40


 道城ユキは、賢く少し変わり者で、しかしそれを他人に気にさせないような、明るい女性だった。
 恐らく彼女に救われたのは私だけではない。弱きが虐げられることを良しとしなかったし、何よりそれを成し遂げるだけの知恵があった。ただ意見を振り翳すだけではなく、成程と思わせる言い回しをしたし、時には他の大人を味方につけたりと、強い人だった。

「……ユキは、慎也をどう思ってるんだろう」

 私は彼女の墓石をそっとなぞって、呟く。動揺して考えたこともなかったが、よくよく思い返せば、彼女が慎也の本性に気づいていないことはないと思うのだ。ああやって気丈に笑っていたから、私は私のことで精いっぱいだった。
 そんなこと、もう少し早く考えれば良かった。もっと早く、ユキに話すべきだった。起きてしまったことはしょうがないと思う反面、もしもああしておけば――なんて考えも頭を過ぎる。

 返事がほしい。

 無理な話だと分かっていても、彼女の返事が欲しい。通知書を見て、手を叩いては『おめでとう』と笑ってほしいし、『百花のせいじゃないよ』という、保障のような言葉が欲しい。
 私はぶんぶんとかぶりを振った。駄目だ、彼女の前にいると、つい甘えたような気持ちになってしまう。私は静かに手を合わせ、その場を離れようとした。


「百花ちゃん……?」


 振り向いた先には、ユキによく似た白い肌を寒さに染めた女性が、花を抱えて立っていた。肩に流した黒髪の束が、冷たい風にふわっと靡いていく。――最初、誰か分からなかった。けれど、私の名前を呼んだその声に、覚えがある。
「道城さん」
「ふふ、やだ。小さい時みたいにおばさんで良いのよ」
「……おばさん。ちょうどお訪ねしようと思っていて」
「そうなの。ちょっと待っててね、お花を変えたら一緒に行きましょう」
 口調は昔と変わらず、上品な口ぶりだ。
 しかし、先ほど見た沖矢とは比べ物にならないほど、もとよりふくよかではないシルエットは益々痩せこけていた。病人かと見紛うくらいに、手首や首元には筋が浮いている。最後に見たのは、彼女の四十九日だろうか。ユキが亡くなった直後で顔色は悪かったが、その時はまだ地元でも有名な美人妻の面影があったのに。

 ユキが亡くなったのが、それほどにショックだったのだろうか。ユキの父親は彼女と血が繋がっていない。父からユキへどれほどの愛情があったかはさだかじゃないけれど、行事ごとで父の姿をあまり見かけたこともなかった。一人で、彼女の死を受け入れてきたのだろうか。

 そう思うといたたまれなくて、私は精いっぱいに明るく笑いながらユキの話をした。ユキの母親は、嬉しそうに目じりを和らげ、その細い脚で歩みを進めた。




 ユキの実家は、以前訪れたときから何一つ変わっていなかった。玄関先の家族写真、カーペットにカーテン、ユキの部屋にかけられたネームプレート。変わっていなさすぎて、いっそ違和感を覚えるレベルだ。
 ユキの母親――道城は、ご機嫌そうに紅茶を淹れると、客間へと足取り軽く戻って来た。昔から着ているエプロンは、やはり今の彼女には大きいように見える。

「ごめんなさい。あんまり良いものがなくて」
「いえ……ヴァレーニエ、懐かしいです。ロシアの紅茶ですね」
「そう、有栖川有栖。あの子が好きだったから」

 紅茶と一緒に出されたジャムは、昔ユキとよく飲んだものだ。私は詳しくないが、そういったテーマの有名な推理小説があるらしい。すっかり探偵気分なんだから、と道城はまるでユキが生きているかのように笑って見せる。私は何を言ったら良いか分からず、あいまいに笑った。
 彼女の死から、まだ一年と経っていない。受け入れられないことばかりなのは痛いほど分かる。だからこそ、言葉の掛け方が分からない。

 私は気まずく視線を落とし、それから今日ここに訪れようと思った理由を思い出した。そうだ、と私は鞄を探る。道城は痩せこけて窪んだ眼の奥をこちらに向け、首を傾けた。
 ユキの実家に向かおうと思ったのは、以前マリアから受け取った日記帳を彼女に返すためだ。渡しておいてほしいと頼まれたこともあるし、何より他人の持ち物をずっと持っているというのも、申し訳ない。
 漆黒の、ベルベット調のカバーがついた手帳。サイズは女性の手のひらには少し大きい程度のもの。ゴムのバンドがついていて、中身は見ていなかった。手帳の隅には、確かに誰かの文字で『Michishiro』とだけ。

「あの、これ、おばさんの知り合いだっていう人か――ら……」

 すっと鞄から差し出したものを見た瞬間に、がちゃんとカップがテーブルへ転がった。私は慌てて、そのカップをソーサーの上に戻す。大丈夫ですか、と顔を上げた瞬間、私の手に持っていた手帳がばしっと叩き落された。

「いやっ」

 ――ふるふると怯えたように首を振る姿は、怯えていた。指先も肩も細かく震えていたし、私は訳も分からず彼女を見上げる。マリアは確かに嫌われている――と言っていたが、これは嫌悪じゃない。
 顔面を真っ白に染めていく道城を、とりあえず落ち着けないとと思った。その細い肩を掴もうとしたら、手を振り払われる。


「ご、ごめんなさい。ちょっと取り乱しちゃって……、少しだけ、一人にして」


 道城は、よろけた足取りで客間を後にする。後を追いかけようとも思ったが、彼女の言う通り、話は落ち着いてからの方が良いかもしれない。事情を知らない私がどれだけ言葉を掛けても、あまり意味がないだろう。
 ひとまずテーブルの上を布巾で拭いて、カーペットの上に落ちた手帳を拾い上げた。マリアは確かに、日記だと言っていた。道城にとって、知られたくない内容であったとか――。例えば、私にとっての慎也の携帯のように、弱味に近いものかもしれない。だとしたら、怯えているのも納得はできる。
「そんな人には見えなかったけどな……」
 マリアの表情を思い浮かべた。誰かを懐かしみ、寂し気に瞼を伏せる姿。日記の中身が気になりはしたが、やはり道城に直接尋ねたほうが良い気がする。


 ソファに座り込んでいるのも落ち着かなくて、私は客間のなかを立ったり座ったり、忙しなく繰り返した。工藤家とは異なり、豪邸というわけじゃあないが、綺麗な家だ。白を基調にしたシンプルだが上品な家具たち。それに彩を加えるように、ユキの趣味のものがぽつぽつとインテリアされている。
 たとえば、アクセサリーボックス。彼女は指輪やピアスを集めるのが好きだったから。
 そして、何を隠そう白い本棚。彼女の部屋にはもっと沢山の蔵書があるのを知っているが、客人用にいくつかをピックアップしているのだろうか。その背表紙には、工藤勇作の名前がいくつも並んでいた。コナン・ドイルに、有栖川有栖、アガサ・クリスティー、横溝正史、江戸川乱歩。その背表紙を見ていたら、ユキが大切そうに本の頁をめくる姿を瞼の裏側に描くことができるくらいだ。

「……あれ、カバーがない」

 一冊だけ、カバーのない本を見つけた。他のものはカバーどころか、当時の帯までしっかりと付けられているのに。人差し指でその本の頭を出す。ぱらり、と中身を軽く捲り――私は顔を顰めた。

「これ、ユキの」

 間違いない。彼女のコラムブックだった。肌身離さず、ユキが持ち歩いていたものだ。日付も彼女の亡くなる数日前になっている。あの日確かに、証拠品として押収されたはずだった。彼女の母親ならば、要望すれば返還されるのも納得である。しかし――。どうしてだろうか、私は何か、嫌な予感が胸をざわざわと撫でつけていくような気がしてならなかった。

 ユキのコラムブックへ、真剣に目を落としている時――ぎし、とフローリングが軋んだことに、私は気づかなかった。

 ぐっと何かに引っ張られる感覚。次の瞬間には後ろに倒れ込み、そして息が詰まった。
「がっ」
 蛙が鳴くような声が漏れ出す。息ができない。どんなに吸いこもうとしても、苦しくて苦しくて仕方がない。がりがりと喉をひっかいて、初めて喉元に何かが巻き付いていることに気づいた。

 その病的に細い腕が、私の首を締めあげていることに気づいたのは、頭にまわる酸素がだいぶ薄くなってからだ。


「ごめんね、ごめんなさい……! でも、アレと……アレと繋がるものは、何であれ潰さないと……あの子が浮かばれないのよ……ッ!」


 ぽろぽろと、涙が私の顔へと滴っていく。その瞳の奥には、あの時と同じだ。今までの犯人と同じような、明確な殺意が、芽生えていた。痛い、苦しい、まだ、死ねない! 私は、私は、生きないと。生きてユキに、沖矢に、胸を張れるようになりたい。


 ばたばたと、余った力で寝返りを打つように転がった。私よりもずっと細い体だ。力の入れ方次第では振り切れるはずだ。一ミリでもいい、首との間に隙間を作れ。指を必死にロープとの間にめり込ませて、私は彼女の体に向けて思い切り踵を振った。狙いはさだまってなかったが、その踵が肩に当たる。

「うっ、げほっ、げほ」

 ようやく入り込んだ酸素を、体が必死に取り込もうとしている。手足が痺れた。立ち上がろうとした足に、うまく力が入らなかった。とにかく家から出ないと、駄目だ! 持ってきた鞄の取っ手を引っ掴むと、道城に向けて振り回した。一定の距離が保てたところで、勢いよく玄関へと走る。

 ――怖い、怖い、怖い!

 扉を開けると、ヒンヤリとした空気が肌をチクチクと刺した。涙が浮かぶ。靴も履かないまま、必死に走った。

 私は弱虫だ。沖矢を助けたいと、ヒーローにさせてと言うのに、死を目前にしてこんなにも脆い。悔しかった。悲しかった。どうして彼女に殺されそうになったのか、これっぽっちだって理解できなかった。様々な感情が入り乱れて、情けなく涙が溢れる。はぁはぁと息を切らして、自分の実家が見えてくると、ようやく足取りが緩まる。背後を見ても、彼女の姿はなかった。

 安心と、後悔。どうして、と鳴りやまない動揺の鼓動。靴下のままの足裏が、小石を踏んで痛んだ。

「百花さん……?」

 ヒーローになりたいと、そう願っているのに。
 目の前に現れたその人は、驚いたように私のほうへ駆け寄った。指先が、そっと私の乱れた髪を撫でつける。そして彼は何があったかと尋ねる前に、私の体をひょいと抱き上げた。砂利とゴミだらけの田舎道を走った足の裏に血が滲んでいたことには、その時気づいた。
 
「酷い顔だな」

 形の良い眉が顰められる。涙を拭う親指の温かさが、私を益々情けなくさせた。ユキの実家のほうを、ゆっくりと振り返る。

 命が消える前の生存的な恐怖はもちろんあった。けれど、同じくらい、もしかしたらユキも――助けを求めていたのかと、そう思った。そして私は、それに気づけていなかったのではないだろうか。アレと呼ぶ何かを恐れる道城の顔が、私の頭から離れないのだ。