11

君が夏を連れてきた
「――千速!」


 さっきと一緒だ。こんな雨音と雷の鳴り響く空の下、彼の声だけはすとんと私の中に落ちてくる。私に声を掛けてくれたときは、それが湿った空気を吹き飛ばすようで心地よかったのに、今は体を射止める棘のように感じて、足が動かなかった。
 「……ひなちゃん?」――そんな私の体を動かしたのは、背後から掛かった萩原の、間延びした呼び方だった。
 彼は靴の踵を入れながら私に駆け寄り、「陣平ちゃんは」と周囲を見渡した。私も、我に返って雨の中を指さす。

「萩原くんのお迎え?」
「ん? あ、本当だ。あーあ、びちょ濡れじゃねえ? あれ」

 彼に促されるままに雨の中、陣平ともう一人の人影に駆け寄る。踏み場がないほど水浸しだったので、じゅくじゅくとスニーカーが水を吸っていった。近寄ると、黒い傘の下にいる人物の姿がクリアに見えてくる。

「千速……なんで迎えに来たのに濡れたまま来るんだよ」
「いや、車で来たのは良いが傘がなかったんだ。松田も研二も電話にでなかっただろ」
「あー、マナーモードにしてたから聞こえなかった。わりィ」

 黒い傘の下で守られるように立っていた女性に、私は暫く言葉が出なかった。
 立ちすくんて、足元ばかりを濡らす私を、彼女はふわっと振り返った。――正直に言うと、嫉妬のような感情が芽生えるのは初めてではなかったと思う。別に、本気じゃないから。言い聞かせながらも、陣平が私のことを気に掛けてくれるのは嬉しかった。彼のクラスメイトにも、笑いながら彼を揶揄う後輩にも、ちょっとだけ嫉妬をしていたと――思う。

 ハッキリと、それが嫉妬だと分かったのは、今この瞬間だ。
 嫉妬なんて言葉では言い表せなかった。目の前に立つ女性と私を、比べることすらできなかったからだ。私の嫌いな暗い空が、やっぱり私は凡人なのだと笑っているようにも思えた。
 美しかった。
 萩原が謙遜する意味が分かる。彼は確かに美形だが、目の前にいる女性は銀幕の中から出てきたと言われても疑うことはないくらいに綺麗で、ポッカリと周囲から浮いているように思えた。
 雨に濡れただろうに、明るい栗色の上に滴る雫は散らばした細かいダイヤのようだったし、長い睫毛が瞬くたびにそれを跳ね返した。萩原の面影を感じさせる太く凛々しい眉や甘く垂れた目つきも、彼女の魅力を際立たせる。服が濡れて体のラインが露わになっているのに、決していやらしかったりとか、弱弱しかったりとか、そういう印象はない。

「君が研二の友達か? ほら、早く車に行こう。体が冷えてしまう」
 彼女は私に向かって美しく微笑む。「あのなあ」と、陣平が呆れたように彼女に傘を差してやっていた。

 ―――「へえ、お姉ちゃんなんだ」
 ワイパーの往復する音と、カチコチと機械的になるウィンカー音が車内に響く。濡れた体には、気を遣ってつけてくれた送風が少し寒いくらいだ。軽く肩を震わせて、鞄の中に入っていたタオルで腕や肩を拭った。運転席で萩原の姉――千速は腕を捲ってハンドルを握っている。彼女のほうが、よっぽど濡れただろうに、文句一つ零さずに笑っていた。

「正直、研二と松田なら置いていこうと思ったが……女の子がいたらな」
「ひっで〜……それでも俺の姉ちゃん?」
「正真正銘な」

 助手席に座っていた萩原が恨めしく千速のほうを見つめた。どうして女だと分かったのかと尋ねたら、私が引き留める声が電話の向こうまで聞こえていたらしい。もし本当に私のために迎えに来てくれたのなら申し訳ないと思った。「すみません」と軽く頭を下げたら、彼女は声を上げて笑う。

「丁寧な子だ、どこで知り合った? まさか彼女じゃないだろうな」
「えぇ、違うって。友達って言ったじゃんよお」
「へえ、なら松田のアホのほうか?」

 ニヤっと微笑んだ表情が、私の隣に座った陣平を見遣った。瞬間、空気が裂けたような声が響く。彼が声を上げたところはあまり見たことがなく、一瞬誰の声か分からなかった。


「ッちげえよ!」


 大声に、つい私も視線が松田のほうへと向いてしまう。その頬は――頬だけじゃない。額も、耳も、首元も、全部が火照ったみたいに赤く染まっていた。触れたら熱そうだと、どこか他人事のように見つめる頭の中で考えていた。

 笑ったら良かった。人当たりの良さが長所なのに。そうだと、思っていたのに。
 寧ろ、いっそ怒れば良かったのか。素直なところが良いねと褒められるのだから。
 ただ、そのどちらも出来ないまま私は黙って、静かに陣平を見つめていた。桜が萩原のことを話す時と同じだ。熱が籠ると、人ってこんな表情をするのだと思った。悔しがった瞳が、ナビの光を跳ね返してキラっと光る。ムっとへの字を描いた唇が僅かに震えて、拳がぎゅうとスクールバッグの持ち手を握りしめていた。

 その表情を、どうしてだか綺麗だと思うのだ。

 まるで違うのに、千速を見た時よりも、桜や陣平の表情を見た時のほうがその想いは強かった。心が波打っているのが、手に取るように分かる。きっと彼らの見つめる世界は、綺麗に色づいているのだろう。

「……まあ、陣平ちゃんには俺がいるもんなあ」

 口を噤んでしまった私を知ってか知らずか――たぶん、気を遣ってくれたのだと思うが――萩原が笑いながら肩を竦めた。陣平が「気色悪いこと言うんじゃねー」、なんて席越しに背中を蹴った。千速が目を吊り上げて「車に傷つけるな、馬鹿」と叱った。

 ――良いなとは思っていたけど、本気ではないじゃん。
 だって、まだ出会って一か月も経っていないのだから。陣平の何を知っているわけでもないのだから。寧ろ今から期待を膨らませるより、きっぱり友達だって割り切ったほうが良い付き合いができるだろう。萩原も陣平も、大事な友達だ。それで良いじゃないか。チョッカイを掛け合って、たまに一緒に遊んだりして。

『ひなだろ。舞川ひな。すげー天気よくなりそーじゃん』
『お前、靴のサイズ合ってないだろ。なんでこのままにしてんの』

 一瞬でもそれに喜んでいた心が、私には恥ずかしくて堪らなかった。
 自分って、こんなにプライド高かったのか。知らなかった。只管思いあがってしまったのが恥ずかしくて、早く家に着いてくれと口角を無理くりに持ち上げながら思った。
 
 陣平は千速の前だと益々ガキっぽい態度をした。けれど、たまに彼女が叱るのを鬱陶しそうにしながらも、満更ではないように項を掻くのだ。その仕草を見ているのが、ただただ、苦痛だった。

 私の家の前に車が停まる。先ほどよりは、雨足も少し弱まっただろうか。
 私は今一度千速に頭を下げて礼を言う。彼女は相変わらず、風が吹いたような爽やかさで気にするなと笑った。また困ったことがあればとメールアドレスを貰ったので、それにももう一度頭を下げた。

「千速に頼めば日本国内ならどこでも連れてってくれるからな」
「ホォー……。ここで捨てて行っても構わんが?」
「いってぇ!」

 陣平の指がぎゅうと抓られるのを見て、私も笑った。
 二人にはまた明日と手を振って、車から玄関までの少しの距離を濡れないように駆けた。玄関を潜れば、途端に力が抜けて、長く重たいため息が零れる。私によく似た顔つきの弟が、ゲーム片手に階段から降りてきた。

「あれ、濡れてない。誰かに送ってもらった?」
「ちょっと友達のトコにね……。もしかしてびしょ濡れで帰ってきたの?」

 今の口ぶり、と驚いて聞き返したら、彼は「あんくらい走れば余裕」なんて恰好をつけて見せた。そんなわけないだろうに、あの雨足を見ただろうか。この調子だと、私も免許を取れば千速と同じように呼び出されそうだなあと思った。

 ――大学生って言ってたなあ。大人っぽかった。
 大学生が大人っぽいのか、彼女が大人っぽいのか。自室のハンガーに制服を掛けながら思い出す。車だって、なんだか高そうで派手だった。黒いシャツにアイボリーのパンツ、シンプルな服装だったのにすごく綺麗で――。リップだって、大人っぽい深い色。私がつけたら浮いちゃいそうだ。
 萩原とは小学生からとか言っていたか。確かに、そんな人が小さいころから身近にいれば、好きになるよなあ。しょうがない。誰が悪いわけじゃない。強いていうなら、脈があるかもとか気軽に彼に好意を抱いた私の所為だ。

 ショッピングモールで買ったルームウェアに着替えて、ベッドに寝ころんだ。少しだけ、寝よう。起きたら課題をして、続きを楽しみにしていたドラマを観る。
 明日になればいつものようにくだらないことで笑えるだろう。
 付き合っていたわけでも、本気で追いかけていたわけでもない。たった二週間と少し良いなと思っただけの人なのだから。

 鞄から引っ張り出した音楽プレイヤーとイヤフォンを、布団の中まで引きずった。少し冷えた足先を丸めて、イヤフォンを耳に嵌める。雨が降る音を打ち消したかった。ランダムで再生した音楽を聴いて、瞼を落とす。

 ――偶然再生した【相合傘】なんてタイトルの歌に、今日の占いは間違いなく最下位だったに違いないと思い始めた。
 朝は天気予報ばかりで、占いを気にしていなかったの。だって、また君が「ひなちゃんのくせに」なんて馬鹿にすると思ったから。傘がないと、君が入る場所がないと思ったから。本当に、馬鹿みたい。そういえば、千速のことは名前で呼ぶのか――そのことに気が付いて、ますます胸が重たく感じた。




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Shhh...