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 私は診断書を、以前よりも少しばかりスムーズに提出し終えると、男子寮のほうへつま先を向けた。目指すは諸伏の部屋だ。男子寮は女子禁制のため、私は入口にいる寮監へ話しかけようとしていた。それほど親しいわけでもないが、松田のブレーキが萩原だとすれば、降谷のブレーキはいつも諸伏だった。きっと頭がよく回り、穏やかな性格をしているに違いない。ぱっと話をした感じも、ずいぶんと人当たりが良かったものだ。

 そういえば、自ら男子寮に足を踏み入れようとするなど初めてだ。教棟自体は共同なので、学習室は男女共用だったから、何か話があればそこで済ませることが多かった。恐らくほかの女生徒もそんなものだろう。
 何やら後ろめたいような気持ちになって、居心地が悪い。通り過ぎる男が、ちらほらとこちらに視線を遣るのが分かった。しかし寮監室には誰もおらず、空っぽの部屋の中テレビの音だけがにぎやかに鳴り響いている。誰か知った顔があれば呼んでもらおうと、寮の扉を出た。

「うおっ」
「わ!?」

 ドアを開けたすぐ目の前にいた男に、思い切り押し扉をぶつけてしまった。ぎょっとして声のほうを見上げれば、男もまた驚いたように私を見下ろした。その流れるような長髪に、思わず体が固まる。あれほどシミュレーションを重ねたセリフが、すべて喉元で詰まってしまった。

「……どうしたの、男子寮なんて」

 にこり。私の様子を見かねたのか、萩原がふと首を傾ぐ。私は視線を左右に泳がせてから、ほとんど断片的に「その、コンビニ」と単語のみを呟いた。頭の中には言わなければいけない言葉がたくさん浮かんでいる。いや、しかしこの考えていることは後にすべきか。何だったらコンビニのことだって、萩原に相談をすれば良いのでは。次から次へと自分の考えが頭の中身をすり替えて、結局黙りこくってしまった。彼が優し気にその瞳を細め「コンビニがどうかした?」と尋ねる。普段とは異なるその甘い優しさが、砂糖の塊みたいに気道を塞ぐ。

「あ……」
「あれ、小林さん」

 ふと年のわりには大人びた声が転がった。
 ぱっと顔を上げると、諸伏と松田が萩原の背後から顔を覗かせている。「珍しいね」、と諸伏がお人よしに笑った。私は瞬き、周囲を見回してから頷く。

「諸伏くんも。今日は降谷くん一緒じゃないんだね」
「あはは。いつも一緒なわけじゃないよ……それに、今日は二人に付き合ってもらうところがあってさ」
「そうだったんだ……」

 私は小さく笑いながら、萩原から視線を逸らす。逸らした先でニコニコと愛想よく笑う諸伏と目を合わせると、その顔色の悪さに驚いた。以前から時折調子が悪そうなこともあったが、今日は殊更ひどい。ぎょっとしたのが見てとれたのだろう、彼は「ちょっと寝不足で」と言った。

「そ、そっか。お大事に」
「ありがとう……ところで、二人で何してるんだ?」
「ハギ、お前財布取りに帰ったんだろーが」

 松田が欠伸を零しながら告げると、萩原は曖昧に「ああ、うん」と笑った。見たところ制服でもジャージでもないから、どこかへ買い出しにでも出るつもりだったのだろうか。諸伏にも会えたが、邪魔をしてはまずいかと身を引こうとした。

「小林ちゃんも来るでしょ」

 勘づいてか、そうでないのか、先に切り出したのは萩原のほうだった。驚いて、ばっと高い位置にあるにこやかな表情を見上げれば、彼は至って普段と変わらぬような顔をニヤニヤとさせながら続けた。

「さっきコンビニ、って言ってたし。用があるんじゃないの?」
「あー……ま、確かにコンビニは近くにあるかな。来るかい」
「えっ、と。あの……」

 諸伏がふと一考してから穏やかに誘う。一度自室に籠って頭を整理したい気持ちでいっぱいであったが、それを断るすべも私にはなかった。やるせない気持ちで小さく頷く。そうと決まれば、と彼らが踵を返した。
 あまり晴れやかな気持ちにはなれないままその後ろを追うと、松田がこちらをジィと見つめている。首を傾ぐと、意地悪そうな笑みが浮かんだ。

「前アイス食ったのに、まだ買うモンあんのかよ」
「あっ、アイス買いにいくわけじゃないし!」
「へーへー。ま、腹が空いちゃ怪我も治らねーしな」
「食べ物ばっか買ってるわけでもないんだけど」

 くく、と肩を揺らすように笑われて、不思議とするりと言葉が零れた。先ほどまであれほどつっかえてしょうがなかったのに、変な気分だ。だって、それこそ最初は彼に一言声を掛けるだけであんなにも勇気を振り絞ったのに。今は先ほどまでの堅苦しさが一気に流れ出たようで、肩のこわばりが解れた。その興味があるのだか、ないのだかわからないような話し方に、自然と笑ってしまう。

「どこ行くの、三人で。珍しいよね」
「バイク店だよ。班長にボロ負けした験直し」
「ああ〜……。午後、逮捕術だったもんね」

 ご愁傷様、と手を合わせると、松田は少しだけムっとしたように口を尖らせた。自分から言い出した癖して、人から負けたと言われるのは気に食わないらしい。それではまんま子どもではないか。私はますます大きく笑った。

「でも、今日の班長は少し荒れてたよ。怒ってた……っていうか」
「うーん、そうねぇ。俺にもやるせない感じには見えたけど」
「へえ……」

 私は見ていないので想像でしかないが、伊達は気の良い男だ。次席にもかかわらず教場の班長を請け負うだけあり、人望も厚く面倒見が良い。普段、喧嘩の仲裁にこそ回れど自らが事を荒立てるようなことは印象にない。
 しかし、想像して分かることだが、それはたいそう――。

「絶対怖い……」
「だろ。マジでおっかなかったわ」

 普段は気の良い男だから気にならないが、もとの恰幅の良さもあり、あの逮捕術の恐ろしいほどの腕前だ。今日の午後だけで一体被害者が何人いるのだか。三人も「あれは骨が折れる」なんて頷きあっていた。

「そういえば、萩原くんもこの間……」

 思い出すのは先日の授業中、伊達に思い切り面を打ちぬかれていた萩原の姿だった。少し含むように思い出し笑いしながら自然と彼のほうへ目線を向け――さっと顔を下げてしまった。萩原の垂れた目つきが、特に微笑むこともなくこちらを射抜いている。正しくは、私を、なのか、松田を、なのか判断がつきづらい。萩原と諸伏は前方を歩いて、私は松田と後方を歩いていた。意識したわけではなく、この中で松田の歩き方が一番のそのそとしていた所為だ。

 じりじりと焼け付くような視線に、口を引き結んだ。
 これでは、以前のことを語弊のまま証明しているようなものじゃないか。慌てて松田と一歩距離を取ると、松田は怪訝そうに私の顔を覗き込んだ。

「……別ににおわねー」
「にお……! 私、お昼に生姜焼き食べてない!!」
「は、そうだったっけか」

  声デケー、と松田は気にもとめずに笑い飛ばす。しかし、まあ、松田を避けるのも違うか。私が萩原にそういった意図はなかったと、弁明すれば良いだけの話なのだから。――とはいっても、いつすれば良いのだか。彼がひとりになる時間など、まだ出会って間もない私には見当もつかない。

「あ、あった。あそこじゃない?」
「そこそこ。入口狭いから気ィつけろよ」

 どうやら、諸伏は初めて訪れる場所らしい。雨風に色を流した看板を指さし、彼もまたどうにも神妙そうな顔つきで店の中を睨みつけるように覗き込んだ。バイクを見に来た――というわけではなさそうだ。
 萩原は静かに、私はうろたえ、諸伏は顔色を悪くする中、唯一松田だけが我関せずと、新しく入荷したばかりらしい部品に飛びついていたのだった。


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