12
『一回話してやってくれ、素直じゃないんだよ』
昨日の昼食以来、降谷のブロンドが横切るたびに諸伏の言葉を思い返す。話すと言ってもなあ、とジャージから着替えながら考える。確かに諸伏に引きずられて謝りにきてはくれたものの、そもそも話す世界も違う気がする。謝られた時も緊張してしまって、あまり彼の顔など見てられなかったのだ。
ウウン、と唸りながら制服のボタンを留めた。ふと気が付けば周囲の生徒の姿もだいぶ減っていて、慌てて訓練棟へと走る。いつものことではあるが、朝礼から訓練で服装の着替えがあると逐一寮に戻らねばならないから一苦労だ。特に今日は拳銃訓練があったので、集合場所がいつもより離れている。さすがに遅刻は避けねばならない。以前がトイレ掃除、今度やらかしたら大浴場の掃除でも宛がわれて可笑しくない。
「わっ」
何とか息を切らして時刻前に駆け込むと、そこに立つ誰かの背にドンと鼻を強くぶつけた。ずいぶんと大きくかたい背だ。鼻を押さえて「すみません」と反射的に謝れば、壁のような体がチラとこちらを振り向いた。男はあまり目つきが良いとは言えない表情でこちらを見とめると、「ン?」と不思議そうに小首を傾げた。
「あ、伊達はんちょ……」
私がそう零したのは、殆ど無意識だ。
ぽろ、と心の声が零れたとも言う。まだ生徒の名前を多く覚えているほうではないが、ここ数日で彼の名前はさすがに頭に染みついていた。というのも、目の前にいるこの大男――伊達こそ、私たちの教場の班長。クラス委員長のようなものだった。その役職もあって、普段の点呼や号令などは彼が掛ける。話したことはないが、その名と顔は降谷の次に際立つものだった。
「ああ、ぶつかったのか。軽すぎるから風かと思ったぜ」
ニカ、と白い歯が覗く。私は目を丸くし、ワンテンポ遅れてぶわっと顔を赤くした。
はたして本当に気が付かなかったのか、私へのフォローであったかは分からない。分からないが、そんな台詞を、この私が、間近で聞く日がくるだろうとは思わなかったのだ。一気に熱くなった顔を冷ますように軽く扇ぎ「あ、いや、その」なんてドギマギしながら俯いた。
「よ。小林ちゃん!」
――さ、最悪。
あまりに情けない顔色をしていると自負はしていた。肩にトンと触れた手のひらの大きさで、その人物が誰かは想像できたのだ。よりによって、今一番見られたくない男だと。
私は赤くなってしまった頬を流れる髪で隠し、伊達に「本当にごめん」と押し付けるように謝った。そそくさと人混みを縫うようにして端まで辿り着くと、それを追ってきたらしい萩原の顔がひょこと私を覗き込む。
「あらら、体調でも悪い?」
「や、そういうわけじゃ……」
「顔、真っ赤だけど」
彼は訝し気に目を細めた。私はハっとして首を振る。「走ってきたからだよ」と言い訳すると、萩原は軽く頷いた。
「確かに時間ギリだったもんなぁ〜、遅刻には気をつけなよ」
「分かってるよ……」
「そんな怖い顔すんなって。カワイイ顔が台無し」
ケラケラと笑う萩原をジトっと呆れた眼差しで見つめる。確かに遅刻には気を付けるべきだ。べきだが――そもそも誰の所為でここまで罰則を恐れていると。まあ、私にも非があると飲み込んだが。それはそれとして、開き直られると腹が立つものである。
「なんだよ。伊達班長の文句には照れてたのにさあ」
すると萩原が目をスっと細めながら笑みにあくどさを滲ませるではないか。私はギョっとして、ようやく収まりかけていた顔色を益々赤くした。気づいていたのか、相変わらず意地の悪い!
――言っておくが、決して一目ぼれだとかいう類ではない。
ただ、ああいった台詞をマトモに言われ慣れていなかったし、不意打ちに真正面から食らって感情が昂ってしまったのだ。女なら誰しも同じ反応をするものと信じたい。口の中でごにょりと、その複雑な感情を誤魔化すように「それは」とぼやいていると、萩原は「フーン」と自身の襟足を軽く撫でつけた。
「……なんか怒ってる?」
珍しくもやや乱雑な指先に、思わず尋ねる。
心当たりはない。が、いつもであれば「ウワー! 伊達班長のこと好きなの!? みんなに言いふらしてやろー!」と嬉々として飛び出していきそうなものだ。(これはさすがに、誇張しすぎか――。)思いの外静かな、しかし含みをもった返答が不安を煽った。
「い〜や。俺よりモテ男っていうのが何か癪なんだよなぁ……分かるんだけど」
「何言ってんの、本当に……」
「学年一モテ男の称号を連覇してきた俺としちゃあ、死活問題だっての」
「い、意味わかんないしくだらなすぎる……」
萩原は人の警戒心を解くのが上手い。
基本的に聞き上手であるのもそうだが、話し上手でもある。人が好きなものには純粋な興味を持って飛びつくし、話しぶりは大人びて見えるのにややヤンチャな返し方が会話のリズムを良くするのだ。そうであるから、自然と此方も萩原へプライベートなことをツラツラと話してしまうし、どこか憎めない性格を好意的に捉えるのも理解できる。
その性格や性質もあるのだろうが、頭が良いのだろうと思う。
相手の欲しい言葉や興味のある物事を、仕草や声色から上手く読み取っている。言葉の選び方も上手い。それは席が近いからこそ他の生徒との会話を耳にしてつくづく思っていたことだ。
そう、私は彼のことを頭が良い男だと認めているのだ。
だが、敢えて言いたい。馬鹿だ。この男は、馬鹿だ。IQ2だ。私は額を押さえて肩の力を抜いた。先ほどまでこれっぽっちでも自分の言動を顧みたことが馬鹿みたいじゃないか。馬鹿の「バ」の字が小さく零れかけたが、慌てて口を噤んだ私を褒めてほしい。
「んだよぉ」
「なんでもない。ほら、もう教官くるでしょ」
私の言いたいことを察したのか、拗ねたように萩原の口が尖った。普段揶揄われてばかりなので、彼の調子が可笑しいのは僅かばかりに見物であった。そんな顔もするのだなあと横目に見ながら整列しょうとすると、その手が私の手首を軽く引き留めた。
「どうしたの?」
何か用かと、顔を上げる。萩原はジィと私の眼差しを正面から見据えてから、一呼吸置いた。そしてゆっくりと濃い睫毛に縁どられた目を伏せ、もう一度持ち上げ、下瞼を持ち上げるように目を細めた。
「またあとでね」
横幅の広い唇がうつくしく弧を描き、どこか毒があるような笑みを浮かべた。帽子から零れた艶髪がその輪郭に影を落とす。――一瞬息を呑み、奥歯を噛みしめた。いつか医務室で、わざと浮かべた表情と同じだ。
わざとだとはすぐに分かったのだ。
だが、目が離せなかったのは――彼の人間らしい色気というか、その顔があまりに人を惹きつけるような気がして。喉を鳴らして、私の顔が先ほどの伊達の言葉など比ではないくらいに真っ赤に染まっていると気づいたのは、彼の髪と同じ色の瞳が伏せられ、ようやく体が固まったのを解放された時だ。
何も言えなかった。恐らく金魚か鯉が餌を求めるように、はくはくと口を開閉していたことだろう。私の表情を見ると、彼はニンマリとご機嫌そうに口角を持ち上げて拳を軽く握る。
「よぉし、研二クンスマイル健在っと」
「じ、……っけんだいにしないで……本当に……」
「アッハハハハ! 小林ちゃんってマジで俺の顔好きだったりする?」
ケラケラと揶揄う声色は、いつもの萩原だ。一瞬時を止めた心臓がバクバクと五月蠅く鳴っている。実験用のマウスでも弄るように、萩原はニマニマと己の頬を突いた。私は目を伏せ顔を逸らし、赤くなった顔を扇ぎながら整列へ向かった。確かに多少なりと美形だと思っていることは、萩原には生涯口にしないと決心を固くした。