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 毎週木曜日、彼は変わらずに私を招き入れてくれる。
 あれ以来転寝することはなかったけれど、冗談めかして笑うことだって、前のように優しく微笑むことも全て元通りだ。ただ、勉学に関しては甘くなく、一週間にしては多すぎる課題量を出されることもしばしば。時折眠たそうにしていると柔和な口調で叱られた。

 あのとき、誰のことを思い出していたんですか。
 
 とは、尋ねることはできない。多分、私には一生無理だ。私だって、ユキのことに触れられたら動揺するし、その言葉次第では心の底から軽蔑するだろう。沖矢が涙を流すほど、夢に見るほど大切な人。
『そういう人を嫌いになれないのは、性なのかもしれません』
 そう、懐かしんだ言葉を思い出す。今日は、雨が降っていた。ふうと軽く息をついて傘を持ってから、忘れ物に気づいて一度キッチンまで戻る。ユキの月命日だった。





 ユキは東都生まれの東都育ちだったので、彼女の墓まではさして遠くない。私の実家の近く、少しだけ高台にある。雨が降っていたので綺麗に洗うことはできなかったけれど、恐らく両親が供えたのであろう果物の横に花を活けておく。この雨なら、すぐに干からびることはないだろう。また一週間ほどしたら取り換えに来ようと思った。

 ――私ね、警察学校を受験するんだよ。

 手を合わせながら、彼女に話しかける。多分、ユキは少し驚くけど、手を打って「良いと思う」と笑うはずだ。彼女の笑顔が想像できて、私は少しだけほほ笑んだ。ユキは何になるつもりだったのだろう。福祉系の大学だったけれど、彼女は賢かったし、色々な未来があったと思う。何なら、彼女がミステリー作家になったり――そんなことも有り得たかもしれない。

 考えているうちに悲しくなってきて、強まってきた雨足にふるふると首を振った。雨が地面のコンクリートを激しく打って、跳ねた水滴がスカートを濡らした。雷が遠くで唸るように鳴る。実家に寄って、着替えてから帰ろうか。この後はバイトがある。今日は安室が非番なので、ラストタイムまで入っているはずだ。

 くる、と踵を返す。激しい雨で、目の前は白い雨筋がカーテンのように雪崩れていて、視界が悪かった。その白い筋の向こう側に、ぼんやりと人影が見える。こんな時頃に墓参りか――自分が言えた性質ではないが、きっとよほど大切な人なのだろう。
 邪魔してはいけないと思い、その人影から離れるように、来た時とは少し違うルートで帰ることにした。足元にぴょこぴょこと跳ねる蛙を踏んでしまいそうで、恐る恐ると歩いた。雨だから今日は走りこみができていない、体力をつけたいから、地元まで歩くのもありか――。


「ちょっと!!」

 
 急にガシ、と二の腕あたりを掴まれて、私はヒュっと息を呑む。本来だったら不審者と直面したら逃げるのが先決だろうが、腕を掴まれたものは仕方がない。幸い傘を持っていたので、それで距離を取ろうと後ろに向かって振り回した時――片足が何かを踏み外した。見えていなかったが、大きな石段の段差だ。ずる、と雨で滑りやすいツルツルとした石に、もう片足も踏ん張りがきかなかった。
「わ、」
 そのまま引っ繰り返りそうになったのを、私の二の腕を掴んでいた手がぐっと引き戻した。私のものではない、透明なビニール傘が、私のかわりに階段を転げていく。

 ザアー、と遮るものをなくした雨粒が容赦なく体を打った。視界も髪も、ぐしゃぐしゃにしていく。男のものらしい大きな手が、私をそちらに引き寄せた。ようやく自分が無意識に足を踏み外すところだったという事実に気づき、慌てて頭を下げる。

「すみません! あの、助けてもらったのに」
「いえ。怪我がなくて良かった」

 ほほ笑むような声には聞き覚えがあった。ぱっと顔をあげると、雨雲と同じような色の瞳が濡れた金髪から覗き、ニコっと笑う。「安室さん」私はつい、そう名前を呼んだ。シャツとグレーのスラックスを履いていたので、顔を見上げるまで彼だと気づかなかった。
「本当にごめんなさい。その、ちょっとボーっとしてて……」
「わざわざ人がいない方から帰ろうとしてくれたんでしょう」
 どうやら、安室はこちらに気づいていたようだ。ぐっしょりと濡れたシャツが、彼の腕を透かした。小麦色の肌は白いシャツにはよく目立つ。私は地面に落ちた自分の傘を拾うと、彼のほうへ差し出した。二人入るには小さい、レディース用の傘だ。
「あのぉ、僕は」
「私の実家、すぐそこですから。車は近くですか?」
 尋ねると、彼はふるふると首を振った。なら、尚更だ。私は濡れた腕を掴んだ。
「なら、行きましょう。風邪引きますし、私明日から安室さんに頭が上がらなくなっちゃう」
 そういうと、彼はやや遠慮がちに「では」と笑った。傘をさすと互いの声が聞こえづらいくらいに、雨粒は大きい。






 安室にタオルと、出張でいない父の着替えを渡し、もとの服は乾燥機に掛けておいた。手で軽く絞っただけでぼたぼたと重たく足元を濡らすくらい水を吸っていて、本当に申し訳ないと思う。
 安室が淹れるコーヒーは絶品なことを知っているので、少し恥ずかしくて、飲み物は日本茶にしておいた。飲み物を持ってリビングへ向かうと、父の服をブランド物かのように着こなした安室がソファに座っている。
「すみません、飲み物まで」
「先に助けてもらったのはこっちなので。さっきは本当にすみません」
 頭を深々と下げると、安室はクスクスと上品そうに笑った。
 邪魔をしないように避けたつもりなのに、結局一層邪魔になっている。彼は気にしない風でいてくれるけれど、迷惑だったのは確かだろう。安室は似つかわしくない湯呑に口をつけると、部屋をぐるりと見渡した。

「ご両親は、まだお仕事を?」
「そうですね。父は出張中ですし、母もまだ働いています。いたら、とことんどやされていたと思いますが……」
「あはは。元気なお母さんなんですね」

 安室はこちらの苦笑いを察するように、肩を軽く竦めて笑う。

 安室の整った顔は、パっと華やぐような雰囲気があって、店に来る客や道行く人が色めくのも分かる気がした。私からしたら沖矢も相当綺麗で整っているのだが、身長もあってかどちらかというと知的で近寄りがたい雰囲気があり、安室に比べると華やかな方ではない。事実、彼がキャアキャアと言われるのを見たことはなかった。
 あまり意識したことはなかったが、バイト先では向かいに座ることなど殆どなかったので、まじまじ見ると緊張してきた。はたしてこんなに芸能人のような見た目だったか。

「……ご友人ですか」

 ――彼はふと声を出し、それからすぐにニコと笑って「やっぱり忘れて」と口を噤んだ。どうやら、私の墓参りのことを言ったらしい。そうか、両親が二人とも生きているとわかったからだ。兄弟だとは思わなかったのは、彼に歳の離れた父の服を貸したからだろう。
 
 安室はなんでもないように笑ったけれど、いつもよりも声に張りがなかった。まるで今尋ねたことを後悔しているようだ。気まずそうな笑顔に、私は「そうですね」と頷いた。

「昔からの幼馴染なんです。私と同い年の、女の子」
「――そうでしたか。すみません、不躾に聞きました」
「大丈夫です。もう、話せるようになりましたから」

 さすがに殺人事件だということは言葉にしなかったが、少しだけ昔話をした。彼女はミステリー小説が好きな、私とは真逆で明るく活発な女の子だったこと。彼女の実家はすぐ向かいにあって、昔からよく遊んだのだということ。内気な私の手を引く彼女は、いつも色々なことを私に教えてくれたこと。

「今日は月命日だったので……こんな雨になっちゃいましたけど」
「高槻さんは――」

 安室は、まだ湿った金髪を揺らした。「思ったよりも強い人だな」と、どこか他人事のように言った。そんなことはないのだ。昔に比べて強くなれた気がするのなら、それはきっと――脳裏に、沖矢の姿が思い浮かんで、私は照れ臭く笑った。
 乾燥機が回りおえるまで、他愛のない話を交わした。――雨の降りすさぶ、十一月の頭のことだった。