37


「私は……」

 ぽつりと、唇をくっつけると、いつもとは違うリップの味がした。
 大きなキャンバスの前には、幾組からのカップルや夫婦が思い思いの感情でその聖母画を見上げている。私たちは、そのたった一組だった。誰もが、声を潜めて、目の前の相手にだけ聞こえるような声量で話す中、感情が高ぶった私の声は、少しだけ飛びぬけていたように思う。

「以前言ったことを覆すつもりはありません」

 目の前にいる、沖矢の手を取った。
 優男らしい風貌には似つかわしくない、厳つく皮の厚い指先。普通の人よりも、少しだけ深爪気味だ。

「罪人であることと――、罪人に救いがないことは、関係ないんです。沖矢さんに後ろめたいことがある事実を知って、今更引き下がる気には、なれないんです」

 そうだ、私はこれを最初から知っていた。最初から――ユキに助けてもらった時から、彼女に教えてもらったのだった。今まで与えられるばかりで、それを抱いたことはなかったけれど、それが答えなのだ。


「人を殺す正当な理由などないけれど、助けてと――その声を止める理由だって、どこにもない。あっちゃいけないと……ユキが、言っていた。昔、私にそう言ったんです」


 彼女の言葉を今になって思い返して、泣きたくなった。
 そんなことすら自分で気づけなかった自分自身に、静かに私を見つめる沖矢の複雑そうな表情に。指先から、ほんの僅かに彼の脈を感じる。

「私は、そういう人になりたい。ユキのように、なりたい。沖矢さんを助けられるような人に、なりたいです」

 助けを求められない人に手を差し伸べたい。
 黙ってばかりの私に、ユキがそうであったように。怯えるばかりの私に、沖矢がそうであったように。もしも彼がその言葉を口にできないのならば、私が彼の前に立つ人でありたい。


「私をあなたのヒーローにさせてください」


 ――そこまで口にして、私はようやく彼の表情を見た。
 少し、小難しいような顔をしていた。あの時と同じだ。「罪悪感で死にたい」と、強張った笑みを浮かべた時と同じような表情。何か言葉に詰まるような。言葉にしたいのだけど、それを上手く吐き出せないような、苦しそうな顔だ。普段は穏やかな眉が、ぎゅうと顰められていた。

 私は、彼の表情を見て苦笑いを浮かべた。
 着せてもらった高そうなブラウスが、腕をこそばゆく振れていく。さすがに、こんな台詞は臭すぎたかと反省した。もう少し言い様があるだろうに、今まで口にしなかった時間が長すぎて、ついドラマチックな言い回しになってしまった。

「すみません、面倒くさいこと言って」

 困らせるつもりではなかったのだ。
 ただ――彼が、昔の誰かの話をするとき、とても苦々しく辛い姿をしているから。綺麗な瞳が涙で揺らぐから。それを見ていると、居ても立ってもいられなくて。

 私はするりと彼の手を解こうとした。
 沖矢は、何も言わず、私の手を掴みなおす。冷たく固い印象の残る指先が、少しだけ震えていた。


「馬鹿な人だ。君の救世主は僕じゃないと言ったはずなのに」
「切っ掛けはそうだとしても……そのあとに、ユキの意思を気づかせてくれたのは沖矢さんです。優しく言葉を掛けてくれたのも、助けてくれたのも、夢を受け止めてくれたのも、他の誰でもない」
「……女性に、ヒーローにさせてと言われたことはありませんでした」

 
 く、と軽く喉が鳴る。ああ、いつもの沖矢の笑い方だ。
 するっと引き寄せられた体を、その長い腕が抱きしめた。私は先ほどまでの感情が引っ込んでしまうくらいに体を強張らせて、しかし厚い胸から聞こえる鼓動は、思ったよりも落ち着いた。

 鼻を掠める彼の香り。彼の枕と同じ匂いがする。
 この空間には、私と彼以外の誰もいないような錯覚に陥った。大きな体だ。しっかりとした体つきが、触れる肌の固さや熱からも伝わる。

「そ、その……もちろん、まだまだ実力不足だし、今からその力はつけていくつもりですけど」
「ふ、今更か? あんなに強気だったのに」

 少し上にある鼻から、抜けるような息がつかれた。
 ぽす、と軽く大きな左手が私の後頭部を、軽く叩くように撫でた。そして、ゆっくりと離れていく。 

「先ほども言った通り、僕はこの先に多くの嘘を君に重ねるでしょう。そしてそれが嘘であると――告白することすらできないかもしれません」
「良いです、それでも……。私の一方的な想いですから」

 あははと冗談めかして笑うけれど、沖矢は決して笑うことはなかった。
 先ほど感じた体温が、時間差でじんわりと私の体を温めていく。顔が、首が、耳が熱い。


「でも、誓おう。君が僕の前にヒーローとして立つ限り、君の背中を守ると。そして、もしすべてが白日のもとに晒されたとき――」

 ふわりと、その亜麻色の髪が揺れた。小さくチュ、というリップ音が耳を擽る。口の端に、少しだけ湿った感触があった。
 
「もう一度、君とはじめよう」

 物腰の穏やかな笑み――とは少し異なる雰囲気で、彼は笑う。それは、彼の本心からの笑顔であったように思う。大人っぽく、口の両端を僅かに微笑ませて、綺麗に目を細めさせた。翡翠の瞳の奥に、私の驚いた表情が浮かんでいる。

 私は裏返った声で、「はい」と答えた。ワンテンポ遅れて、顔が赤く染まっていくのが自分でもよく分かった。
 それに対して、沖矢は可笑しそうに肩を揺らす。自分が、映画か何かに放り込まれたような気分だ。目の前にいる男は主演の鮮やかな男優なのではないかと、そう思うほど彼の姿は美しく、私の視界に映りこんだ。


「採用試験、もうすぐですね」

 と、屈めた腰を上げた瞬間に、彼はニコニコといつもどおりの笑顔を浮かべていた。物腰の穏やかな、優男の沖矢昴だった。私はまったく切り替えることができなくて、まだ顔を赤くしているというのに、まるで気にも留めていない様子だ。

 けれど、彼は繋いだ手を放すことはしなかった。
 それだけが、先ほどの出来事を夢ではなく本物なのだと思わせてくれる。きっと、今までもそうしてきたのだろう。彼の、大切な人の時も、そうだったのだろう。

 なら、私も離さないでいようと思った。
 彼が信じてくれた私を、裏切らないように。そのあと、彼と美術館に併設されたカフェでランチをした。おしゃれなカフェはどうみても沖矢に見合っていたと言うのに、彼がメニューを眺めて頭の上にクエスチョンマークを浮かべていたのが可笑しくて、愛おしかった。

「それ、食用の花なんです。パスタと一緒に食べれますよ」
「ホォー……。ずいぶん綺麗にできているものだ」
「分かります。私も初めて見たとき、横に避けてました」

 パスタの上に散らされた可憐な花たちを、器用にフォークの先で避ける姿は、昔の自分に重なった。ぷすりと桃色の花びらを刺すと、警戒心の籠った動きで口へ運んでいく。ぱくりと、輪郭にしては小さな口がそれを中へと入れると、片側の眉がやや吊り上がった。

「……味しませんね」
「そりゃあ、まあ。飾り用ですから」
「でも少しだけ花の香りがする」

 彼は好奇心旺盛な少年のように、一口、二口と他の色の花びらも刺していった。そして食べ比べてから、もそもそと租借し、「……変わらない」と独りごちた。

 私はそれが嬉しかった。
 今まで違う世界に住んでいた人が、今は隔てのない、目の前に存在しているような気がした。何度と向かい合って話をしてきたけれど、初めて沖矢と対面できたような、そんな気がするのだ。

 
 沖矢は大きな手には不釣り合いな、小さく洒落たティーカップを持ち、紅茶を口に含む。
「君が淹れたほうが美味しい」
 と、彼は零した。そんなわけないのに。嬉しくて、恥ずかしくて、私は視線をローズティーの水面へ泳がせた。トクントクンと音は鳴るけれど、とても心地の良い鼓動だった。彼も私も、今面と向かって生きているのだなあ、と温かく感じるのだ。