12

君が夏を連れてきた
「え、ひ、ひな! 髪切ったの!」

 登校したばかりの私に、桜がパタパタと駆け寄った。
 日曜日に切ったばかりの髪は、なんだか慣れなくて、つい襟足ばかり弄ってしまう。ボブスタイルも良かったけれど、できるだけ大人っぽくしたかったのでレイヤースタイルにしてもらった。長さは肩に少し掛かるくらい。
 どうせ切るならもっと切れば良いのに、そのあたりまで中途半端なのはいっそ私らしい。それでも桜が驚いているのは、私が髪を伸ばすと言っていたのを知っているからだ。

「やっぱり雨が降ると鬱陶しくて。変かな」
「めっちゃ似合ってるよ〜!」

 桜はおっとりとした目つきを更に垂れさせて、私の髪にふわふわと触れる。その仕草が擽ったくて照れ笑いが零れた。良かった。制服には似合わないかと心配したが、クラスメイトの反応を見る限り好評だ。もうちょっと髪色明るくしてみても良かったかなあ、と毛先を摘まむ。飽きたらレイヤー部分を切ってショートにしても良いし。うん、中々良いカンジじゃないか。

「うわっ、可愛い〜」

 ――馴染んだ低い声が廊下から転がり込んだ。萩原が私の顔を覗き込んで、甘い目つきをキラっと輝かせた。「おはよう」、と馴染みになった台詞が、ちょっとだけ強張ったような気がする。

「すげえ良い感じ。ひなちゃん顔小さいから」
「バサバサに見えない?」
「全然。吃驚したあ、松田にも見せたら」

 と、彼が振り返る。その手を、私は自然と掴んでしまった。
 萩原がハっとして振り返る。それから太い眉をへにゃっと八の字に下げた。敏い彼のことだから、もしかしたら気づかれていたかもしれない。萩原は申し訳なさそうに私の手に、もう一つの手を重ねた。大きな手だ。温かい。男の子の手だからもっと無骨かと思ったが、皮膚や肉が厚い方なのか、思いの外触り心地は柔らかいように感じた。十代が手を重ねるなどとと、と見えるのに、不思議と下心の一つ感じない優しい手つきだった。

「……悪い、一緒に帰ろうとか言わなきゃ良かった?」
「あ〜……。違う違う、そういうんじゃないから。陣平くんのことだって、良い友達だと思ってるしね。気にしないで」

 気にしないで。その一言ほど、萩原の表情を苦しそうにするものはなかった。本当に優しい人なのだと思う。今の私には何を言っても言い訳のような、懺悔のようなもので、私は彼の表情に負けてツラツラと並べた言葉を止めた。

「あのさ……良かったら」
「い、良い! 本当に、気遣わないで。私も頑張って忘れるし……その、萩原くんたちと、もっと仲良くなりたいって気持ちはあるから。今まで通りで……」

 萩原は暫く押し黙ったままであったが、私が念を押すように「お願い」と言うと、言いたいことを押し戻すように喉を鳴らして頷いた。
 その日から、元通りになろうとは思いながらも、自然と足は彼らの教室へ向かわなくなった。体育館へ向かう道はいつもその廊下を通っていたけれど、わざわざ階段を降りてから廊下を渡るようにしたし、授業の合間はなるべく自分の席じゃなくて桜の席で過ごすようになった。
 嫌いになったわけじゃない、それは本当だ。でも、今陣平に会ったとして、切った髪へどんな反応を返されても落ち込むような気がした。気づかれなくても落ち込むだろうし、褒められても妬みが先に溢れてしまいそう。そんな姿を見せて、本当に嫌われたくなかった。

 もうちょっと。もうちょっとだけ――。

 彼の視線を避け続けて、気が付けば一週間が経っていた。
 しとしとと細い雨筋が葉を揺らすような月曜日、今朝のニュースでは明日にでも梅雨明けだと報道していた。梅雨が終われば、強い猛暑が訪れると。それもそれで嫌だけど、この湿気た空気が終わりを迎えると思えば少し清々しいものがある。

「……ハァ」
 トイレの鏡で前髪を整えて、ため息をつく。昨夜珍しく陣平からメールが来たのが、この憂鬱の要因だ。飾り気のない文章が、【明日迎えに行く】とだけ。明日は用事があるとか桜と一緒に帰るとか返信して見たが、彼からの反応はない。私は焦った、その不愛想な文面からも、彼の憤りを受け取れたからだ。

 結局、トイレに籠って暫くの間教室を空けることにした。待つことが得意そうでもないし、飽き性な彼のことだ。そのうち面倒くさがって帰るだろうと思ったのだ。

 暇つぶしに遊んでいたお世話ゲームは、もう課金しないとやることもないところまでペットが育ってしまった。時間を見れば、最後の授業が終わってから一時間と少し。まあ、このくらい時間が潰れれば上等か。

 トイレの蛍光灯がチカチカと点滅をして、結局はそれが怖くて逃げるように教室へ戻ってしまった。静かだ。月曜日は、部活がない。各自委員会活動をして、終われば解散する流れになっているはずだ。私の委員会は体育委員会で、体育祭がない前期は殆どやることがない。転入したばかりで右も左も分からない私に、担任が気を遣って当ててくれた役職だった。他の委員会も、さすがに活動を終えて帰ったのだろう。ちらほらとクラスから笑い声がするものの、いつもに比べると外の雨音がよく響いた。

 教室に戻ると、部屋の真ん中にこんもりと山ができていた。見覚えのある寝姿だ。私はそれに驚いて、足を止める。彼の寝姿を見るのは久しぶりだった。
 以前菓子を差し入れたのは何時だっただろう。部屋の中は蒸されて暑かったのに、今日はジャージを頭にかぶっていた。

「……汗かいてる」

 手のひらに、汗が伝うのが見えた。さすがに、こんなに汗が滴るまで暑いのは良くないのではないだろうか。熱中症とか――。ジャージの下の人物はいつものように寝こけてしまっていて、その膨らみだけが上下した。

 起こしたほうが良いのだろうか。どうしよう。

 戸惑ったのは、そのジャージを捲るのに少しだけ怖気づいたからだ。けれどスヤスヤと眠る青年の姿をどうしても無視できなかった。せめて上にかぶせたそのジャージだけでも取ってやろうと手を伸ばした。ふと、制汗剤の匂いがした。ツンと爽やかな、覚えのある香りだった。雨の香りは都会も田舎も似たようなもので、湿気った土の匂いの中にそれが吹き抜けた風のように思えた。一瞬過ぎった予感は、良いものだったろうか、悪いものだったろうか。今となればもう分からない。

 ぐ、と汗ばんだ掌が私の手首を掴んだ。ジャージが床に落ちて、汗で狭い額に髪が張り付いていた。キラキラとよく光を跳ね返す瞳が私を見据える。眉間には浅く皺が寄って、焦ったように上ずった声が「おい」と私を呼び止める。

 なんで、という疑問よりも先に私も慌てた。
 手を掴まれていて二進も三進もいかないし、かといって合わせる顔もなかった。自分でも、彼を避けていた自覚はあったからだ。思わず顔を俯かせて、彼の煌めくような瞳から逃げてしまう。

「なんでコッチ向かねえの」
「……だって」

 子どもみたいな言い訳しかできなかった。結局、「だって」の次の言葉が思い浮かばなくて、そのまま口を噤む。恥ずかしい。こんなにキラキラとした瞳が見つめる世界に無謀にも踏み込もうとしてしまったことが。いっそ雨の音が全て搔き消してくれれば良いのに。私の声を飲み込んでくれたら、良いのに。

「……ウザかったなら、言えよ」
「……違う」
「じゃあ、逃げんな」

 逃げるなって言われたって――。じゃあ、どんな顔をして会えば良かったのだろう。相変わらず自惚れ続ければ良かったのか。それとも、もっと悲しめば良いのか。鋭い眼差しが心をチクチクと刺してきて、泣きたくなった。彼は悪くないと思えば思うほど、自分が惨めに思えてくる。

「――一緒にいて楽しかったの、俺だけか」

 ちらっとその顔を見上げると、いつも生意気そうな眉が情けなく下がっていた。
 私が避けたことを、心底悲しむように瞳が揺れる。私は切りそろえた襟足を、もう片方の手で首に沿わせるように撫でつける。そんなことはない。私だって、楽しかった。こんなつもりじゃなかったのだ。楽しくて、ただそれで良いと思っていた。こんな風に――傷つくつもりなんてなかった。

「……何か言えよ」

 そう促されても、言葉が出てこなかった。自分でも感情を理解しきれていなかった。黙っていたわけではなくて、言葉を探しても見当たらない。無視をしたかったわけでもない。その言葉に応えたいとは思ったのに。 

「陣平ちゃん」

 二人の沈黙を破ったのは、教室の扉を開けた第三者の声だった。
 いつも穏やかそうにしている彼は、今も変わらずににこやかに顔を出す。しかし、私を視界に捉えると顔色を変えて焦ったように駆け寄った。私を掴んでいた陣平の手を、ぐいと無理やり引きはがす。

「何してんの!」

 萩原がどこか咎めるように陣平を睨みつけた。私が慌てて萩原の裾をつかんで首を振ると、太い眉が困惑したように下がっていく。どうしたの、彼の表情が聞いていた。

「ごめん、違うの。私が、上手く話せなくて……」

 説明しようとする声がやけに震えている。萩原は私のしどろもどろな言葉を何とか聞き取ると、落ち着かせるように肩を軽く撫ぜた。大きな手のひらだ。じんわりと温かく、優しい彼らしい手つきだと他人事のように思った。

「……あのなあ。どんな理由があったって女の子は泣かしちゃあダメだ」

 言い聞かせるような言葉に、私はバっと頬を擦った。涙は零れていなかった。心配そうに顔を覗き込んだ萩原に「泣いてない」と首を振れば、彼もまたそれを否定する。

「そんな顔しないで」

 涙が一粒と零れていない頬を、その指先が柔く拭う。
 どんな顔をしているのだろうか。
 それほど、ひどい顔だったとしたら、益々陣平に申し訳なかった。彼が悪いんじゃないのに。

「違う、本当は……」

 ――本当は、何だ。
 千速と陣平の姿を見て、ヤキモチを妬いて、私は彼にどうしてほしいというのだ。
 これじゃまるで、欲しいものを買ってもらえなくて拗ねるだけの子どもだ。私は、私は――。
 
「……悪かった」

 私の考えを遮るように、陣平はポツリと呟く。萩原の言葉があったからではない。恐らく、いつまでも自分の考えを口に出せない私を見て、もう諦めたのだ。彼は萩原が止める声も聞かないまま踵を返す。クルクルとした癖毛を、ただ見送ることしかできなかった。ただ、その背中に、少しだけダボついた制服のズボンに、彼はもう私と関わろうとしないのだろうと思った。

「おい、松田!」

 陣平を追いかけるように萩原も後を追おうとしたけれど、廊下を二・三歩出て肩を落とした。




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