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君が夏を連れてきた

 私の手を引き、傘を拾って早歩きに歩き始めた。
 前を向いたまま、つま先がどこへ向かうかは分からなかったが、小雨になった坂道を私を連れて降りていく。私も彼の指先の冷たさを感じながら、その足取りについていった。乱暴な手つきではなかった。その指先が脈打つ動きさえ伝わってきてしまう。私の手首から伝う脈も、彼はその指で感じているのだろうか。

 暫く彼の足の向くままに歩くと、とある建物の前で彼が立ち止まった。
 スポーツジムだ。ドアは閉まっているのに、中からは活気の良い声たちが響いていた。私がたじろいで建物の看板を見上げると、陣平は傘を閉じてちょいとこちらを手招く。ずいぶんと慣れた風に受付を過ぎて中へと進んでいく。ロッカーに靴を並べ、濡れた靴下を持ってペタペタと裸足で歩いた。
 真ん中の大きなリングとマットたちが存在感を持ってただずんでいる。サンドバッグに、バーベル。奥の部屋にはランニングマシーン。ジムなんて足を踏み入れたことがなくて、本当に漫画の中みたいだと思いながら、横目に彼の後姿を追いかける。陣平は積まれたタオルをひょいと取り上げると私のほうに投げてよこした。

「ね、ねえ。入って大丈夫なの?」
「ん、へーき。親父のダチがやってんだ。シャワー使って来いよ」

 女性用の更衣室を指さされて、でも着替えがないと言えばトレーニング用らしいTシャツと短パンを貸してくれた。私はそれを抱えて、更衣室の扉を開ける。活気のある表よりは人が少ないが、それでも何人かが談笑しながらトレーニングウェアに着替えていた。自分の体など恥ずかしいほどに、キッチリと引き締まった体つきだ。

 そそくさと脇を通り抜けてシャワールームへ向かう。簡易的なものだったが、更衣室にはドライヤーもあったので有難く使わせてもらうことにした。家のものより少々水圧の弱いシャワーを浴びながら、私は雨に当たった肌の感覚を思い出していた。

『す、好きです』

 頭の中に自分の声が、鮮明に再生されていく。冷えた肌を洗い流しながら、落ち込んだ。なんだあの告白の仕方は。もっと他に言いようがあったのではないか。ていうか、まだ返事ももらってないし。
 一度冷静になると自分のしでかしたことが愚かしく思えてくる。重たいため息が零れた。濡れた髪を借りたタオルで軽く拭いて、制服を片手に更衣室に戻る。ドライヤーで熱くなった頬が羞恥心でますます熱く染まる。

ドイライヤーの音より私の心臓のほうが五月蝿い。どれだけ引っ張って乾かしても、いつもアイロンで伸ばしている毛先はクルンと外を向いてしまった。私のひねくれた心の形のようだと思った。もっと、もっと素直に言えば良かったのに。
 少しゆったりとしたトレーニングウェアに着替えて、更衣室を後にする。
 そう、もう好きだと言ってしまったのだから。当たって砕けたく――はないが、しょうがない。あとはもう、自分に言い訳せずにありのままを伝えよう。ペタ、ペタ、と張り付くフローリング。
 ――パンッ
 空気を切り裂くような音に、はっとして振り返った。
 トレーニング中の誰かが、サンドバッグを思い切り殴った音だ。すごい、あんな音がでるのか。拳は痛まないのだろうか。感心してリングの上を見上げていたら、背後から肩を掴まれた。

「おい、ひな」
「じっ、んぺい……くん……」
「ビビりすぎだろ……。どこ行くんだよ、そっち出口」

 彼も同じようなTシャツを着て、裸足をフローリングにぺたぺたとくっつけながら歩いた。向かった先には休憩室があった。自動販売機が一つ、誰もいない部屋でブウンと唸りをあげている。青いプラスチックのベンチに腰を掛けて、彼はまだ濡れている髪をガシガシと拭った。濡れていると、普段ボリュームある癖毛は何割か小さく見える。陣平は視線をこちらに遣さず、手元に落としたまま口を開いた。

「……いつから知ってた」

 端的な質問に、私はつい首を傾げてしまった。あまりに言葉足らずだというか、その質問一つで脈絡もなく答えは浮かばない。そんな私の姿に、彼は苛立たし気に、しかし照れくさそうに「その、好きだって」と弱弱しく吐き出した。

「あっ……その、ごめん。全然、知らなかった……」

 実は気づいたのではなく萩原から伝え聞いたこと、萩原が千速のことについて私が勘違いして受け取ったと話していたことを、私はポツポツと話した。最初は「あんにゃろ」と歯を剥きだした陣平も、話が進むうちに少しずつ口を噤んだ。
 
 陣平は私が話し終えた後、暫く黙りこくったままだった。
 自販機の動く音が五月蝿く響いて、部屋の外にいる人の声などはあまり気にならない。彼はどこか言葉を探すように、右、左、と視線を動かす。

「……昔から、変な夢、見るんだ」

 ようやくのこと、彼は零すようにポツリと語った。
 私が「夢?」と尋ねると、小さく頷く。恐らくだが突然妙な話をし始めたわけじゃないのだろう。ひとまず、彼の話を聞くことにした。

「よく覚えてねー。でも、嫌な感じだけはいつも一緒だ。ジットリ首筋が濡れるような、燃えるみてえに怖ェような夢だ」
「同じ夢なの?」
「多分な。でもマジでたまに見るくらいで、いっつもそうな訳でもねえし。医者に言ったらガキの頃のトラウマじゃねえか……とか。そんなこと言われたケド」

 子どもの頃の――その言葉は引っかかったけれど、どうにも陣平が言いたいのはそこではないらしい。彼自身は納得のいかないような、こめかみを掻いて口をひん曲げながら重たい息をついた。
 それから彼は小さく笑って、チラリと私のほうを見遣る。どこか懐かしそうに、瞳をゆっくりと細めて見せる。

「いつも俺を起こすのはお前なんだよな」

 柔く笑った口元に、私は益々首を斜めにしていく。
 陣平はすぐに「なんでもねー」と子どもみたいに笑ってから、私の肩に軽く体重を預けた。びくっと一瞬肩が跳ねた。彼も少し体が強張っているだろうか。私の脈打つ音なのだか、彼の体から伝わる音なのだか分からない。

 ふわりと柔らかな髪が触れた。まだ少し湿った頭が、甘えるような仕草でこめかみを擦りつける。市販品の、メンズらしいツンと抜けるようなシャンプーの香りがした。

「ひな」

 彼に呼ばれて、頬が一層熱くなった。私は陣平のことを見下ろすこともできなくて、自分の手を見下ろしながら「うん」と返事をした。緊張して声が裏返っている。彼は無作法にポリポリと、頭を掻いた。陣平は一拍置いて、長く息を吐きだす。チョンチョンと彼の指が私の手の甲を突いた。
 それが不器用な彼の精一杯のおねだりに見えて、胸の奥から愛おしさが溢れだすのだ。

「俺さ、お前に、傍にいてほしー……」

 ――私はそれを聞いて、瞬いた。それから思わずニヤけかけた口元を押さえて、陣平とは逆に顔を逸らす。だって、そんなのズルいじゃないか。精一杯に探した言葉がそれだと思うと、愛おしいと思わざるを得ないのだ。

「笑うな」
「ぶふっ、だって……。あはは、すごい口下手! 付き合って、くらい言いなよ」
「うるせえ。苦手なんだよ、そういうこと言うの……」

 ごにょ、と篭ったように零す陣平の声で、私はようやく彼を振り返った。頭を預けているせいで表情は見えづらいが、男の輪郭しては小さめな耳が赤く染まっている。触れたら、きっと熱いのだろう。縮こまってしまったような背中を見て、それから居所のなさそうに彷徨っている彼の指先を見た。いつもあれほどに粗雑な彼が、手なんてどこにだろうと触れれば良いのに、それに戸惑っている。息が止まりそうで、慌てて大きく息を吸った。

 それからその息をフゥ、と吐くように小さく笑って、私も彼のほうに軽く体を凭れさせた。そんなにも気負った声を聞いて、不思議と私の肩は軽い。先ほどまで強張っていた体が嘘のようだ。胸は鳴っていたが心地よい音だった。

「私、返事が欲しいな」
「……あ?」
「だって、好きって言ったじゃん。イエスかノーはあるでしょ」

 急ににこにこと表情を明るくした私を見て、陣平が小さく「生意気」と呟いたのが分かった。それに、私は声を上げて笑った。ややあって、彼が消え入るような声で何かを呟く。これに関しては揶揄ったわけではなく、本当に聞こえなかったのだが、陣平はバっと顔を上げてどこか怒ったように眉を吊り上げた。

「だ、から! 良いっつってんだよ! これからお願いしますってよー!」

 その荒げた声は、おそらく休憩室の外にまで響いただろう。ぴりぴりと肌が痺れ、鼓膜から脳内までが小刻みに振動した。
 私はポカンと口を開け、ベンチから腰を浮かせた彼のほうへ視線を持ち上げた。彼は顔を真っ赤にして、少し息を荒くして、まるで喧嘩でもしているような顔でこちらを見つめている。その言葉に押されるようにして、私も小さく頷く。窺うように彼を覗き見ると、大きな目が少しだけ輝いたように見えた。

「泣かないでよ」
「は、泣いてねえだろ」

 拗ねた口元も、キラと光ったような瞳の奥も、熱が篭った皮膚の温度も。私はただ嬉しかった。彼と一緒にいたいのだと思った。視線が合って、先ほどまでの大きな高鳴りではない、心地の良い脈が全身を打つ。ジィと見つめ合った視線が何かを訴えているようだ。

「……可愛い」
 小さく囁いた言葉は陣平に聞こえてしまっただろうか。ちょっぴり拗ねた口元から目が離せなかった。

「――おい、松田のボーズ! 来てるなら顔出せって……」

 今まで二人の声と自販機の音だけが占めていた部屋に、第三者の声が転がり込む。私が飛び上がるように退くと、陣平も同じように――いや、私以上に飛びのいた。休憩室の入り口から顔を出したのは、見るからに格闘技を好むような恰幅の良い男だ。「松田の坊主」、と言っていたから、もしかすると彼が父親の友人にあたる男なのかもしれない。

「おい、ジムに女連れ込むなよ」
「連れ込んだワケじゃねーし。雨宿り」
「どうだかな〜。俺も昔はこういう物陰でイチャイチャしたもんだよ」

 にやにやと男が陣平を小突けば、その手を払って「うるせ」と歯をむき出しにしていた。私は濡れた制服が乾くまで、休憩室で彼らの話を聞きながら窓を見上げた。灰色がかった雲は、薄く広く広がって日の光を透かしている。


 ――雨、止んだんだなあ。

 私はどこか軽くなった心のままに、口角を持ち上げた。もう梅雨も終わりかけの、薄く見えないほどの虹が架かるような日だったことを覚えている。彼と歩いて帰る道のりはいつもよりも少し早くて、街灯の暗さも気にならなかった。じめじめとアスファルトからのぼる湿気が肌に馴染んで心地よく感じた。





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