「犬じゃなくて良かった……」
「何言ってんだお前」
隣で呆れた顔をしながら陣平も手でTシャツをはためかせる。私より暑がりなので、こめかみに汗がダラダラと伝っているのが分かる。黒いサファリハットが彼の顔に影を作っていた。私もキャップの陰から彼を見上げる。
「だって、地面熱そうじゃん」
「だからって犬と比べるなよ、人間だろお前」
くく、と笑う顔はやはり可愛い。私もつられて、彼と同じように片側の口角が持ち上がってしまう。私も軽くTシャツの襟元を摘まんでパタパタと空気を送りながら、真っ青な空を見上げた。絵に描いたような入道雲が立っている。どうせならこの日差しを隠してほしいものである。
暫くすると、パパ、と傍でクラクションが鳴った。そちらに顔を向けると相変わらず美しいとしか表現のしようがない美形が運転席から顔を出している。
「千速さん、すみません。今日は無理言ってしまって」
「いや、構わない。この暑さでバテても可哀そうだ」
私たちも彼女が送ってくれると知ったのはつい学期末のことで、どうやら萩原が頼み込んでいたようだ。どうせなら一緒にどうかとも誘ってみたが、翌日好きなバンドが出るフェスに行くからと断られてしまった。
荷物を乗せてから車に乗り込むと、助手席に萩原が、後部座席に桜がチョコンと身を固まらせて乗っていた。その表情の強張りたるや、この世の絶望を見たのかと思うほどだ。肩を突けば、私の顔を見て真っ先にギュウと抱き着いてきた。「美人こわい」と彼女は嘆く。言いたいことは分かる。
「ひな、先に言ってよ! 心の準備ができないから……」
「美人だとは言ったけど」
「伝わらないでしょ! もっと、女神のように美しいからサングラス掛けたほうが良いくらい言ってくんないと分からないよ……」
ぐりぐりと額を押し付ける桜に、萩原と千速は声を上げて爆笑していた。確かに彼女は清楚な風貌だし極めてはつらつとした子ではないが、元より大人しいタイプでもない。萩原の前にいると緊張して言葉少なになってしまう一面があるから、萩原からすれば新鮮だったのだと思う。
「あはは、ごめんって。私も初めて見た時は吃驚したけど……」
「なんで木原すげー面白いことになってんの?」
「はいはい。陣平くんはオヤツ食べてな」
彼が手に持っていた棒付きのアメをすぽっと口に咥えさせると、彼はムっと眉を吊り上げる。萩原と千速はまた同時に声を上げた。性格は真逆のように思っていたが、どうやら笑いのツボは同じらしい。
千速の車内で流れていたのは、私たちが子どものころに流行ったロックバンドだ。日本のバンドだが歌詞はすべて英語なので、何を言っているかは分からない。時折萩原が「お、これ好き」と零しながら笑った。
会話をしていると、自然と内容は期末テストについての流れになった。出来はどうだったか、順位はどうだったかと話すうちに、意外にも萩原の成績が中の下ほどであることを知る。
「萩原くんって頭良いと思ってた」
「マジ? 赤点じゃなきゃ良いかなあって思ってるからさ」
「ソイツに真面目とかコツコツとか言っても無駄だぜ」
ニヤと意地悪そうに陣平が言う。かくいう彼も成績は変わりないほどであったが、全体の点数に差異のない萩原とは異なり、出来不出来がキッパリと分かれるタイプのようだ。理系が得意のようで、反対に文系のテストについては「文字が汚いからって減点された」と彼は拗ねてみせた。
「そんな小学生じゃあるまいし……」
「悪かったな、小坊で」
「ていうかほぼ授業態度の問題じゃないの? 美術で成績悪いとかないでしょ」
「興味ねー授業だとやる気でねえ」
そんな様子で進学はどうするつもりなのだろう、つい苦笑が零れる。しかしこればかりは私も人のことを言えた性質ではない。何となく期末テストに向けて勉強に励むことはあれど、将来に向けて考えることなどほとんどないのだから。
「桜ちゃんはやっぱり成績良いんだね」
「あ……うん。スポーツトレーナーになりたいから進学するんだ」
彼女はそうはにかむ。その言葉に萩原は「応援するよ」と笑うが、どこか景色を眺めていた気がする。そのあとすぐに昨夜のテレビの話を始めたが、僅かな沈黙に全員がこれからのことを考えていたような――そんな気がする。陣平のことをチラと覗き見る。彼もまた、青い空を車窓からジィと見上げていた。あの雨の日に見たのと同じ、熱い眼差しであった。
◇
「海だ!」
最初に声を出したのは誰だっただろう。口々に同じことを言ったので、誰が最初だったかはさだかじゃない。ここしばらく快晴が続いていたこともあってか、海は見渡すどこまでも青く、みずみずしく日差しを反射していた。少し足を伸ばして良かった。都会に近い海では見ることのできないような澄んだ水面だ。
車から荷物を降ろす。風が吹くと潮の香りがした。相変わらず日差しは厳しく肌を焼いたが、景色が少し変わるだけでそんなことも気にならなくなった。四人で千速に礼を言い、ここから泊まる予定の旅館までは少し歩く。千速は送ってくれると言ったが、海を見て歩きたいと私たちが言ったからだ。
ガラガラと、私と桜のキャリーがタイヤを鳴らす。すでに海水浴を楽しむ人の喧騒や、移動販売車から鳴る音楽が聞こえてきていた。そんな音に胸を高鳴らせながらも、皆一心に海を眺めていた。
「マ、ッジで綺麗じゃねえ⁉」
「うん、写真で見たより綺麗! 沖縄かと思うレベル!」
「ひなは一々大げさだっつの……」
「あはは、でもめちゃ綺麗だねぇ……向こうのほうまで透けちゃいそう」
桜がグっと背伸びをして遠くを眺める。私もそちらを見渡して、波に反射した光に目を細めた。ここまで透けていたら魚まで見えそうなものだが、そういうわけでもないらしい。人が多いからだろうか。
「もうちょい磯のほう行けばいるんじゃね? カニとか」
「いや、カニいてもこっからは見えないでしょ。すっごいデカいカニじゃん」
「確かに……待て、今のは別にダジャレじゃねえから」
私がニヤっとしたのを見て、陣平が肩を軽く小突いた。わざわざ言葉で弁明するなんて、可愛いものである。怒ったように私を呼ぶ声にヘラヘラと笑いながら歩いていくと、ようやく予約した旅館と同じ名前を見つけた。
旅館自体はその看板のある坂を上がった場所にあったので、到着したのは五分ほど経ってからだ。私たちが学生だと見ると、微笑ましそうに「夏休みですか、良いですね」とオススメの海水浴場や海鮮料理屋を教えてくれた。
荷物を預けて必要な荷物を持てば、四人で顔を合わせて走り始める。あれだけ綺麗な海を見て、今すぐに遊びたかったのは全員共通なのだろう。どうせ二日あるのだからと、ひとまずは一番間近にある海水浴場へ向かった。すぐに着替えが終わると、萩原と松田はパラソルをレンタルしておいてくれるらしい。
私と桜は女子更衣室の列に並んだ。やはり女子のほうは列が長い。コインロッカーも更衣室に付属でついていたので、中に着こんでいるにしろこの列に並ばなければならなかった。桜はやけにご機嫌そうだ。ここのところ部活で予定が詰まっていたから、彼女にとっては久々の遠出なのだろう。
「ひなと水着お揃いなのすごい嬉しい」
「色違い正解だよね。あとで写真撮ろ」
海に行くと決まってから一か月、見える場所の肉は削り落としたはずだ。特にウェストにはこれでもかと時間と労力を掛けたので、報われている――と信じたい。
十分と少し、ようやく列も前に進み、水着の上に着ていた服と貴重品をロッカーにしまい込む。桜とお揃いにした水着はオフショルダーになったフレアの水着だ。セパレート型ではあるが、パンツ部分もビキニラインの出ないスカート風になっているので、ウェスト以外はあまり抵抗を感じない。桜は白で、私は黒。こうして見ると、桜の色白さが目立つなあと思った。
ビーチサンダルで砂浜を踏みしめながら歩く。隙間から細かい砂が入り込んで足の裏をザラつかせる。普段は不快に感じるような感触さえ、海だという実感の一部になった。着替えが終わったら待っていると言われた売店の前に向かう。と、肩を叩かれた。熱い指先に、自然と顔が色づくのが自分でも分かった。
「おい、先にパラソル立てて…………」
陣平の言葉が止まる。制服越しに見ているより、分厚い上半身だった。そういえばジムにもよく顔を出すと言っていたから、彼も何かスポーツをするのだろうか。
学生にしては重たそうな筋肉に目を奪われたままでいると、その上半身が赤く染まる。徐々に視線を上げれば、陣平の吊り目が揺らいでいた。口は相変わらず緩く開かれたままだ。
「あ……」
私も恥ずかしくなってきて、今日ばかりは彼を揶揄うことはできなかった。黒いチュールのシュシュで纏めた、巻き髪のポニーテイルを指で弄る。肌はきっと彼と同じ色をしていることだと思う。
無言で見つめ合うこと数秒、最早海のことすら頭の端に追いやられてしまって、何をしようなんて検討外れのことを考えていると、第三者の声で我に返る。
「うわ、ひなちゃんも桜ちゃんもカワイイね〜。お揃いにしたんだ」
どうやらパラソルとシートを設置し終えたらしい萩原がひょこりと顔を出したのだ。今度は桜が真っ赤になって私の後ろに隠れてしまったので、四分の三人が使い物にならなくなってしまった。その萩原の心情は後に察して同情した。萩原は陣平に比べると薄い体をしているものの、やはり大人っぽいと感じるのは背丈と顔つきの所為だ。
Tシャツを脱いでいると特に学生らしい特徴もないので、近くを行き交う人の視線が萩原に集まっているのが分かった。――千速がいればアイドルステージに立っているような現場が出来上がっていただろう。
「……なんで皆固まってんの」
私たちが一向に動かないものだから、萩原が不思議そうに尋ねた。私は慌てて首を振る。きっと理由など察しがついていただろうに、萩原はわざとらしくニヤけながら陣平を見て肩を竦めた。