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 淹れた紅茶を、運んできたトレイに乗せて客間へ戻った。
 雰囲気のある洋館は夜になると、少しだけ不気味だ。広い住宅なので、細かいところには埃が積もっているのが、やけにらしくて=A私はやや早足になる。家のどこかから、時計の鐘がボォンと鳴った。
 客室から漏れる煌々とした灯りに、駆けこむように走った。乗せたティーカップがカチャカチャと揺れる。
「沖矢さん」
 ――その名前を呼んで、私はハっと口を噤んだ。私の論文にペン先を滲ませたまま、その涼やかな顔がコクコクと船を漕いでいたからだ。試しに目の前に掌を翳してみると、スースーと静かな寝息を感じる。
 足音を忍ばせ、向かい側に腰掛ける。青いペンは紙の上にミミズを這わせていて、そっとそれを抜くとキャップを閉めておいた。
 
 そりゃあ、「院生は時間を持て余していて」と受け入れてくれたわけだが、ただ暇なわけではないだろう。彼は彼なりの生活があるのだ。悪いことをしたかなあ、少し心配になった。大きく窪んだアイホールは、心なしか沖矢の顔つきを益々疲弊させて見せる。薄く開いた唇に、つい視線が向いてしまう。――かさついて、固そうだ。輪郭にしては、小ぶりの口。色っぽい、と思うのは、やっぱり下心だろうか。

 
 沖矢のことを、どう思っているのかは自分でもよく分からない。
 彼に優しくされると嬉しいし、私の中では特別だ。憧れ――という感情が正しいのかもしれないが、ただ、彼にドキリとさせられるのも確かだった。
 梓の言う通り、私がこれ以上の感情がないのならば、このままで良いのかもしれないが。逆に言えば、本当に好きだとなったら、私は彼に告げることができるのか。それを考えるのには、少しばかり臆病風が吹く。

「……今は何いってもなあ」
 しょうがないか、と彼の添削してくれたノートに目を通す。警察になりたい――といったのは、嘘じゃない。
 助けを求める誰かを助けられる人になりたい。助けられるだけの力がほしい。沖矢が背を貸してくれたように、守ってくれたように。ユキが、そうしてくれたように。理不尽な恐怖に晒されている人が、一夜でも健やかに眠れる夜を作りたいと思う。
 ずっと燻っていたそれを沖矢に告げたのは――きっと、私の中でそれほど彼の存在が大きくなっていたのだと、思う。だからこそ、自分の言葉を裏切らないよう、受験対策に励むしかないのだ。

 
 古めかしい飾り時計が、コチコチと音を立てながら時を刻んだ。リビングに戻ってきてから三十分近くが経つ。紅茶も大分冷めてしまって、口をつけるとぬるい香りが抜けていく。

 かちゃ、とティーカップが音を立てた――それが耳をついたのか、沖矢の眉間に浅く皺が寄る。起こしたかな、とその表情を覗き見ると、ゆったり瞼が持ち上がった。グリーンの瞳は、急に外の灯りを浴びてキュウ、と瞳孔を小さくした。そこまで鮮明に見えるほど、澄んだ色合いだった。

 はっとしたように顔を持ち上げた彼は、小さく何かをぼやいた。殆ど寝ぼけた、ぼそりとした囁き。寝起きで声も掠れていて、上手くは聞き取れなかった。

「――」

 聞き取れなかったが――それが、人名であることはわかった。私の名前ではない。多分だが、イントネーションとしては女性の名前に感じる。『〜美』のような、そういう風に聞こえたからだ。
 違ったかもしれない、合っているかもしれない。
 ただ、私にとってそのぼやきよりも、翡翠の瞳にじわっと涙の膜が浮かぶのが見て取れたことが、衝撃だった。眼球の表面がみるみるうちに水の膜を張り、揺らぐ。あの日、灯りに照らされた時に泣いているようだと感じた、その瞳にそっくりだった。
 
「沖矢、さん」

 彼は私の声を聞くと、ハっとして眼鏡を外し、眉間をぎゅうと押さえる。二、三度瞬くと、軽くかぶりを振る。まだ、涙の膜がオレンジを帯びたランプに照らされて煌めいていた。

 ――どうして泣いているんですか。
 そう問いかけるには、彼の張り付けた笑顔には壁があった。「すみません、少しウトウトしてしまって」、笑った声は掠れていた。

 大切な人なのだろうか。その、誰かは。
 嫉妬ではなかった。彼が涙を零すほど大切な人なのだ。沖矢はぬるい紅茶を流し込む。
「美味しいです、ありがとう」
 美味しくなんてないはずだ。とっくに冷めきった紅茶、きっと先ほど沖矢が雑に淹れた紅茶のほうが、よっぽど美味しかった。
 理由はよく分からない。しかし、沖矢もまた傷ついているのだ。だって、その涙を、表情を、声を聞けば、私だって読み取れるくらいのポーカーフェイスだった。

 どうしてか、私も少し泣きそうになった。いつも私の横で笑って、冷静で、頼りになって――そんな沖矢の見たことのない一面に、心がギュウと絞られるような気持だった。沖矢は、私のほうを見ると、よれたシャツの襟を直す。
「どうして、君が泣く?」
「……分かりません」
「――弱った、僕は君に泣かれるのが苦手です」
 大きな手が、私の方に伸ばされる。太くかさついた指先、皮膚が厚いのが触れるとわかった。目元を、その親指がするっと撫でる。涙が零れてはいなかったけれど、拭うような仕草だった。

「君は何がしたい」
 
 言葉とは裏腹に、優しい声色だった。すり、すり、と何度かあやすように、目元や頬を親指が往復する。

「恋人になりたいなら、抱きましょうか」
「ち、がいます」
「なら、カウンセラー?」
「ちがう」

 それが、彼の表面的な言葉だと、何故だか今は分かる気がした。それほど時間が経っているわけではないが、今は沖矢昴という男のことを、直感的に理解できた。
「別に、何になりたいわけではなくて……」
「なら、どうして泣く。貴女とは何も関係のない、僕を見て」
「何かになりたいわけではなくて、私は、沖矢さんが」
 ――なんだろう、心配? 同情? 何をとってもしっくりとこない。

「……沖矢さんにも、幸せになってほしい」

 頬を撫でる手に、ゆっくりと手を重ねる。チープな言葉だった。だが、それしか浮かばない。私が、ではない。沖矢が、そうであってほしい。
 コッチン、コッチン、秒針の音が妙にゆったりと聞こえる。沖矢は、こちらを見つめる。珍しいと思った。何も言葉のない時間が続く。


「――すみません。冗談です」


 沖矢は重ねた手を振り払うように引いた。冷たい手だった。私も荷物を纏めて、にこりと笑う。いらないことを言ったかと、後悔した。もう、会ってくれないとも思った。彼のクツクツとした笑い声、きざったらしい語り口調、それらを見るのが最後だったと思うと、名残惜しい。

 古めかしい廊下を歩く。暗い廊下に電気を灯して、彼は玄関まで見送ってくれた。では、と私は少し寂しく笑う。
 ――しかし、沖矢は確かに言うのだ。

「また木曜日」

 ――そう、笑う。それが私には、幸せにしてくれと、救いを求めるサインに見えて仕方がなかったのだ。