42

 私は試しに、その飛び出た本を抜いて中身を見たり、元に戻したりを繰り返す。本の中は変哲もない本文が並んでいる。特に色やマークがついていたりとか、カバーの裏に何かがあるわけでもなかった。
 私は戸惑う。しかし、確かにこの本棚は何かが可笑しい。
 本棚を調べている間、入れ替わりにコラムブックに目を通していた沖矢がふと声をあげた。
「……これ、もしかしてテープのりじゃないですか」
「え、あ、たぶん……。ユキ、よく使ってたから」
「なるほど」
 と、一つ頷くと、彼はコラムブックに貼られた映画のチラシたちをベリベリと剥がしはじめる。私がぎょっとその様子を見守っていると、沖矢は一笑しながら「テープのりって剥がしやすいんですよね」と言う。
 いや、私が言いたいのはどうしてそんな風にチラシを剥がすのかということだが――。しかし、剥がされた先に現れた文字列に、私は目を見開いた。そこには確かに、彼女の筆跡で呪いのような数字たちがギッシリと並んでいた。

 暗号のように見えるかと問われれば、そうかもしれない。無数に並ぶ数字たちは、ところどころ改行こそされているが、文字通り羅列≠ウれていて、どこから読んだら良いかもよく分からなかった。しかし、その数字は一ページにとどまらず、全てのチラシやチケットの裏に隠されている。

 数字を只管に見つめて、声に出して読んでも見るが、なかなか思い当たる節がない。小さく唸ると、沖矢はそのコラムと本棚を見比べた。私が不思議そうに彼を見ていると、沖矢はやや得意げそうな笑みを浮かべながら語る。

「……ユキさんは、推理小説がお好きなんですよね。基本的に、推理小説においての暗号というのは、鍵が存在します」
「鍵……ですか」

 復唱すれば、ゆったりと彼は頷いた。頭の中には金属製の小さな鍵が思い浮かんだが、もっと抽象的な意味なのかもしれない。

「だって、暗号だけを載せておいて、作者の頭の中だけで組み立てられた暗号なんて……読者が読んでいてつまらないでしょう。答えを聞いてもこじつけのように思えてしまうではないですか」
「つまり、ヒントってことでしょうか」
「ヒントというより、法則です。ほら、よくなぞなぞで、こっちにはあってこっちにないもの――とか。問題以外にもいくつか例題が並んでいますよね」

 なるほど、そう言われると分かりやすい。確かに、いきなり答えだけを求められても解く側としては困ってしまうかもしれない。それはミステリー小説に関係がないような気がするけれど。数度小刻みに頷くと、沖矢は私の思考すら見透かすように苦笑いをした。

「本物の、たとえば戦争で使われるような暗号だったら、鍵があったら困るでしょう。あくまで第三者に解かせるために、推理小説では鍵を提示する。それがユキさんらしいと思ったんですよ」
「鍵……って」
「もちろん、この本棚です」

 とん、と指先が白い本棚を叩く。本棚が、鍵――。ということは、やはりあの飛び出た四冊が問題なのだろう。問題の四冊の位置は、一番上の段に一冊、三段目に二冊、四段目に一冊。全部で五段ある本棚だった。作者の名前、作品名、和名、洋名。いろいろと並び変えてみるけれど、うまく答えに辿り着けない。
 私が右往左往していたら、沖矢は少し間をつくってから、いつもより少し重たく口を閉じる。どうやら、彼にはもう鍵とやらが分かっているようだった。私が尋ねるかわりに首を傾げると、彼は僅かに笑みを浮かべたまま告げた。

「恐らく――これは、君に解いて欲しいのでしょう。君に向けて、残した鍵なんです。だから、彼女の母親には解けなかったのかもしれません」
「私に、向けて……」

 どういうことだろう。
 確かに私はユキと付き合いが長いが、いくらなんでも私が知っていて彼女の母親が知らないことなど存在しただろうか。少なくとも基本的なことじゃないはずだ。生年月日も出身地も、そういったことは全て母親と共通している知識だから。
 慎也のことはどうだろう。否、きっとあっけらかんとしたユキのことだから母親にも話しているかもしれない。

 考えろ、私にしか分からない鍵とは一体なんだ。
 彼女の母親が知らなくて、私だけが知っていること。私がここに来ると思って、賢いユキが残したもの――。

「……ダイイングメッセージ」

 そうだ、きっと彼女の母親は知らない。彼女の最後の意思を、知らないはずだ。あれを知っているのは、あの場にいた人間だけだ。私に向けられた、手話のXは――。
 しかし、それではまるで、ユキが自分が死ぬことを知っていたような。全部見越して、この本棚を残したような。
 なんだか、嫌な予感がした。ぞわっと背筋が寒気だって、喉の奥がゴクリと鳴る。私のつぶやきを拾って、沖矢が答えた。

「君に向けたダイイングメッセージの示すもの、覚えていますか」
「……はい。エラリー・クイーンの、Xの悲劇」

 忘れるわけがない。彼女が愛読していた作品の名前だ。彼の質問に答えて、私はハっと顔を上げた。四冊、そうだ、四冊だ。エラリー・クイーンの悲劇は、一作品の読み切りではない。全部で四作品あるのだ。
 本編を読んだことはないけれど、確か、Xの悲劇が最初の事件。

「Xの悲劇、Yの悲劇、Zの悲劇――」
「そして、レーンの最後の悲劇。エラリー・クイーンの書くドルリー・レーンを主人公にしたお話は、全てで四つあります。恐らく、ユキさんが最初ここにしまっていたのはその本ではないでしょうか」

 なら、どうして彼女は本を入れ替えたのだろうか。
 全部分かっていたみたい。自分が死ぬことも、そのあと私がこの家を訪れることも。肉親でもなく、慎也でもなく、友人でもなく。寧ろその人たちにバレることを恐れるような配置じゃあないだろうか。

「でも、これが鍵って……」

 私は大きく首を傾げた。彼の言う通り、その本が鍵だとして、どうやったらこのコラムブックに書かれた数字を反映できるのだろう。上から順当に行くのなら、上の方にあるのがXの悲劇。そのまま下に下がるにつれて、Y、Z、そして最後の悲劇。そう考えるのが普通だろうか。

「いいえ、それでは鍵にならない。さあ、今度は数字を探しましょう。本棚をよく見て、観察して――」

 じい、とその小説たちを見上げる。数字、数字か。こういった暗号でよくあるのは、ひらがな表と本の数が一緒だったり。私はゆっくりとそれらを数えてみたが、どうやら一貫性はないようだった。
 大きな本棚のなか、九十五番目、五番目、六十六番目、五十番目。試しにコラムブックと見比べてみたが、何か数字が浮かび上がるわけではない。

 駄目だ、すぐに沖矢を頼ろうとするな。自分で考えなければ。
 沖矢の言う通り、彼女が私に向けてメッセージを残したのならば。私に分かるように残した暗号だとしたら――。きっとそれは、私が知る内容のはずだ。

 私が知っているユキのこと。彼女が作りそうな暗号。
 ユキは賢く明るい子だったが、自分が好きなことに対しては少々ミーハーなところがある。特に彼女の気に入った推理小説やサスペンスドラマでは、登場人物の真似をすることも多かった。だからか分からないが、少々レトロな趣味があることは否めない。
 沖矢が以前吸っていた、ハイライトだってそうだ。彼女の好きなシリーズの刑事が吸っていたからという理由で、試しにふかしてみたのだ。
 そのなかで、数字が関係あるもの。恐らく、私と一緒にハマったものだ。まったく分からないものを鍵にすることはないだろうから。

「……あ」

 一つ、あった。私とユキと――それから、慎也と。サークルの中で、一度だけ流行ったもの。歩美たちのように、秘密の連絡手段だと、ふざけて買ったものだった。私は確認する、Xと、Yと、Z――最後の悲劇は、きっと、ピリオドのことだった。