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「きゃあ〜!!」

 黄色い声がフロアに響き、彼女はいつも以上に人々の視線を一身に受けた。もとよりハツラツとした声色は店全体に届くようなよく通る声だったが、今しがた窓の外を通りかかったサラリーマンまで「なんだなんだ」とこちらを見る姿があった。
 私は慌ててシィ、と指をたてて、足をバタバタとさせる梓を宥める。彼女は赤らめた頬をパタパタと仰ぎながら、店の客たちに苦笑して謝った。
「今夜はどうする……なんて! やだ、もう〜! エッチ!」
「あの、絶対そういう意味じゃないので……。私も言い方が悪かったですって」
 エッチ、と軽く私の背中を叩く梓に、私はなるべく弁明した。しかし彼女の耳には既に私の声は届かないらしく、しばらく同じ弁明を繰り返すはめになった。梓には私の話だけで沖矢の像が構成されているが、大丈夫だろうか。新たな風評被害になっていないことを心から願う。

 シンクに溜まった皿に手を伸ばすと、ひょい、と小麦色の指先がそれを阻んだ。私はぱちくりと瞬いて、その手の先を視線で辿る。白いタートルネックのセーターに、ポアロのエプロンが目に入った。
「そんな素敵なデートの日に、いつまでも皿洗いしていないで」
「で、でも、私今日まだ時間じゃないですから」
「おや、僕の仕事を取ってしまうんですか」
 よよ、と演技がかった泣き顔を見せる安室に、私は少しだけ笑った。安室も私を見て、穏やかに微笑む。

 安室は、あれから私に沖矢の話を振ってくることはなかった。
 それどころか、マリアと会った夜のことさえ言及せず、まるでそのまま――以前のバイト仲間に戻ったような態度をする。私が話をする沖矢という男など、最初から知らないような。
 それを強引にこちらに押し付けるような、愛想笑い。だけれど、やっぱり私には彼のことを一括りに悪人だと思うことはできなかった。安室は、良い人だ。それに、切り替えの早い人。その切り替えの早さが、彼は不本意かもしれないが、沖矢に重なった。
 沖矢のことを見ていて思うのだ。切り替えの早い人は、何も感じていないように見せるが、そうではない。きっと心の奥では、何かを考え、何かを感じている。表面に出ない分、一層沸々と、グツグツと。だから、沖矢もふとした拍子に瞳を揺らすのだ。苦しそうな、泣きたそうな顔をするのだ。
 安室のことも、一概にそうだとは言えない。
 けれど、もし――もし、彼もそうなのならば。
 「ご友人ですか」――そう尋ねた彼の寂し気な声色が、濡れた髪の先が項垂れるような表情が。彼の本心ならば、きっと悪い人ではないような気がするのだ。

「店は大丈夫ですから、少しオシャレしてきては。男は意外とそのままの姿に弱かったりもしますが」
「あはは。それ、世論ですか? それとも安室さんの?」
「内緒です」
「それに、本当に違うんですよ。ユキのお墓参りにいくのに送ってくれるだけです」

 苦笑いしながら安室が流した皿を乾かしていると、安室が少しだけ意外そうにアイスグレーの瞳を瞬き、「そうでしたか」と笑った。ユキの話をすると、彼は懐かしむような穏やかな顔をする。それもまた彼を悪人とは思えない一因なのだが――これは、少し私の願望が入っているだろうか。

「なら、僕からもユキさんに。高槻さんが毎日僕のやりがいを取ってしまうのだとお伝えください」
「やめてください、冗談抜きにユキが爆笑するので……」

 彼の言葉を聞くだけで、ユキがお腹を抱えて笑う姿の想像がつく。きっと生きていれば良い友人になれたかもしれない。安室もユキと同じように頭が切れるし、人当たりの良さや食事へのこだわりも似ている。
 安室は眉を穏やかにさせて笑う。
「きっと、僕の友人も腹が捩れるくらい笑います」
 皿のふちにスポンジを滑らせながら、彼は言った。安室から友人、というプライベートな言葉が零れたのが意外だった。



 
 結局、安室の言葉に押し切られて、私は仕事も半ばにポアロから追い出された。正直自分の仕事をやりかけで行くのは、罪悪感と言うよりも自分の気持ちがすっきりしないのだけど、安室と梓に急かされるように行く仕事の全てを取られてしまった。
 腕時計を見て、さすがに早いかとポアロを出ると、向かい側に見覚えのある車が停まっている。私は驚いて、少し駆け足で道路を渡った。

「沖矢さん! 早いですね」
「お疲れ様です。何の予定もなかったので」

 窓を開けて煙草の灰を落としていた沖矢に、私は礼を述べる。黒いハイネックのリブニットに、グレーのジャケット。彼はスタイルも良く、たとえ部屋着だろうと着こなしてしまうけれど、やっぱりこういう外着は別格に彼の姿を引き立たせる。特に彼のよく着るジャケットは、そのがっちりとした肩と締まったウェストをよく目立たせた。

 体を屈めて車に乗り込んで、私ははたと止まった。
 何か違和感がある。以前彼の車に乗ってから暫く経っていたので、何か変わったのだろうか。きょろきょろと車内を見回してみるけれど、記憶と寸分違うことはない。私は少しだけ考えて、「あ」と声を出した。

「煙草、変えたんですか」

 ――匂いだ。
 以前よく香っていた、ハイライトの香り。独特だったし、私もよく知る匂いだから覚えていた。今の車内は、もう少し甘いような香りがした。沖矢にしては――なんて失礼かもしれないが、似つかわしくないくらい色っぽい匂いだ。
 いや、実はこっちのほうが合っているのかも。
 ふと思い直す。確かに以前の沖矢であったら、ハイライトのほうが似合っていたが、彼を知れば知るほど、今の香りの印象に近いかもしれない。
 沖矢は私の質問に、ああ、と胸ポケットを叩いた。

「よく気づきましたね。ほら、前吸い尽くしてしまったから……気分転換にね」
「そうなんですね」

 私は喫煙者じゃないから分からないが、そういうものなのだろうか。慎也はいつも同じ銘柄を吸っていたから、あまりよく分からない。「くさかったですか」と真顔で尋ねてくる沖矢に、私は思わず噴き出してしまった。ゆるゆると首を振って、大丈夫だと笑って見せた。



 私の実家近くにナビを合わせてもらったので、車は私の実家の駐車場に停めた。実家近くに沖矢がいるのは、少しだけ妙な気分だ。
「私、ちょっとだけユキの実家に寄って行きますけど……」
「そうですか。大丈夫、最近寝不足でね。車の中で少し眠ります」
 確かに、彼の眼の下は以前よりもゲッソリとして見えた。頬も、前より痩せただろうか。私はそれが少し心配で、頷き「ごゆっくり」と笑った。そうしたら沖矢がクツクツと笑いながら「はい」と答える。どうして笑うのかと思っていたら、彼は片目をチラリと開けた。
「いえ、こちらの台詞なのではと思い……」
「わ、確かに……。アハハ、眠そうだったから、つい」
 行ってきますね、と笑う。彼もその大きな手をヒラリとさせて、私を見送ってくれた。




 ユキの墓は、墓地の中でも少し奥まった場所にある。彼女の実家をそのまま体現したような、他の墓よりも少し大きく綺麗な石だ。以前訪れたときは雨が降っていたから、人影に気づかなかったが、今日はよく晴れた空をしていた。ぽつりと誰かの墓石の前で手を合わせる人影にも、すぐ気づいた。

「うわっ」

 その人影に気を取られていて、つま先で何かを蹴飛ばした。煙草のケースだ。しかもまだ新しい。それを拾ってくるりと周囲を見渡すと、すぐ隣の墓石に、煙草がたんまりと積まれているのを見つけた。今拾った銘柄と同じものだった。
「そんな煙草好きな人だったのかな……」
 カートンで持ってきてあげれば良いのに、と思いながらも、自然と口角は持ち上がっていた。きっと、大切な人なのだろう。彼の好きな銘柄を、忘れられないくらいに。好きなだけ吸え! なんて、この供え物をした人の声が聞こえてきそうだ。
 ずいぶんと綺麗に手入れされた墓だったので、二日、三日供えた後は回収する気なのかもしれない。

 落ちたものを戻しただけだったが、私も静かに手を合わせる。【萩原家之墓】――そう書かれた石だった。私は顔をあげると、合格通知の紙をユキへ見せつけるべく踵を返した。