17

君が夏を連れてきた
「女子のお二人さんは浮き輪とか使う? 一応借りてきた」
「やった、ありがとー! 私泳げないんだよね」

 萩原たちは良いのかと尋ねれば、萩原は歯を覗かせて「モチのロン」と軽くピースサインを送った。固まっている陣平に駆け寄ると、パシっと背を大きな手のひらで叩く。びくりと体を跳ねさせて「何すんだ」とすごむ陣平へ、萩原は挑発するように脛を軽く蹴る。陣平もそれに仕返しをするように肩を拳骨で殴った。

「あっちの浮きが並んでるとこまで。リョーカイ?」
「……かき氷とフランクフルトな」
「じゃあ俺はポテトと唐揚げ〜。おっしゃ、行くぜ」

 萩原は私にひょいっと浮き輪を手渡すと、パっと足を踏み出した。細かな砂が背後に跳ねる。

「あ、ずりっ」

 陣平もあとに続いて走り出した。後姿を追っていくと、彼らはそのまま海に飛び込み飛沫を立てて泳いでいく。最初は腕が長いぶんもあってか萩原がだいぶ速かったが、少しずつ陣平が追いついていく。先に浮きに触ったのは――彼らには申し訳ないが、ここからでは判別がつかなかった。

「桜、見えた?」

 尋ねると彼女もふるふると首を横に振った。私は呆れながら彼女にピンクの浮き輪を手渡して、もう少し浅瀬で二人で遊ぶことにする。アイツら、何のために女子と来てるんだか。
 遠くから見た通りの澄んだ水面は、足を踏み入れると少し不思議な気分だ。さく、さくと足先が砂に沈むのが分かる。「わは」、と浮かれた声が零れてしまった。真夏ということもあってか水温は低くなかったと思うが、それでも暑さにゆだっていた体にじんわりと心地よさを滲ませる。フレアになっている腕の布地が水を吸って、少し重たかった。

「すごお……。めっちゃ気持ちいい〜」
「ひな、浮かんでると流されちゃうよ」
「まぶしっ。浮かぶながらサングラス持ってこれば良かったね」

 足を離して浮き輪に後頭部をつけると、つんざくような日差しが目の奥をバチバチと刺していく。私は僅かに顔を顰め、桜が頭を通している浮き輪を少し蹴ってやった。彼女は一瞬驚いたように声を上げたが、すぐ楽しそうにキャアキャアと私の浮き輪を同じように突き放す。その腕に浮き輪を思うように回されて、私も声を上げて笑った。

 青空を跳ね返した水面は、波紋を立てると白い光を灯した。魚の鱗みたいに、角度を変えればキラキラと輝くのが美しい。足先をちらっと揺らすと、水の中にある自分の足がやけに綺麗なものにも見えた。オレンジに塗られた足の爪が、本当に魚の群れみたいだ。
 小さく笑いながらつま先をパラパラと動かしてみる。昔見た人魚の映画でも、人間になった時にこんな風に足を動かしていたっけか。ぎゅむり、浮き輪のゴムに頬をつけて水面を眺めていたら、背後からバシャンと大きな水音がした。
 驚いて振り返ろうとした拍子に足が地面につけないことに気づき。「うわ!」、大きな声をだしてしまった。浮き輪の傾きが、ぐっと後ろに向く。なんとか視線を背後に向けると、ニコっと愛想の良い笑顔が浮き輪に乗っかっていた。

「び、っくりした〜。萩原くんかあ」
「吃驚させちゃった? ぼーっとしてたみたいだからさ。流されちゃうよ」
「うわ、本当だ。沖のほう来ちゃってたんだね」

 浅瀬で遊んでいたつもりだったが、ぼうっと海ばかり眺めていた所為でいつのまにか深いところまで来てしまったようだ。慌てて確認すると、桜が心配そうにこちらを眺めているのが見えた。私は慌ててひらひらと手を振る。彼女が最初に忠告してくれていたのに。

「ひなちゃんって意外とぼんやりしてるよなあ〜」

 可笑しそうに笑いながら、彼は私の浮き輪を押しながら浅瀬のほうへと誘導してくれる。大きな手で桜の方に手を振る萩原に、私はちらりと尋ねてみた。

「萩原くんは、今彼女いないの?」
「……いないねえ。てか、いたら皆でご飯食ってねえって」
「確かに……じゃあさ、気になる子とかは」

 ぱっと顔を振り向かせると、濡れた黒髪を軽く掻き上げながら萩原はニコニコと笑った。しっかりとした鼻頭が、横から見ると際立つ。彼はその笑顔を崩さないまま、目を細めて小さく息をつく。本当に私たちと同じ高校生なのか――そう思わせるような、やけに落ち着いた表情だった。彼の瞳もまた、陣平と同じように光をよく跳ねるような輝きを見せる不思議な色だ。

「桜ちゃんのことだろ」

 彼は決して咎めるような声色ではなく、柔らかくそう言った。
 私は驚いた。確かに敏い男だとは思っていたが、同じように空気を読む男でもあったからだ。人が聞かれたくないことを、わざわざ踏み入れるようなことをしない性格をしていた。

「……ごめんね。知らねえフリしてあげて」
「やっぱり、友達としか見れない?」

 それが遠まわしな拒絶だと分かり、私は控えめに尋ねた。
 人は噂する。彼は来るもの拒まず、去るもの追わずの男であると。事実彼女が変わったという報告を、桜から何度受けていただろうか。そして、彼女はそのたびに「萩原くんは優しい人だからなあ」と零していた。
 今なら、なんとなくその意味が分かる気もする。
 そして今彼女の好意を見ないフリをしたいというのも、友達想いな彼なら分かるような気もする。しかし同時に残酷な優しさだとも思った。私の問いかけに、萩原は「うーん」といつものようにおちゃらけた態度で悩んだ。

「いーや、けっこー好みだったりする。良いかも〜って思うことも正直あるね」
「じゃあ良いじゃん。桜、結構真剣に萩原くんのこと好きだと思う」
 
 ――さすがに私の傲慢であっただろうか。
 だが、桜のことも萩原のことも私は友人として好きだったのだ。萩原が背を押してくれたように、私も彼らの助けになりたいのだと思っていた。しかし萩原はゆるく首を振って、静かに「駄目」と零した。
「――俺なあ」
 真剣みを増した、いつもよりワントーン低い声色が零した。私が振り返ろうとしたら、後頭部を軽く押さえられる。振り向かないでと、指先の熱が語った。

「ひなちゃんが好き」
「……は?」
「桜ちゃんのことも、好き。だけどさあ」

 ホ、と息をついた。突然の告白に驚いてしまった。人間と好きだということだろう。彼は息を吸い込んで、どこか震えるような、縋るような声で言う。

「――松田のことが、すげえ大事なんだよなあ」

 静かに、一度頷く。彼が桜と付き合わないという理由と、私の頭の中では上手く一致していなかった。カモメが鳴く。波の音が、ザザ、ザザンと沈黙を揺らした。

「……大事な人のこと、これ以上傷つけたくねえんだよ」

 呟く彼の声に、やはり私が納得できる理由はなかった。だが彼の声色は真剣そのもので、理由さえ分からないが譲れない何かがあるということだけは分かる。私は静かに「そっか」と相槌を打つしかなかった。
 私だって、桜が好きだし、彼らのことも好きで大切だ。
 桜の好意を知っていて、萩原なりに考えた答えなのだから、これ以上踏み込むことはできなかった。我ながら、沈んだ声色を出してしまったのだろう。萩原は慌てたように腕を浮き輪に乗せて、私の隣に移動する。

「マ、あれよ。俺たちの中で別れた〜とか、ぐちゃぐちゃしたくないっしょ」
「私と陣平くん付き合ってるけど……」
「それは別! 俺がどんだけ苦労して……」

 苦労して、の後に彼は口を噤んだ。表情には見るからにまずったという苦そうな表情が浮かぶ。その先の言葉が分からなかったが、そんな彼も珍しく、私はニヤリとした。

「苦労して……何さあ」
「アハハ……。お、見て。陣平ちゃんが食べ物に埋もれてるぅ」

 また冗談を、と思いながら指さすほうへ視線を向ければ、確かに一人で腕に取りこぼしそうなフランクフルトやポテトやらを抱えたシルエットが見える。私はそれを見て思い切り笑ってしまった。

「あっははは! 萩原くん勝ったんだ!」
「トーゼン! ああ、でも桜ちゃんが手伝いに行っちゃった。俺らも行こうか」

 そう言われて、私たちがだいぶ浅瀬まで戻ってきたことに気づいた。私も快く頷き、浜辺で待つ彼らのもとに駆けていく。陣平は萩原が戻ってきたのを見るなり、「こんにゃろ」と忌々しそうに睨み上げた。

「奢るたあ言ったけど、全部持つなんて言ってねえ!」
「そうだっけ? まあまあ、美味いモン食って落ち着きなあ」

 彼はスルリと抱えたポテトバケツから一本抜くと、やいやいと文句を言いっぱなしの口元へ投げ入れた。まだ恨めしそうな顔をしながらも、モグモグと大人しく咀嚼する姿に私も桜も笑っていた。

 その後は四人でパラソルの下に戻り、陣平に礼を言いながら腹ごなしだ。浮きの向こう側は魚がいたと二人が言うものだから、後で連れて行ってとお願いした。陣平が「泳げねえのかよ」と笑うので、その後五分ほどツンと拗ねてみせた。

 それを見かねたのだろう。
 彼は熱い手でぐっと私の手首を掴み、引いた。ぐんぐんと砂浜の上を歩きながら海辺に連れてくると、ぶっきらぼうに鼻を鳴らした。

「いかねえの」

 と沖のほうを指す彼に、私は笑う。相変わらずこういうことは口下手なのだ。拗ねた気持ちなどクルっとひっくり返ってしまって、私は元気よく「行く!」と返事をした。彼の口角も、僅かに持ち上がっていたように見えた。
 彼が浮き輪を引いて連れて行ってくれたピアフロートに登ると、確かに少し遠くにキラキラと光るものが見えた。ぽたぽたと滴る雫がプラスチックの地面を濡らしていく。日差しがキツく肌を刺して、見るものすべてをホワイトアウトさせた。

「……ほんとだ」

 自然と口元が綻んでいたと思う。
 浮き輪を置いて、こっそりと足を下ろしてみた。潮のにおいがする。風は強く、私の髪を撫でつけた。整えた甲斐もなくボサボサになった頭だが、どうでも良いことのように感じる。ちらりと足元を過ぎった影に、胸が高鳴った。

「ほんとだ! 見て、陣平くん」

 振り返ってそう笑いかけると、彼の頬もゆるりと綻んでいるのを見た。それはあまりに穏やかで、私の知る笑顔とは少し離れていて、思わず顔を赤くして口を噤んでしまった。下唇をキュウと小さくする私に、彼は可笑しそうに吊りあがった眉をもっと吊り上げていく。鳥を見つめる猫みたいに、目がキュっと大きくなった。

「機嫌直ったかよ」
「……べっつに、理由なく不機嫌だったワケじゃないもん」
「そんなにカナヅチがイヤ?」
「嫌って言うか……馬鹿にするからでしょ」

 ふん、と一度は口を尖らせて見るも、目の前の海を眺めるとそんな気持ちも晴れてしまう。空の青ささえいつも都会で見るものとは異なる気がして惚れ惚れとした。陣平の瞳も、空の色を映すようにキラリと輝いたように見える。
 惚れた弱みだろうか、別にイカした言動一つ取っていないというのに、その横顔に見惚れてしまうのは。

「さっき萩原くんがさ、陣平くんのコト惚気てた」
「ハ、急に気持ち悪いこと言うな!」
「良いじゃん。仲良いんでしょ? ……それに、ケッコー真面目に言ってたと思うし」

 げぇ、とうんざりしたように舌を出した彼に笑いながらそう言えば、彼は鼻を一度鳴らした。軽く狭い額を掻いて、ふうんと軽く相槌を打った。恐らく、彼の萩原への照れ隠しだ。
 暫くそうしていたかったが、昼中ということもあり日差しが厳しくなってきた。タオルか何かを持ってこれば良かったと考えていたら、陣平が行くかと手を差し伸べる。それをすんなり受け取るには、この場所に後ろ髪を引かれてしまっていた。

「んなに海が好きか?」
「超好きってワケじゃなかったけど、好きになったかも。こんな綺麗なの見たことないや」
「そりゃ、安上りでケッコー。沖縄とか行ったらどうなっちまうの」
「綺麗だったら永住希望かも〜」

 あははと冗談めかして笑った。もちろん、沖縄に永住する気などない。そりゃあ景色を観たい想いこそあれど、出かけたいときには不便そうだし――そう思ってしまうのは、趣きのない発想か。

「ふーん。良いな、ソレ」

 だから、彼がそう笑ったのが意外だった。恐らく特に考えこまずにサラリと返したのだと思う。口は素直ではないが、嘘はあまりつかない青年だから本心だろう。

「陣平くんはさ……」
 ぽつり、声が口裏を突いて零れる。
 彼の生意気そうな目つきが私を捉えて、ハっと首を振った。

「ううん、なんでもない。すっごい暑い……戻ろうか」
「なんだそれ。まあ、泊まりだろ? 旅館も近かったし、あとでも来れる」
「でも一人じゃ来れないし」

 きょとんとしてそう呟くと、陣平もきょとんとしながら私を見た。ハァ、と呆れたように彼の口元が歪んでいくのが分かる。陣平は口を歪めて長ったらしいため息をついてから、少しばかり頬を赤くして、しかしニっと歯を見せ清々しく笑んだ。

「連れてくっから。また明日の朝来ようぜ」

 ふと空が翳った。夏らしい真っ白な雲が、一瞬太陽を覆ったのだ。そのおかげで鮮明に見えた彼の笑顔に、私も静かに頷く。波の音は、いつのまにか止んでいた。




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Shhh...