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「本当に良いんですか?」

 アナログの時計が、古臭くコチコチと音を立てて秒針を進めていく。ほどよく香る紅茶は、家主が淹れたものだ。レンズの奥の瞳が、ちらりと私の方を一瞥した。私は緊張感を唾液と共に、喉の奥に流し込む。ごくん、と喉が鳴った。そわつく親指をこすり合わせながら、私は伸びた前髪から彼の顔を覗き見た。
「お、お願いします」
「君がそう言うなら甘んじて受けますが……」
 ふう、と落ち着いた声色が息をついた。ドキドキといつもよりも早い脈が頭や体の中を反響していく。長い指先が、器用に白い封筒へレターナイフを入れ込んでいく。私はその仕草を見ていられなくて、つい視線を逸らす。がさり、と紙束を捲るような音が鼓膜を擽った。
 無言。秒針の音、車道を通る車たち、隣の家から聞こえる子どもたちの笑い声。
 その無言が十秒ほど経ったころ、いよいよ耐え切れずに沖矢のほうを向いた。すると彼は頬杖をついて、こちらをニコニコと見つめているではないか。ポカンとしたのも一瞬で、すぐに揶揄われたのだと分かった。私が「沖矢さん」と少し強めに呼ぶと、彼はクツクツと肩を揺らした。

「すみません、あまりに緊張していたようだったので、冗談でもと」
「緊張して開けれないから、こうしてお願いしにきたんです……」
「分かってますよ」

 平たい封筒を手で弄びながら笑う彼に、はたしてこの感情は伝わっているのだろうか。確かに真面目に励んできたつもりだが、今考えれば周りの人たちに比べると勉強時間が足りなかったかも。本番も緊張しすぎて試験中に三回ほど用を足しにいってしまったし、問題の見直しもあまりできなかったかもしれない。
 一度「そうかもしれない」と思い込んでしまうと、物事は悪いほうにしか考えられなかった。さすがに友人にも頼めず、こうして採用試験を受けることを知っている沖矢のもとへ訪れたのだ。

 沖矢はようやく、その書類に目を通してから、私と見比べるようにして、ふっと口角を持ち上げた。――少し前から、人の好さそうな笑顔と半々くらいの割合で、彼はこの笑顔を浮かべることが多い。
 その笑顔に、少しだけホっとできた。不安ばかりが渦巻いた胸の奥がすっとした気がして、私は深呼吸をし、「お願いします」ともう一度彼に頼んだ。


「おめでとう」


 私はぱっと彼の顔を見上げた。
 そこには冗談めかした様子はなく、細い目つきがニコリと一層細められた。ドキン、ドキン、という音が、一秒ごとに大きくなっていく。今まで観たどんな映画よりも、心が震えた。当たり前だ、主人公はまぎれもなく私だったのだから。

「ほっ、本当ですか……!」
「はい、何なら見ますか?」

 ぺらっとこちらに向けられた書類には、紛れもなく試験通過の文字が並んでいる。私はアンティークなソファから腰をあげて、思わず沖矢のほうへ飛びついた。
「やった!」
 つい、子どものような口調が飛び出た。
 すぐに慌てて口を塞いだけれど、沖矢は何か気に留める様子もなく、穏やかに「そうですね」とはねた体を受け止める。まるで父親が、出迎えにはしゃぐ子どもを受け止めるような手つきだった。軽く咳ばらいをして、私は向かいのソファに戻る。


「あの〜、はしゃいでるところ悪いんだけど……」


 いつもは朗らかな声色が、やや呆れたような色を含んで転がり込んだ。鈴を鳴らしたような、可憐という言葉が相応しい声。振り向くと、高価そうな英国風なケーキプレートを手に持った有希子が苦笑いをしていた。
 彼女はカーペットに膝をつき、かちゃかちゃと食器をテーブルの上にセッティングしながら言葉を足した。
「それ、一次試験の合格通知よね」
「そうです、本当に良かった……」
「喜ぶの早すぎるんじゃな〜い……っていうのは無粋かしら」
「まあまあ。百花さんが喜んでいるのだから、良いじゃないですか」
 くすくすと沖矢が笑いを零すものだから、私は僅かに頬を熱くした。たかが一次試験、されど一次試験だ。警察の採用試験は大まかに分けて一次試験と呼ばれる筆記・体力試験と、二次試験と呼ばれる面接試験がある。
 この通知書は、つまりは二次試験の受験資格を得ることができたということだ。警察への道のりはまだ遠くはあったが、ようやくの一歩が踏み出せた気がした。私の中では大きな一歩だ。

「ユキさんには、報告されに行きますか?」
「はい。今からバイトが入っているので、終わってから行こうと思って……」
「ならバイト先まで迎えに行きますよ。ちょうど夜も空いているのでね」

 彼は軽く袖を捲り腕時計を一瞥すると、そう笑う。先ほどの緊張とは違う胸の高鳴りが、ドッドッド、と指の先までうるさく鳴らした。
「わ、悪いですよ。シフト、結構遅くまで入ってますし……」
「なら尚更。夜は遅いでしょう」
「それはそうですが」
 ――沖矢昴という男が、好きだ。
 一度異性として芽生えた想いは、日が経てば消えるどころか膨らみ続ける一方だった。もちろん人間として好きということもあるが、あの――キス、以来は、一層。彼と一緒にいたい、隣にいれば嬉しい。しかし、その下心が沖矢に知られることは避けたかった。
 彼は鋭いし、近くにいればすぐに解れがバレてしまうような気がする。
 せめて警察官として胸を張れるようになるまでは、心のうちに閉まっておきたいと思った。

「そうだ、合格祝いというのはどうでしょう」
「合格祝い……」
「はい。せっかく優秀な教え子が結果を残したわけですから」

 もちろん、ユキさんの後に。言葉を付け加えて、沖矢は有希子が置いたパウンドケーキにフォークを刺した。私は、少し表情を固くした。

 ――木曜日、いつも彼に勉強を教えてもらうのが日課になっていた。
 しかし、筆記試験は終わったのだ。もしかして、今のように気軽に彼の家に来ることはなくなるのではないだろうか。バイト先の近くだからといって、「ちょっと寄っちゃいました」――というのは、私にはできそうになかった。
 私も彼と同じようにフォークの先を、ふわふわとしたスポンジ部分に当てる。沖矢の言葉に返事をすることも忘れて、今後のことを考えていたら、アハハハ、と空気を割くようにして有希子が笑った。

「あっははは、もー、わ、分かりやすいのよね。昴さん、ちゃんとフォローしてあげてねん」
「かわいがるのは程々に……驚かれていますから」

 有希子は丁寧に手入れされた指先で、私の頭をかいぐった。
 私は思わず、頬を触った。そんなにも表情に出ていただろうか。そんなに感情が表に出るほうだとは言われないのだが――合格通知を見て気が抜けているのかもしれない。

「今まで通りで良いですよ」
「……あの、そんな風に見えました?」
「少しね。残念ながら面接についての知識はありませんが、部屋の壁よりはまともに相槌も打てるでしょう」

 複雑な気持ちだ。嬉しい、嬉しいのは確かだが、それ以上に恥ずかしい。これでは本当に、まんま子どもではないか。生クリームをつけたケーキを口に含み、もごもごと咀嚼してその気まずさを誤魔化した。

「それで、どうされます? 今夜は」

 と、彼は肩を竦めて尋ねる。
 亜麻色の髪がさらりと流れた。出会ってから伸びた私の前髪とは異なり、彼の髪は綺麗に出会った時のまま、整えられている。
 たぶん、わざと子どものように扱われているのではと予想はできたが、私も私でこういったことには口下手というか。沖矢にもよく、「あんなに強気だったのに」と笑われるが、その通りなのである。
 私は彼のわざとらしい誘いに甘えて、もごもごと頷いた。目の前で満足そうに微笑む沖矢の顔を見て、バイト頑張ろうと胸に思い直したのは、バレていないと信じたい。