13

君が夏を連れてきた
 すぐに私のもとに戻ってきた彼は、いまだに俯いたままの私の話を丁寧に聞いてくれた。陣平がいる時は息が詰まりそうで一言と思い浮かばなかった言葉が、スルスルと音になる。どうしてさっきはこんな風に喋れなかったのだろう。疑問に思うくらい、彼に話す言葉は軽かった。

 とにかく、陣平への誤解を解きたかったのが一番だ。
 彼は何もひどいことをしていなかったから、それを話そうと思えば必然的に千速のことを話す形になってしまった。弟である彼に話すのも少し気まずかったが、人の感情に敏い萩原のことだ。きっと陣平が千速に抱く想いなど、とっくに気が付いているだろう。

 最後に私が口を閉じると、萩原は難しそうに眉間に深く皺を寄せた。

「……つまり、松田が姉ちゃんのこと好きなことに嫉妬したってこと?」

 長ったらしい話を要約されて、ギクリと体が強張る。小さく情けなく頷くと、萩原は同じようにもう一度質問を繰り返す。自分の中の想いを嚙み砕くように、その眼差しはいつになく熱く真剣だ。

「ってことは、ひなちゃんは松田にホの字ってわけ?」
「あ……」

 顔が熱く、血が上った。そんな、好きってほどじゃあ――と、言い訳をできるような表情でもなかったと自覚している。初めて自分以外の人から言葉に出されて、腑に落ちた。やけにしっくりと、心が納得する。あれほど違うと思っていたことなのに。

 否定もできないまま視線を逸らして、どんどんと赤くなる頬を隠すように顔を足元に向けた。口を噤む。恥ずかしい。
 自分の立場も弁えない人だと思われてしまう。ちょっと話しただけで自惚れてしまうような、芋っぽい奴だと――。萩原がそんなことを思うわけがないのに、私はそれを恥じていた。たぶん、誰よりそう思い込んでいるのは他でもない私自身だったからだ。
 萩原は俯いた私の両肩を掴み、ぐっと前を向かせた。ニコニコと笑っている目つきは、今日は真剣みを帯びている。

「それ、ガチで?」
「……え、っと」
「本当に、松田のこと好きなの? 冗談とかじゃなくて」

 彼が何度も尋ねるから、観念して首を縦に振る。真正面から見た萩原の表情は分かりやすいくらいに目を見開き、気が付けば私の手首をグっと掴んでいた。そして、その長い脚が私を連れて一歩進みだす。

「は、萩原くん⁉」
「良いから、走って! 早くしねえと陣平ちゃん帰っちまう!」
「いや、でも……!」
「松田が姉ちゃんに照れてたのは、好きなヤツの前で揶揄われたからなんだって!」

 珍しく強く引かれた腕のままに、私も廊下を走りだした。萩原はぐんぐんとスピードを上げて、息も切らすことなく昇降口まで駆け下りていく。私も返事をしたかったけれど、彼の歩調についていくのが精一杯で、その言葉を聞くことしかできなかった。息が乱れる。彼もまた前を向いて、長い足を目いっぱいに伸ばしながら必死な声で訴えた。廊下の天井に彼の大人びた声で跳ね返る。

「ごめん、 俺、てっきりそれでひなちゃんが松田の気持ちに気づいちまったんだって思ってた! 友達でいたいんだって、勘違いしてた! マジでごめん!」

 私は彼の話すことを噛み砕けないまま、息を切らして走った。それって、つまりどういうことだ。理解するまでの頭が働かない。陣平の気持ちって何。彼の言う好きなヤツって、誰だ。萩原は自分の罪でも告白するように顔を歪めて、大きな口を開いて叫んだ。

「アイツ今年の春に君に惚れてるんだ! 松田はひなちゃんのことが好きなんだよ!」

 彼の、聞いたことのないくらい必死な声が校門付近に響き渡った。もう下校時間もすれすれで、周りに人はいない。雨が止んだ薄暗い灰色の雲の隙間から、ひびが入ったように夕陽が差し込んでいた。湿った空気をふわっと風が攫うような気がする。私はほぼ聞いたことをオウム返しするかのように、ぽつりとその情報を繰り返す。汗ばんだ彼の手は、暖かく、その心の熱をそのまま映したようだと他人事のように思った。

「す、き……?」
 誰が、誰のことを。今はっきり彼から聞いた言葉が、頭の中で復唱されていく。
 ――そうだとしたら、私はさっきどれほど彼のことを傷つけたのか。

 一方的に彼の姿を避けて、持ち掛けられた話も無視をして、一人傷ついて泣きそうになって。
 なんて自分勝手なのだ。彼の話を聞きもしないで! 私は萩原を呼んだ。彼が長い髪を翻して振り返る。

「ごめん、ありがとう! 私、一人で追っかけれる!」

 彼の目を見て叫ぶと、萩原は一瞬弾かれたように口を開いたけれど、すぐにその大きな手で背を押してくれた。雨の匂いがする。湿った土の匂い、ポツンと小さな雫が頬を打った。涙を零した余韻のような小雨だ。

 私はそのまま彼のことを追った。彼の帰る道など知らないけれど、いつも送ってくれていたから方角は間違っていないはずだ。明日まで待てば学校で会えるかもしれなかったが、それでは駄目な気がした。彼が一人、教室で私を待っていたのなら、私だって彼を一人追いかけなくては駄目だ。折角止んだ雨が、少しずつ雨足を強くした。額を伝う雫を拭う。

 自宅まであと少し。一向にその背中は見えてこない。
 思えば、途中までは道のりが同じだとして、途中の分かれ道で別れられたらどうしようもない。それでも決して遠くはないはずだと言い聞かせて、思い当たる限りの別れ道を進んだ。ぽつぽつと降り注ぐ小雨が鼻や輪郭を沿って地面に落ちていく。遠くから、ゴロゴロと唸るような音が響いた。

 今日は夜にかけて晴れると言っていたのに、夕立だろうか。
 暗くなり始めた空に少しだけ足が竦んだが、今はそんなことを気にしていられない。早くあの背中を見つけたいのだ。癖毛で、眠たそうな猫背をしたあの後姿を。雨が強くなったら視界が悪くて見つけづらくなってしまう。その前に。

 本当は、名前を呼んでくれたときに、もう好きになってしまっていた。

 でも、必死になるのは惨めで疲れる。どうせ一番にはなれないのだもの。本気で好きになったって、何かをしたって、私はそんな風に想われることなんてないんだって――だから、最初から好きになりたくなかった。
 ――熱くなりたくなかった。今思えば、心が勝手に防衛本能を働かせていたのだ。
 だけど、そんなの他の人も同じなのだ。
 陣平だって、そうだった。私と同じだった。それ以上踏み込むことを怖がっていたはずだ。だから今度は私が見つけたい。私が、その背中を捕まえたい。濡れた髪を掻き上げる。切ったばかりの襟足が、しっとりと首筋に張り付いていた。

「――ひな」

 轟音の中に、すとんと落ちた声に振り返った。
 あの時と同じだ。千速を雨の中で見かけた時と――。私を見て、彼は傘の中信じられないと言いたげに目を見開いていた。「陣平くん」、彼の名前を呼び返せば、その傘が放られる。一直線にこちらに駆けてくる、真剣なまなざしがやけに脳裏に焼き付いていた。思えばその傘を持ってこれば良いのに、気が動転していたのか、それとも。

「っにしてんだ、風邪引く!」
「そんなことより、言いたいことがあって……!」

 そんなこと、と言うと陣平は柄悪く「ハァ?」と顔を歪ませた。私の濡れた髪を、頬から剥していく。指先は案外繊細に、優しく髪を摘まんだ。

「そんなことじゃねーだろ、アホか!」

 彼は自らも雨に降られながら、私を叱りつけた。遠くで彼が捨てたばかりのビニール傘が風に吹かれて転がった。陣平の癖毛も、雨に降られてぺたんとボリュームを失っている。勝気そうな目つきが、髪に隠れて見えた。

「そ、そんなことなの! 私にとっては!」
「ホォー、雨ン中鞄も傘もなく走り回るセートーな理由があんなら教えてもらおうか」
「なんでそんな意地悪な言い方するの……」
「お前がバカなことしてるからだろ、暗いの苦手なクセによぉ!」

 ぐにっと頬を摘まみ伸ばされる。普段から口の悪い青年ではあったが、ここまで声を荒げているのは、以前千速へ噛みついていた時以来だ。少しだけ、怖気づいた。だけれど、萩原の言ってくれたことを今は信じるしかない。
「私の長所はね、素直なところと誰とでも仲良くなれるところ」

 ふう、と息をついて、私は口を開いた。目の前の青年を見上げて、手を自らの胸に載せた。

「だけど、君といると、素直でもなくなるの。仲良くできるはずの子に、嫌な気持ちが湧いちゃうし……長所がどんどんなくなってく。メチャメチャ嫌な奴になっちゃうんだよね」
「それ、褒めてねえだろ」
「でも――私、陣平くんのこと、好き」

 指先が震える。冷えた体のせいなのか、心のせいなのか。見上げた先の表情が、髪に隠れてよく見えないのだ。不安だ。何の話だとはぐらかされないだろうか。断られるならまだ良い、馬鹿にされたりしないだろうか。

「す、好きです」

 不安のあまりもう一度、間を埋めるように繰り返してしまう。浪漫の欠片もない告白だった。格好悪い。美しい情景ではなかった。
 雨に濡れる。
 ひたひたと濡れる顔も、制服も、その冷たさを全て溶かしてしまうくらいに顔が熱い。体も、熱い。彼の顔を見つめてはいるけれど、ピントはよく合っていなかった。前髪を伝う雨粒が、時折視界を遮ることだけは確かだ。

 口元が戦慄く。それを誤魔化すようにきゅうと一文字に噤んだ。
 幼い頃から思っていた。何か一つのものに夢中になってみたい。平凡な人生を変えるような、大切なものを抱えてみたい。羨むばかりで、憧れるばかりで、気づけば手から投げ出すようになっていた。

 放したくないと、強く心が叫んでいるのだ。
 与えてくれようとした感情を、温もりを、眼差しを、声を――放したくない。

 彼の指が、私の頬にチクリと触れる。ビク、と肩が跳ねた。私の熱い温度を宥めるように冷え切った指先だ。案外深爪で、指の先っぽは柔らかい。肩を大きく上下させて、陣平は息を吐いた。呼吸を今まで忘れていたかのように、息を吸う音が雨音の中でも際立って聞こえる。彼は言いあぐねるように口を開閉し、ようやく言葉を震わせた。

「――……ひな」

 彼が零した言葉は、それだけだった。
 好きとも嫌いとも、付き合うとも合わないとも言わずに、私の名前を静かに呼ぶ。その少し掠れた熱の篭った声が、優しく一音一音を大切にしたような呼び方が、どんな言葉を尽くすよりも胸をドキドキとさせる。

 ほんの僅かに、ひび割れたガラスを触るような手つきに、私はそっと頬を摺り寄せた。一瞬彼の手が強張って、少しすると安心したように親指が目じりを撫でる。
 私も同じように手を伸ばした。髪の毛を退かしたら、目が少し見開いて顔色が火照っていく。それからゴクンと出っ張った喉仏を鳴らして、「好きってガチ?」などと尋ねてきた。

「ガチだけど……ガチって何、全然ロマンチックじゃない」
「悪かったな。クソ、なんだよ」

 悪態をつきながら、彼はスンっと一度鼻を啜った。寒いのかとも思った。
 しかしその瞳がキラキラと光をよく跳ねて――揺れて、ぽろっと雨ではない雫が目の端から落ちた。すぐに濡れた頬の上を雨と一緒に伝っていったけど、その瞬間を見ていたから間違いない。彼は涙を零したのだ。

「なっ、泣かないでよ!」
「……いてねーよ、バカ」
「ごめんね、その……。避けたりして、ごめん」

 改めて謝ると、彼はふてぶてしい態度で「マジでややこしい」と濡れた頬を拭った。泣くほどだったのかと思うと黙ってもおけなくて、私は彼を避けた理由を順を追って話した。千速の話をしたら、陣平は顔を顰めてもう一度だけ「バカ」と吐き捨てる。




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