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踏み出して、どうにかなるわけではなかった。そんなことは分かっている。なんとか命綱を握りしめてはみたものの、成人男性が落ちるときの負荷に耐えきれるわけもない。分かっていたのだ。――だけれど、一瞬視界に入ったこの男の、「助けてくれ」と言わんがばかりの瞳を無視できなかった。
一度腕がグンっと引っ張られる感覚。「うわあ!」、男の悲鳴が聞こえた。私はなんとか屋根伝いに踏ん張ってみたが、手のひらは摩擦で火傷のように痛み、そのまま体ごと穴へ引っ張られてしまった。
「ヒッ……」
――命綱がついている。この縄さえ外さなければ、落ちることはないはずだ。そう思い必死に握りしめた。綱の先にいる男が、どこかに体を打ち付けないよう願う。バキバキと耳障りな音が響いて、そのあとに訪れるはずの衝撃を必死に堪えようと奥歯を噛んだ。
一瞬の暗闇ののち、天井を突き抜けて灯りが見える。
落ちるのはものの数秒もなかったはずだ。しかし、私がしがみつくのを目に留めた男がいた――彼は私の姿を捉えて息を呑んだように驚き、大きな体躯を投げうつように腕を伸ばした。その仕草の一つ、一つがスローモーションのように、鮮明に窺えたのは確かだ。
「……ッ小林!」
その腕が、命綱の先にいた作業員の男を支えた。ホ、と息をついたのも束の間で、バンジージャンプのように撓んだ命綱は彼の太い首元にくるりと巻き付いた。私は顔からサアっと血の気が引くのを感じる。錘をつけた縄が、一気に重力がかかって下方向へ引っ張られる。その衝撃に、投げ出されそうになるのをしがみついて堪えた。
そして漸くの事揺れが収まり、周囲の喧騒が耳をついた。
ざわめく声が、ずいぶんと下のほうから聞こえる。恐る恐ると足元を見下げると、生徒たちは皆顔を青ざめさせてこちらを見上げていた。
「おい、さすがにヤバいって」
「首、首しまってる!」
「落下した作業員気絶してんじゃね?」
揺れている。私の足元の少し下に落ちた作業員は、確かに気を失っていた。しかしそれよりも――震える声が零れる。
「お、鬼塚教官……」
落ちる寸でで、見たのだ。彼が自らの体など振り返りもせずに、身を乗り出す姿を。私のことを、必死な形相で呼ぶその瞬間を。命綱に首を絡められて、鬼塚は私より一層顔を青くしながら苦しそうに咳き込んだ。
彼の図体は重たい。
さすが警察官と言うべきか、その体の重みと、更に下方にいる作業員の体重がすべて一本の首にかけられているのだ。最初こそ縄を掴んで必死にもがいていたが、少しずつその指の力が失われていくのが私からも見て取れた。
「ど、どうしよ……」
一本ずつ指が痺れたように外れていく。
彼の腕がダラリと下に垂れるのを見て、涙が溢れそうになった。私が、余計なことをしたのだろうか。私が、あの時手を伸ばさなければ、こんなふうに屋根を突き破ることはなかった――? そんな後悔が頭の中を取り巻いて、ハラハラと顎を雫が伝っていく。
青く、白くなる唇を見ていられなくて瞼をギュウと閉じる。
ひたすらに胸の内で謝ること――私にはそれしかできなかった。どうか死なないで、無事でいてくれと、祈ることしか――「小林!!」
喧噪の中から、飛びぬけた声が私を呼んだ。
震える瞼を持ち上げる。松田だ、あの意志の強い目つきが私を見上げている。
「諸伏!」
その掛け声に従うように、諸伏が伊達の肩に足を掛けた。彼は反動をつけて伊達の肩を踏み台に、作業員の体を支える。先ほどよりも負荷が減ったのだろう、鬼塚の顔色がほんの僅かに明るんだ。
「……あ」
一目で分かった。
諸伏も――伊達も、松田も、降谷も、萩原も。生徒の中で彼らだけが、今鬼塚を助けようとしている。命を救うことを、諦めていない。
「小林」
松田が、もう一度。今度は淡々と私を呼ぶ。まるで、お前もこちらに来いと呼びかけているようだった。視線を泳がせる。そうは言ったって――どうやって。鬼塚の頭上で必死に縄にしがみつく私に、どうすれば彼を助けることが――。
「……」
静かに息を呑む。
私は恐る恐る、縄をしっかりと掴みながら体を下へと伸ばした。腕は無理でも、脚なら伸びる。少しずり下がろうとするだけで、手が焼けるように痛かった。チラと見えた手のひらの傷に、思わず目を逸らす。肩も落ちる衝撃で脱臼しかけたのか、腕を上げると顔が歪む。
なんとか体の位置を下に下げて、足先をグっとその首元へと。彼の離れそうなもう片手が作る僅かな隙間に、爪先をねじ込ませた。気道は圧迫しないように、なるべく中央は避けて――。
「や、やった!」
私の足先が半分ほどねじ込んだあたりで、鬼塚の呼吸が少し落ち着いた。まだ呼吸はか細いものの、先ほどまで死人かと思うほどに失われていた血の気がほんのりと戻っているように見える。
ホ、と安堵の息をつこうとして、右肩の痛みに縄を手離しそうになった。慌ててギュっと今一度握りしめる。――なんとか気道確保できたのは良いが、これはあとどのくらい続く体勢なのだろうか。手のひらも肩も、それまで持つと良いのだが――否、持たせなくてどうする。
――そうだよ。無駄にタフなんだから……!
自身に言い聞かせ、力を入れなおす。足を下の方へ伸ばしたせいで、私自身の体重を支えるのはこの両腕だけだ。もう少しダイエットをするべきだと腕以外の体重を悔いつつ、痺れを感じる体を叱咤した。
私がこの腕を離せば、落下するか、鬼塚の縄より下の位置に掴まるしかなくなる。どちらに転んでも、駄目だ。この体勢のまま救助を待たなければ。しかし、救助なんていつくるのか――。
何度も疑い掛ける己に首を振り、それからどのくらいの時間が経ったろうか。
私にとっては、一生分の時間を使ったような気がする。
生徒のざわめきももう遠く、摩擦に耐えかねた手のひらの血が滲み、それが余計に手を滑らせた。駄目、駄目――! 必死に握りなおして、縋るように松田を見た。きっと彼らが救助の方法を見つけるはずだと、そう思っていたからだ。
「……?」
――私は思わず松田が手にするものに目を凝らした。
その手にあるものを、彼は降谷に手渡し――。動揺のあまり「え!」と大声が零れた。松田と降谷が同時に私を振り返る。アイスグレーの両眼が、鋭く私を捉え、静かに息を吐きながらソレ≠構えた。
「え、まって、嘘!?」
私が先ほどまで、恐ろしいと感じていたそのものだ。
拳銃――それの銃口は、確かにこちらを向いている。息を呑んだ拍子に力んで、鋭い痛みが肩に走る。ビクっと体が揺れて、縄も揺れた。
「お、おい! 動くな、お前……」
「そんなこと言ったって……!」
「お前じゃねー、その上の縄をぶち抜くだけだっての」
「で、でも……!!」
だって――それが私の頭に当たらないという保障には一切ならない。
自動追尾弾ではないのだ。ましてや、彼はまだ半人前の警察官である。拳銃だって、恐らく今日握ったのが初めてであろう。そんな男の銃がこちらに流れないと、どうやって信じろというのだ。
身じろぎ一つするなというのは――無理な話ではないか!
駄目だと思えば思うほど、私の体が強張る。自然と握る力も加わるのだろう、縄が揺れた。
「……小林さん」
ぴく、と指先が震えた。
入校式で聞いた、その声。この場にいる誰よりも重いものを背負っていたのに、誰よりも冷静な声色をしていた。静かだ、だが、熱く、力強い。
まただ。そう思った。
彼の指揮下であることが当然だと、その言葉を信用できると――何故か、体が、頭が訴える。私の体は気が付けば鼓動をゆったりとさせ、呼吸を落ち着かせていた。
「――僕を信じろ」
降谷の言葉と同時に、引き金が引かれる。銃声に隠れた彼の呼吸の一つまで、私の鼓膜を揺さぶる気がした。