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 藤峰有希子――。画面の向こう側で何度も繰り返し眺めた、私の青春である。昔から親がコレクションした映画やドラマを観ることが好きだった私は、趣味の時間のほとんどを彼女の出演作品に費やしていたといっても過言じゃあない。
 ユキと仲良くなったのも、彼女が工藤優作の『闇の男爵』の大ファンであったことがキッカケだった。

 まじまじと、ご機嫌に上向きになっている唇を眺める。確か、芸能界を引退したのが彼女が二十の頃。それから十七年は経っているはずだから――今は三十七歳か。立ち振る舞いは女性らしいが、風貌だけ見ればとても三十過ぎには見えない。可愛らしく瞬く瞼は、その長いまつげが音を鳴らしそうだし、肌には荒れやシミの一つも見当たらない。何より、私よりもよっぽどクッキリとしたプロポーション――確か、子どもがいるだとか聞いたことがあるが、こうして目の前にすると信じられない。

 ぼんやりとその姿を、まるで液晶越しのような気持ちで眺めていたら、その可愛らしい顔つきがこちらを見てニッコリと笑った。

「……?」

 私は曖昧に、しかし笑顔を向けられれば反射的に笑顔を浮かべた。綺麗に手入れをされた指先がこちらに伸びる。「え、え」と挙動不審になる私に忍び寄る影は、がっしりと肩を捕まえた。





「いやいやいや、これは無理です……お願いです、後生です……!!」
「なーに言ってるのよ。まだ若いんだから、バンバン行っちゃいなさい! バンバンと!」
「せめて沖矢さんの前にだけは……、沖矢さんだけは……」

 私は柔らかなカーペットの上を引きずられるようにしてリビングへ向かっていた。拒否の意を示してぶんぶんと首を振るのだが、有希子はニコニコと、そんな細腕のどこにあるのかという力で私の腕を引く。母は強し、とはよく言ったものだ。

 有希子は私の顔を丁寧にウォータークレンジングで拭き取り、あまり詳しくない私でも知っているようなデパートのコスメをがちゃがちゃと鳴らして、みるみるうちに私の顔を彩った。元は「はっきりしない」と言われがちな地味な顔つきが、パっと血色良く、下品にはならない程度に強調されていた。

 それは良い、それは良いのだ。あの天下の藤峰有希子に化粧をしてもらえる日がくるなんて、と感動したし、現に私の顔が以前よりも華やいだような印象になっているのは確かだった。その腕には、安室に続き心から感心した。

 だが、途中で興に乗ったらしい有希子が「私が若い時の服が残ってるのよ〜」だなんて言い出すから! クローゼットからピチピチのミニタイトを持ちだした彼女の笑顔は忘れられない。
 確かに年齢的には同じ頃に着てたのかもしれないが、彼女は伝説の大女優だ。とてもじゃないが、二十歳を越してこんなふうに脚を出したことはないし、メリハリのない私の体では服が貧相に見えるだけである。

 昨日ようやく気付いた自分の中の恋心――、それがこの一瞬で撃沈する可能性がある。それだけは避けたい。まるで散歩の途中に歩くのを拒否する柴犬。そんなふうにズリズリと歩くことを拒んでいると、がちゃりとリビングのドアが開いた。

 彼は確かに私の姿を眺めて、長い指を曲げて口元に当てる。

「着替えましょうか」
「……あ、その、すみません」
「いえ、どうにも目のやり場に困るものですから」

 お似合いですよ、と柔らかな声色で微笑む。世辞であったとしても、そうでなかったとしても、私はそれが嬉しかった。顔に血が集まるのを誤魔化すように、有希子のほうを振り向く。彼女はどうやら納得いっていないようだった。

「えぇ、似合ってるんだし良いじゃない」
「僕以外の男が寄ってきても困るので」
「まあ、それもそっか……。よし、じゃあ清楚系で行きましょうか」

 そうと決まれば、と私の肩を掴み、再び大きなクローゼットへと向かった。





「はい、お待たせ〜! ちゃんと日付超える前には帰ってくるのよん」

 ――有希子が、そう私の体を押し出したのが昼に差し掛かる頃。バイトが十七時から入っていたので、まだ少し時間がある。ふと視線を上げると、どうやら沖矢も出かけるようで、ストライプのシャツに暖かそうな暖色のジャケットを着ていた。腕には、彼が出会った頃からよく着けていた時計が巻かれている。
 
 はてと首を傾げる。これではまるで、私と出かけるみたいじゃないだろうか。有希子から借りたショートブーツに踵を入れていると、先に革靴を履いた沖矢が大きな手をこちらに差し出した。

「行きましょうか」

 にこやかに、然もことも無げにそう言うものだから、私は「へ」と間抜けに声を漏らした。彼と話したいことが多くあったのは確かだ。安室のことも、昨夜のことも――しっかりと話したいと思っていた。
 私の困惑をよそに、沖矢はただ笑みを深くする。いつまでも立ち尽くすわけにもいかず、その手を控えめに取った。つん、と指先がその手に触れた瞬間、彼は指を絡めとるようにして私の手を包む。

「あの、どこに……?」
「――静かなところです」

 沖矢は、微笑みながらそう告げた。
 彼の秘密主義は今に始まったことじゃないけれど、なんだか今日は無性にドキドキとする。繋いだ手を引かれる。車に乗っている空間にも、彼の匂いがした。いつもより、少しだけお酒の匂いを強く感じる。

 車が泊まったのは、市の小さな美術館だった。それほど大きくもない場所だったが、今特別展示されている作者が有名な人で、客の足並みもそこそこだ。ミニスカタイトじゃなくて良かったと、心から思った瞬間だ。

 代わりに着せてもらったチェックのロングプリーツは、造りが良いのか私がくるりと踵を返すたびに綺麗に翻る。時折窓に映る自分は、綺麗な洋服と、いつもよりも少しラメ感の多い華やかな化粧で、どこか大人っぽく見えた。深みのあるブラウンリップが、艶やかにライトを浴びている。

 沖矢は、自分から美術館に来た割には、作品に然したる興味がないように見えた。
 見た目は、パンフレットの一風景のように美術館に溶け込んでいるのに――視線だけは、ことあるごとに喫煙所のマークを追っているので、私は思わず笑ってしまった。

「吸ってきても良いですよ」
「……いえ、失礼しました。今日は煙草を持ってきてないんですよ」
「そうなんですか」
「昨夜吸い尽くしてしまいまして」

 と、彼は苦笑いを浮かべて口元をなぞった。吸い殻だらけの灰皿を思い出す。そういえば、彼の口の中も、ずいぶん苦く感じたような――。

 そこまで思い出して、どくどくと動悸が五月蠅く鳴った。いや、彼もずいぶん酔っぱらっていたようだった。私も彼も、いい大人だ。あんな感情と勢いだけのキスを、意識するようなことは――ある。全然ある。というか、今になって自分のしたことがとんでもなく恥ずかしい。

 もちろん、彼を大切に想うことは本心だが、それとこれは話が別だ。

 気づけば私も彼の動きを真似るように唇をなぞっていた。はっとしたのは、彼がじっとこちらを見つめていたからだ。指と彼を一瞥して、二人で少し破顔した。ふっと声を漏らすと、周囲の視線がこちらを刺したので、小さく咳ばらいをした。


 彼のコツンコツンという落ち着いた足音に耳を委ねて歩いた。ふと、一つ空間が抜ける。少しだけ大きな白い壁には、どうやら宗教画のような、大きなキャンバスがあった。とても人が描いたとは思えない、人の背丈を優に超す大きさのものだ。その中に描かれているのは、女神のような、慈しみ深い笑みでこちらを見下ろしていた。

「――百花さん」

 沖矢は、ふと私を呼んだ。
 そして、振り向いた私の顔を眺めて、少しだけ笑った。そして、ぽつぽつとその落ち着いた低い声が語る。

「僕には、君に言えないことが多くあります。この先――どれだけ親しくなっても、僕が僕である限り、それを告げることはできないかもしれません」

 彼が、秘密だと言葉にするのは初めてのことだった。それはまるで、目の前の絵画に懺悔するような。レンズの奥の瞳が、薄くキャンバスを見上げる。

「ただ、今から二つだけ真実を言います。これは、僕のなかで曲がることのない事実です」

 コツン。冷たい音が部屋に反響していく。彼はくるりと振り向くと、私のことを只管に真っすぐ見つめた。


「一つ、あの時――最初に出会った時。君の推理の手助けをしたのは、僕ではありません」
「……え?」
「否定をしなかったのは、それが僕にとって都合がよかったからです」

 あの時――それは、ユキが殺されたときのことだ。私の声を借りて、誰かが私の代わりに慎也を追い詰めた、その時のことだ。私の体の奥で、嫌な軋みが鳴った。それが心臓の音と気づくのには時間が掛かった。

 沖矢は私の動揺などすべて見透かしたような表情で、人差し指を立てていた手にもう一本、中指を立てた。

 そして、沖矢は笑った。それは偽りの欠片を見せない、いつもよりも少しだけニヒルにも見える表情。

「……助けると言ってくれて、ありがとう」

 まるで、別人だ。先ほどの言葉が今までの沖矢の言葉だとしたら、今の彼は――もう一つ、彼の中にある人格のような。片方の口角をほんのりと持ち上げる笑い方に、私は感情が困惑した。

 今の、ドキドキと鳴る鼓動の音は――彼を好きという想いからなのか。それとも、その真実に絶望しているのか。よく分からなくなってしまっていた。けれど、私はなぜか彼のことを嫌いにはなれない。なぜか、その一瞬垣間見えた、彼の弱さのようなものを――私は、好きだと感じてしまっていた。


 ――彼が、もしこの言葉を警告として使ったのならば、私には既に手遅れのような気がした。