこちらに歩み寄った。

「倉庫の整頓が加わった」
「……トイレ掃除で何したの」

 不満そうに零したその表情に、半分呆れながら尋ねれば、彼はツンケンとして「別に」と返した。その絆創膏を見れば答えは明白ではあったが、突っ込まないことにする。不思議と彼を前にしても先日の怒りは湧かなかった。よく考えれば断らない私が悪いのだし――見張りを担当させられたのは少しばかり腹が立ったが、水に流せないほどではない。

 一人言い聞かせながらカレーを取りに行くと、何故か松田ものこのこと横をついて回った。先ほど水を取りに来ていたから、もうこちらに用はないのではないか。チラと見遣って首を傾ぐと、彼はポケットに片手を突っ込み、水をチミチミと口にしながらどこか落ち着かなく隣に立っていた。

「……な、何?」

 思わず少し距離を取って問いかける。松田は弾かれたようにハっと私を振り返ると、癖毛を掻いてから見上げるような眼差しをこちらに向けた。


「……怒ってねーの」


 ――ふ、と頬が綻ぶ。そんな、子どもみたいな。
 笑い出すのを堪えて、浮かべたものは少し変な笑顔になった。笑いながら「自分でついてったわけだし」と付け足せば、松田は不愛想に「あそ」と頷くのみだ。彼なりに気にはしてくれていたらしい、その事実だけでわだかまりは溶けてしまった。単純なものである。

 私のぶんのカレーがトレイに乗せられる。食堂のおばさんたちにお礼を述べて、やはり自然と横をついてくる松田と近くの席に座ることになった。彼は大盛りにしたらしく、私のものよりも少しライスの量が多い。

「なんか、松田くん謝ってばっかり」
「っせ。自覚はあっから言うんじゃねー」

 可笑しくて先ほどの余韻を引きずったまま笑う。斜め前に座る松田が、大きく口を開けスプーンに乗せたカレーを頬張った。少し辛かったのだろうか、言葉にこそ零さないが、彼の目元がポっと染まった。気になって私も少量を口にしてみる。確かにこういった食堂にしては香辛料が効いていた。しかし松田は顔を赤くしながらも水を口にしない。私はコップに口をつけながら不思議なものだと眺めていた。

「やあ、ここ良い?」

 ア、とカレーを頬張りかけた私に声が掛かる。視線だけを持ち上げると、萩原とはまた少し異なる人の好い笑顔が浮かんでいた。思わずパっと口を噤み、「あ、えっと」と松田に視線を走らせる。彼は我関せずとい言った様子だ。戸惑いながら、しかし断る理由もないので「どうぞ」と席を譲った。

「ありがとな。頭はもう平気?」
「もうバッチリ」

 彼はにこやかに私の隣に腰を下ろす。こんな日だというのに、珍しくもそのメニューがカレーでないことが気になった。全員とまでは行かないが、八割ほどがカレーを頼んでいる所為で食堂にはスパイスの匂いが満ちている。彼の盆には焼き鮭定食だ。しかも、その米の量は女である私が気恥ずかしくなるような――。

 彼はその視線に気が付いたらしい。「あんまり食欲なくて」と苦く笑った。別段体格がひょろっちいとかではなかったが、確かに顔色は良くないように見える。こんな生活だもの、しんどくなるのはしょうがない。

「だから、ンで前に座るんだよ……」
「別に松田の前に座ったわけじゃなくて、小林さんの横に座ったんだよ」
「席の位置は同じじゃねーか!」

 噛みつくように松田が唸った。突然の大声に僅かに肩を揺らす。また喧嘩でも始めるのではと不安に諸伏を見上げると、彼は穏やかに口元に微笑を浮かべたままだった。あっけらかんと「別に良いだろ」なんて、決して素っ気なくはなく、穏やかに返す。

「おおー……」

 思わず感嘆の声が漏れる。萩原も怯むことはないが、寧ろ松田を茶化したり、もしくは諦めきっていることが多い。調子が狂うと大人しくなった松田の姿に、もしかすると猛獣使いの類かと感心した。

「今の、何に対する感動?」
「松田くんの威嚇、そうやって流せばいいんだって思って……」
「ホォー……できるもんならやってみろよ」
「ご、ごめんってぇ」

 頬を引きつらせた松田に平謝りすると、諸伏がフっと可笑しそうに笑った。笑うと益々好青年だ。低い笑い声を手の甲に零しながら、彼はその吊り上がった目じりを軽く拭った。

「あはは。まあ、慣れてるだけだから……」
「慣れてる……」
「ゼロもよく人に噛みつく行動するからね。あれからアイツと話した?」

 彼は綺麗に鮭の身を解しながら私に尋ねかけた。「ゼロ」、思わずそのままにオウム返しすると、諸伏はアっと口を押えた。短い前髪からよく窺える眉が八の字に下がる。

「ごめん、降谷のことだよ。あだ名なんだ」
「あだ名……変わったあだ名だね」
「大方、零って書いてレイ、だからだろ」
「なんだ、漢字まで知ってるなんて、松田はゼロのことが好きだなあ」

 ハハハと笑いながら冗談を言う諸伏に、松田が「うるせ」と鬱陶しそうに箸を振った。降谷零――か。響きを聞いたときに女の子みたいだと思った覚えはあるが、ずいぶん変わった名前だ。成程と頷いてから、先ほどの諸伏の問いかけを思い返す。

「話してないよ。すごい見られるけど」
「ああ、やっぱり。一回話してやってくれ、素直じゃないんだよ」

 諸伏はまだ半分も食べきってない茶碗を置いて肩を竦めた。
 一つ息をついて席を立つものだから、思わず「もう良いの」と声を掛けてしまう。困ったように一笑して、彼は踵を返していった。ピンとした姿勢の良さは、いつか見た降谷の背筋と似通ったものを感じる。

「……お腹すかないのかな」
「調子悪いんだろ、それよりお前時間なくなるぜ」
「嘘!」

 食堂にある時計を見上げれば、確かに昼休憩の終わりまで多くの時間は残されていなかった。私は軽く頭を抱え、慌てて残りのカレーを頬張る。松田は最後にゴクゴクと水で喉を潤し、しばらく向かいの席に座ったままだった。

「……」

 私は困惑した。
 カレーを必死に食べきっている最中なので、無論何か話しているわけではない。松田もまた頬杖をついて、瞼を薄っすらと落としていたが、別段何を話すこともなかった。ならば、何故そこにいるのだ。食後の一睡ができるほどの時間は残されていない。

 
 ――まさか、待ってる……とか。


 チラリ、と柔らかな肉を喉に通しながら斜め向かいの席を見上げる。その口元から小さく欠伸が零れた。いやいや、きっと食べた後で眠たく動く気がしないだけだ。きっとそう。何故かハラハラとした想いでカレーを食べ終え、席を立ちあがる。松田の猫のようなアーモンドの目つきがパチリと私を見た。

「ん」

 彼は短く返事のような声を零し、席を立つ。私は息を呑んだ。それは驚きと同時に、嬉しかったのだ。どことなく、彼が友人と見てくれているような気がして。私は少し後ろから、彼の背を追った。今日の癖毛は、いつもに増してひどい。ひっそりと頬を緩めた。


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