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君が夏を連れてきた
 一段と強い雨がアスファルトをぼつぼつと打ち付ける。
 大きな雨粒が窓ガラスに痛いくらいにぶつかっていて、教室は灯りが点いているのにどこか薄暗く感じた。近くの川では氾濫への注意喚起が促されたらしい。帰宅にはじゅうぶん注意をすること、もしできることなら送迎を親に頼むようにと教師は言った。

「……って言ってもね」

 そうは言ったって、両親はまだ仕事中だろう。道のりも混んでいるだろうし、学校まで呼びつけるのには勇気がいる。せめてもう少し雨が弱まると良いなあと、暗い空を見上げながら考えた。

「ひなちゃん」

 ひょこりと飛び出た顔に、驚きながらも「おはよ」なんて挨拶ができるようになったのは、もはや慣れである。初めてあってから二週間と少し。廊下に近いこの席は何かとチョッカイをかけやすいのか、萩原は何かあると廊下から顔を出すようになっていた。

 そんな彼に名前で呼ぶように言ったのは私だ。ついでに隣にいた桜にも「桜も、名前で良いよね」と巻き添えにしておいた。思春期真っただ中の高校生。女子の名前をサラっと照れもせずに呼べるあたりは、さすがだと言わざるを得ない。

「雨すごいね、迎えとかある?」
「あー……親はちょっと仕事で」
「えぇ、この中歩いて帰るつもり? 危ねえって」

 窓の桟に腕を掛けながら、彼は凛々しい眉をふにゃっと下げた。
 話すようになって分かったこと。萩原は大人っぽい印象と裏腹に、どこか甘えたな部分があって、そのギャップが女の子たちを誘惑していること。以前姉がいると言っていたが、その所為だろうか。彼の大人びた顔つきで、弱弱しい表情をされるとグっと詰まるものがある。幼いころの弟を思い出す所為だろうか。

「俺迎えに来てもらうから、一緒に乗ってく?」
「え、でも彼女いるでしょ」
「ん? あー……別れたんだよね」

 と、彼は苦く笑う。私は驚いて、いつもより大きな声で「えっ!」と叫んでしまった。教室の中は窓が締め切られて、同級生たちの笑い声が響いている。声は自然とその中に溶け込んで消えていった。

「い、いつ!」
「一昨日かなあ。思いっきりフラれちゃったよ」
「まだ一か月も経ってないじゃん」

 愕然と零した私に、萩原は暢気な顔で「よく知ってるねえ」などと言うではないか。彼の性格に問題が――? いや、たとえ二週間と少ししか知らなかろうが、よっぽど酷い男ではないように思う。寧ろ、接すれば接するほど優しい男であることは確かだった。

 とにかく、これは桜と萩原を接近させるチャンスなのでは。
 だったら尚更今日送られるのは私ではなく彼女のほうが――。と画策していたら、携帯の着メロが鳴った。最近流行りの片思いソングだ。この間テレビで聴いた覚えがあった。どうやら萩原の携帯だったようで、彼はちらっと発信元を確認してから電話に出る。

「お〜。今日来てくれるって? ……いや、アイス? そりゃ買ったって良いけど……。今日買うの? こんな雨ン中コンビニ寄れって……えぇ〜、そりゃそうだけどさあ」

 彼は何度かごねるように言葉を連ねてから、渋々と頷いた。

「分かった。じゃあ代わりに友達乗せていい? そう、陣平ちゃんともう一人……。女の子だけど、今日足がないみたいで、心配でさ」
「あっ、気にしなくて良いよ!」
「ありがと、じゃあまた授業終わったら連絡するなあ」
 
 ゆったりとした声がにこやかに返事をする。ぷつりとノイズが切れるような音がした。
 どうやら私は乗ることが決まっていたようで、途中で声を挟んでみたけれど萩原はマイペースに電話を切ってしまった。ここまでされたら、好意を断るのも悪いような気がした。
 改めて礼を述べれば、彼はゆらゆらと手を振り「まあ、送るのは俺じゃないし」と笑う。確かにそうではあるけれど。彼の家族だろうか、電話の声を聴く限り女性の声だったので、母親かもしれない。またその時にお礼を言うことにしよう。

「じゃ、また後……でぇっ?」

 ドンっと衝撃と共に彼の体が前のめりに傾いた。悪戯っぽく笑いながら、陣平がその背に思い切り体重を掛けたのが、私の視点からはよく見えた。萩原の首にぐっと腕を掛けて、まるで悪だくみを企むように片側の口角を持ち上げる。

「おい、今日の帰り頼む」
「……ぜってえ断る。人に物を頼む態度かよ!」
「どーせ千速だろ? 良いじゃん。車でけーし」
「無理、今日はひなちゃん乗せるから定員オーバーでーす」

 萩原もまた、ニヒヒと意地悪そうに笑いながら返した。先ほど電話では乗せる気満々だったくせに。陣平相手になると素直じゃないのだから。

「じゃあ、萩が降りれば?」
「いやいや、可笑しいでしょ。陣平ちゃんが降りれば良いじゃん」
「定員が三人の車ってあんの……?」

 二人か四人ならまだしも、三人って。苦笑いを浮かべながらツッコむと、陣平も可笑しそうに笑った。笑うとくしゃっと眉間と鼻筋の間あたりに皺が寄って、犬みたいで可愛い。その笑顔を見ていると、雨だろうと雷だろうと、不思議と心が浮かばれた。

「おい、何お前も笑ってんだよ」

 そう笑う彼の表情を見て、私はけらけらと笑いながら、心の中に引っかかりを感じる。彼らと親しくなった最近での、一つの悩みでもあった。

 ――陣平は、滅多に私の名前を呼ばない。
 それはわざとなのか、わざとではないのか。ただ名前を呼ぶ時がないから呼ばないのか、故意的なのかは分からない。肩を叩いたり「おい」とか「なあ」とか言うけれど、初めて名乗った日から名前を呼んだ覚えのほうが少なかった。
 でも、私を嫌っている様子ではない――と、思いたい。
 彼も萩原と同じように教室移動の時にチョッカイを出すことも多かったし、時には家の付近まで送ってくれることだってあった。自分に正直な陣平のことだから、そこに嘘はないはずだ。そう思い込みたいのは、ちょっとした願望でもあったけれど。

「あれ、ひなちゃんのクラスは今日体育じゃなかったっけ」

 ぼんやりとしていた私に、萩原がクラスを覗き込んだ。私はハっとして、頷く。

「そうだよ、でもこの雨だから……座学に変わっちゃって」
「ああ、そっかあ。じゃあ俺らも午後そうなるかね」
「ハァ? なんだそれ。眠てぇ……」
「お前は午後なんていつも寝てるじゃん……」

 何をいまさらと、萩原が呆れたように癖毛頭を叩いた。陣平がムカっとしたように目を吊り上げた時、予鈴が鳴る。彼らは軽く手を振り、言い争いながら踵を返した。雨は未だに、校庭の木々を全て散らすように降り続けていた。



「う、わあ〜……」

 帰る時刻になると、雨は弱まるばかりか目の前の景色が白く霞むほどに強まった。走る車が、大きな波を立てる。この雨ではフロントも視界が悪いだろう。迎えを頼んだ生徒たちが、校門の前までの道のりを足元をびっしょりと濡らしながら走っていく。

 そんな背中を見守りながら、靴を履き替える。今日は数日前から豪雨予想が続いていたから、いつも履いていたローファーではなく前の学校で履いていたスニーカーだ。気に入ってはいたが、もう底がすり減っているので、最悪このまま捨ててしまおうと思っていた。足のサイズは中学から変わっていない。ぼろぼろの生地に踵をねじ込んで、履きなれた靴のつま先を軽く床に打った。ふと、玄関の大きなガラスに映る自分の姿が気になる。私はふらっとガラスの前へ向かった。
 湿気でぼさぼさになった前髪をピンで留めて、ガラスに映るスカートをちょいちょいと整えた。ちょっと服装に気を遣ってしまうのは、萩原の身内だと聞いたからだ。あの美形の血縁となれば、さぞ綺麗な人なのではないか。すごく芋っぽい友人と思われたくはなかった。

「色気づいてんな」

 ぺしっと軽く後頭部を叩かれて振り返る。陣平もまたクルクルとした前髪を、以前萩原がしていたようにポンパにしていた。額が広い萩原と比べると、少し狭く幼さが残る額に、感情を豊かに表す眉が吊りあがっていた。

「別に、色気づいてないじゃん」
「スカート短すぎ。どーせに雨に濡れるんだからベルトやめたら?」
「えぇ〜……」

 不満に思いながらも、確かにあまり短くてもダサいかなあと迷いながらベストの下のベルトを外した。変じゃない、なんて陣平に尋ねれば彼は興味なさそうに視線を逸らす。素っ気ないものだが、ここでコメントをされても彼らしくない。
 気を取り直して、萩原が来るまでの間昇降口のガラスに凭れて外を眺めていた。跳ねた水滴が、ふくらはぎを湿らせる。見慣れた風景であるはずなのに、まるで一面が浅い川にでもなってしまったようだ。

「……災難だな」

 雨音が強まる中、彼がポツリと告げた。
 雷の音が空を轟いて、ほとんど消えかけた呟きであったけど、なぜかその声は私の耳にすとんと落ちた。「何が?」、聞き返せば、彼は糸のような雨が落ちる空を見上げていた。茶目よりは黒の色素が強い瞳だったが、よく光を跳ねるのが不思議だった。

「雨。苦手なんだろ」

 じゃり、とつま先で地面を弄りながら、彼は言った。私は半分笑いながら、そんな彼を横目で眺める。確かに苦手ではあるが、トラウマというほどではない。激しく地面を打つ雨と彼の横顔を見比べ、首を横に振る。陣平は相変わらずつま先だか、どこだか、視線を落としたままだ。

「苦手だけど……そんな、ちっちゃい子じゃないんだから。泣いたりするわけじゃないし」
「んなこと言ってねえだろ。嫌いなモン続くと嫌だよなってだけ」
「まあね。でももうちょっとで梅雨明けらしいから」

 今朝のテレビを思い出しながら言うと、彼は小さく頷いた。
 素直に、気にしてくれていることは嬉しかった。私のそんな一言を覚えてくれているのだと思ったからだ。ありがとうと小さく礼を言えば、陣平は相変わらずツンとしながら、視線も寄越さずに「ん」と頷くだけだった。

 彼にこうして気にしてもらえる時間があるなら、梅雨も悪くはないかと思う。
 夏が来ても、一緒に帰ってくれると良いのだけれど。不安と、きっと大丈夫だという僅かな期待を覚えながら、萩原が来るのを待っていた。噂では他学年の女子に呼び出されたとのことだったが、真相は定かじゃない。

 じめじめとした空気が少しだけ鬱陶しくて、襟足にくっついた髪を片側に流した。夏が来る前にボブにしようか。けれど、短くすると子どもっぽいかも。高校三年生、同級生は少しずつ女子生徒から女性への一歩を踏み出し始めていて、そこそこの値段でも高く見えるようなアクセサリーや小物を使う子が多い。都会だから、というのもある。鞄につけるゴチャゴチャしたぬいぐるみストラップが華奢なレザーのものになっていたりと、流行りって難しいなあと感じる。
 髪先を弄りながら待っていたら、陣平がぼうっとした視線を瞬かせた。――そして、パっと足を踏み出した。水が跳ねる。驚いて、でも視線で追うことしかできなかった。だって、こんな激しい雨だったのだ。しかし、陣平の大きな黒い傘だけは、この視界の中でもよく目立った。


「――千速!」






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Shhh...