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「そうでしたか、ユキさんの……」

 沖矢は濡れタオルをそっと私の首に宛がいながら、頷いた。彼に話していると、自然と頭の中が整理されていく。喉が、少し掠れた。軽く咳き込むと、沖矢は再び眉を僅かに顰めた。
 道城が恐れていたのは、間違いなくあの日記が関係あるはずだ。そして、彼女は確かに『あの子が浮かばれない』と言った。あの子、とはユキのこととしか考えられない。私があの日記を渡したこと――それとも、マリアにやはり何かがあるのか。それは、私を――殺してまで、阻止するようなことなのだろうか。

「百花さん」

 少し考え込んでいたら、沖矢が私を呼んだ。顔を上げると、いつもより少しだけ怒ったような雰囲気に、肌がピリと刺激された。私が少し驚いて、びくりと体を強張らせたら、彼は思い直したように表情を和らげた。
「……これは受け売りですが、殺人へ正当な理由は存在しないのでしょう。君の命も、当然ですがその一つだ」
「あ……」
「今は体の心配をして」
 と息をつく彼の顔を見て、私は複雑に表情を歪めた。道城を、このまま一人残して行って良いのだろうか。確かに、怖い。けれど、ユキの心に気づけないままなのは、それよりも恐ろしい。あの日記帳に――あのコラムブックに、何があるというのだろう。胸のざわめきは、何に対して。

「……私、もう一度戻ります」
「百花さん」

 咎めるような声だった。
 こればっかりは沖矢が正しい。先ほど自分が殺されかかった場所へ、どうして後戻りしようとしているのか。でも、このまま放っておくのはもっと嫌だ。このまま――帰ったら、二度と道城と会わないのではないかと、そんな気がする。

「これは前にも言いましたが、立ち向かうだけがヒーローではありません」
「分かっています」
「分かっていない。今みたいに自分の命を守ることだって十分に大切です」
「分かってるけど……、危ないことだからって、逃げたくないんです」

 車のドアに手を掛けた瞬間、ぐっとその大きな手が私の肩を掴んだ。――「分かっていない」、もう一度、抑揚のない、しかしどこか苛立ったような声色が告げる。
「今の君は、逃げたことへの罪悪感で行動しているだけだ」
 ちらりと瞼を薄く持ち上げる。見透かしたような色素の薄い瞳に、髪は乱れて、喉にクッキリとした赤い糸のような線を残した私の姿が映っている。
「分かって、います」
 零した言葉と共に、溢れていた涙の余韻が、一粒頬を伝った。
 怖かった。警察官になれば、もしかすると犯人と対峙することもあるだろう。あの時から、私なりに成長したと思っていた。ユキの想いを継ぎたい、沖矢のことを守りたい。想いばかりが先行していて、私の手に何の力もないことが、よく分かった。

 ぎらぎらとした殺意、誰かを傷つけるための手、早鳴る動悸、軋む体。
 今の私に、何ができたのか。結局こうして、沖矢のもとに逃げ帰っただけだ。

 涙が次々に溢れそうになるのを、私は必死に堪えた。あの時の、何もできない私に戻るな。泣いてばかりで、ユキを失ったことを忘れるな。戒めるように下唇を噛む。
 
 力をこめた私の体を、宥めるように長い腕が包む。一瞬、その甘い煙草の香りにクラリと頭が揺れた。肩口に、触れるほどの力で頭を押し付けられた。触れ合った場所から、沖矢の脈が聞こえる。

「君の行動は立派だ。あの場で君がしたことは逃げじゃない、彼女を殺人者にしなかったことだ」

 不思議な口調だった。落ち着けるような柔い声色ではあったけれど、どこか叱りつけるような雰囲気を感じる。私は指先を丸めて、小さく返事をした。沖矢の言葉は、その体温のようにじんわりと、ゆっくりと、心の奥に落ちていく。
 ドクドクと鳴りっぱなしだった鼓動が落ち着いた頃、沖矢は体を離した。私はやりきれない思いを抱えながら、項垂れる。

「ユキのお母さんは……何からユキを守りたかったんでしょうか」
 人を殺そうとしてまで、彼女の母が抱えていたもの。ユキへの愛は本物だ。あんなにやつれてしまって、きっと辛かったことだろう。
「ユキは、何か助けて欲しかったのでしょうか。私はそれが知りたい」
 たとえ彼女が戻らなくても、私は知りたい。目を背けたら、以前の私と同じだ。


「――なら、教えてください」


 沖矢のゆったりとした声色が、私を見つめながら言った。
 沖矢を見つめたままの私に、彼はそっと首の跡をなぞる。傷ついた動物を撫でるような、優しい手つきだった。
「君は僕のヒーローなんでしょう。前に百花さんが言ったのではないですか」
「は、はい……」
「助けてほしいときには、助けてと言ってほしいと」
 彼は口の両端を柔く持ち上げた。あまり器用とはいえない微笑み方は、沖矢らしくなかった。
「生まれつき、感情には不器用な性分でして。お手本を見せてくださると助かります」
 私はその言葉に、ぐっとこみ上げるものを堪えた。
 情けないとか、そう思う前にやることがある。今の私には、どうしてもその力が足りない。私が見上げた瞳は、柔らかく細められていたが、力強い光をうつしていた。

「手伝って、ください。私、ユキの本当のことが知りたい」

 沖矢は、フ、と息をつくように笑い、静かに頷いた。





 私と沖矢は、再び車をユキの実家へと向けて走らせる。恐怖はあったけれど、沖矢がいるぶん心は落ち着いていたと思う。冷え切った指先を摩りながら温めて、私はもう一度彼女の家のインターホンを押す。
 返事はない。当たり前かもしれない、彼女は本当に動揺しきっていたし、もともと人を殺そうとするような女性ではないことを知っている。
 どちらかと言えばおっとりとしていて、明るく人懐っこく、ユキに似て社交性のある人だ。私の母とも仲が良くて、家族ぐるみで旅行に行ったことだってあった。親切で優しく、こうしてユキが育ったのだなあと思わせるような人。

 二度目の呼び鈴にも返事はなく、私は沖矢を見上げた。
 彼は少し考えるようにしてから、玄関を押し開ける。鍵が掛かっていなかったらしい扉は簡単に開き、そこには私の靴が一足ずつ転がっていた。
 廊下は、電気が点いている。物音はしない。
 先ほどの客間に顔を覗かせるが、先ほど居たときからティーカップの位置一つさえ変わっていなかった。沖矢はゆっくり周囲を見回し、廊下やキッチンを覗いてから「誰もいないようですね」と独りごちる。

 なんだか不気味だ。
 まるでこの家から、道城だけが忽然と姿を消してしまったようだった。唯一、あの漆黒の手帳だけが、最後見掛けた場所にはなくなっている。
 沖矢は、あごに触れながら、部屋をゆっくりと見回った。小説の中の探偵のように、ひとつひとつをジックリと観察している。
 私は沖矢を一瞥してから、落ちている本へと手を伸ばした。落ち着いて見ることができなかった、ユキのコラムブックだ。中には確かに、私も一緒にいったことのある映画の感想が書かれている。筆跡や思い出せる日付を辿る限り、ユキのもので間違いはないようだ。

 彼女のコラムブックを知ってはいたが、こうしてじっくりと読むのはこれが初めてだった。心動かされた演出、台詞まわしや小道具のディティール。几帳面な彼女らしい、細かなコラムだ。

「――おや」

 沖矢が、ぴたりと足を止めた。私のちょうど隣に来た時だ。私はじっと文面に目を落としていたが、沖矢が視線の先に捉えているのは、客間にあった白い本棚だ。――そういえば、沖矢もシャーロキアンだと言っていたっけ。私も彼の声につられて視線を持ち上げると、沖矢はその指先で並んだ本たちを撫でていく。コラムブックが埋まっていた一か所以外は、ずらりと著名な推理小説たちが並んでいる。

「ずいぶんとミステリーものがお好きですね」
「はい、昔からそうなんです。たぶん、ここにある小説も客人用と自室用に取ってあるんじゃないかな」
「ホォー。それはまた……これはおもてなし用という訳ですか」

 彼は一つずつ確認するように、その作品名をトン、トンと押さえていった。
 どれも私でも名前を知っているくらいに有名な作者のものだ。あまり触れられていないのかカバーも真新しいのは、これが客人用であるからだろうか。
「妙な並びですね」
「……そうですか?」
「帯までつける几帳面な人なら、本の背丈や並べ方も気にしそうなものですが。こうやって同じ作者が離れていたり、文庫とハードカバーが入り混じっているとムズムズしませんか」
 僕だけですかね、沖矢は苦笑を浮かべた。
 確かにそうだ。基本的には背丈もシリーズも揃えられていたが、ところどころ戻し方が悪かったように、急に頭を飛び立たせている本がある。坂口安吾、エドガー・アラン・ポー、綾辻行人、ヴァン・ダイン。――出版社も隣り合う作品もバラバラだ。

「……何かの代わりに入れたみたい」

 例えばだけれど、代わりにここに何かが入っていて。それを、誰かが適当な本と入れ替えたような。そんな粗雑な感じがする。
「みたい、ではなくそうなのでは」
「そうでしょうか。さすがに話が飛躍しすぎじゃあ……」
「だって、ユキさんの愛読書が見当たりませんから」
 沖矢が当然のように告げた一言に、私はバッと本棚を見上げた。そして一つの名前を探し視線を滑らせる。ぱちぱちと何度瞬いても、確かに彼の言う通り、その名前は見当たらない。

「エラリー・クイーンがない……」

 こんなにも有名な作品ばかりが揃っているのに。ユキの母は、確か推理小説をそれほど嗜まなかったはずだ。彼女の趣味は父譲りだと聞いたことがある。さすがに彼女が好きだった作品くらいは知っているだろうが――。
 それに、ユキの母も、明るく几帳面な性格をしていた。部屋のインテリアだって整頓されきっている。マリアも、マメな子だと証言していた。一見しただけで沖矢が妙だといった本の並びを見て、何か思うことがあったのではないだろうか。
 それでもこの奇妙な並びを直さないのは――どうして。プレートも食器も、そのままにしていたからだ。彼女が触れたものは、生前のままにしていたから――。それなら、もしかしたらそれは。


「ユキが並べたから……。ユキがこうやって並べたから、おばさんも動かさなかったんだ」


 そして、彼女がエラリー・クイーンを省いた理由。きっとそこに何かがあるはずだ。私は彼女のコラムブックを握って、ぐっと口を引き結んだ。